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恩師と親友と初恋。

1つ前の話から2ヶ月も間が空いてしまいました。
この2ヶ月…今まで以上に体調の悪い日々が続き、本当はほとんど何も出来ずに苦しんで寝込む事が多かったので更新できず、もし続きを楽しみにしてくださっている方がいらしたのなら申し訳ないです。ごめんなさい。
前回の話はこちらです。
良かったらこちらも読んでください
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黒い帽子に黒い制服、黒いランドセルに革靴を履いていた【カラスの子】が小学校を卒業して、そのまま学園の中等部には進まず、近所の子と同じ公立中学に入学した。

まずは「恩師」の話。

私は小学校4年生くらいからピアノを習っていた。勿論、初孫として可愛がってくれた祖父がピアノを買ってくれたからである。
年に1回のピアノの発表会にはみんなオシャレをして可愛いワンピースやスーツ、先生なんて思いっきり素敵なロングドレスを着ていたのに、私と私の同級生の男の子だけはそこでもカラスの子の黒い制服で曲を披露した。1度でいいから私もお洒落なワンピースを着て演奏してみたかった…貧乏な我が家に望める事ではなかったけれど。
3年間ピアノ教室に通っていた関係で、中学に上がってからは知り合いのお姉さんに憧れてフルートを吹いてみたくなり、部活入部希望の時、先着順だと聞いたので急いで吹奏楽部の部屋に行き、見事3番手でフルートの担当に選ばれた。
そこまでは私が描いた通りの中学校生活だったのだが、その夏、市の陸上大会の選手に選ばれてしまい、夏休みの吹奏楽部の練習に出られず…毎日走り込み。
中距離、長距離は苦手なのにも関わらず、選ばれたのは800m💦周りはみんな速いので苦しんでなんとか役目を果たし終えた…と思ったのも束の間、陸上部顧問のK先生からの「お前、明日から陸上部に入れ!」の一言で、私はそのまま陸上部に引きずり込まれた。今でもそんなことがあっていいのかー!って思う。
陸上部なんか入らなかったら、cocomiちゃんみたいに滑らかにフルート演奏してたかもしれないじゃんよ!(さて、それはどーだか)
K先生がなんの意図があって、私を陸上部に引きずり込んだのか?は定かではないのだけど(聞いた事はないので)陸上部に入ってしまったが為に私は中学1年の後半からイジメられるようになってしまう。同じ陸上部の1年女子達から仲間外れ、無視などのイジメが始まり、それがクラス内にも飛び火して、あることないこと言われるようになり…耐えきれなくなった私は一時期学校を休んだ。
1年の時の担任は新任の男性教師でそれはそれは頼りない先生だった為、母親は陸上部の顧問のK先生に相談の手紙を何通も書いたらしい。K先生は学年主任でもあったので、とにかくイジメをなんとかしようと私を100mからハードルに転向させた。100mハードルをやっていたのは中2のU先輩1人しかいなかった為、陸上部以外でも会えば仲良く優しくしてもらっていた。1年のクラスメイトからは新任教師の提案で私に対する謝罪や応援のメッセージ全員分が書かれた色紙が渡された。そんな事をしなくても仲良くしてくれる親友はいたのだが先生なりに誤解を解きたかったのだろう。色紙は引越しの度に開けないままの段ボールを幾つかその都度運んでいるのでその中のどれかに眠っている。

1年の入学式から一学期の間、初めて隣の席になったU君とは成人してからmixi内で再会し、以後とてもお世話になった。私の初恋にあたるバスケ部のN君の話をしたら、その後、地元で弟さんの結婚式があり、私と話してなかったら絶対気が付かなかっただろうけど話して懐かしくて卒業アルバムを見ていたから隣の披露宴会場にいるのがすぐ分かったと言って、わざわざU君とN君がそれぞれの息子を抱っこした4ショットを撮って送ってくれた。N君はあの頃と何にも変わってなくて、でももう3人の子持ちパパなのか〜としみじみした。
U君とは今もLINEやメールで繋がっているけれど年賀状は女の人からくると奥さんが嫌がるからやめてくれと言われているので一度も出した事はない。
息子が高校に入学する時、義務教育を終えて母子手当等が激減した為(この国のシステムは何事も義務教育までです。困っているひとり親を助ける為の制度ではありません)入学準備の費用が払い切れず、電気が数日止まってしまって途方に暮れて泣き言を言った時もU君が「俺のへそくり2万しかないけど貸すから口座番号教えろ」と貸してくれた。凄く助かった。いつか、息子を紹介出来る日が来たら二人で頭を下げたい。

さて、さっき話題に上がったバスケ部のN君だが、まぁ中学生なんて口が軽くて当たり前だし人の噂は大好きなので、陸上部経由であっという間に知れ渡ってしまい、中学3年間「瞳さんはN君が好きなんだよね」と言われ続けた。でも当のN君には中学の卒業式の時と高1のバレンタインの時の2回フラれていて付き合う事はなかった。「瞳さんがN君を好きな事は知ってるけど、僕じゃダメですか?」って結構色んな人から告白されてきたんだけど、N君はダメだった。ダメだったけど、なぜか卒業式にフラれた後「誰もあげる人いないから」という理由で第2ボタンはその場でもらった。不思議、笑。
N君とも社会人になってからお互い自転車で通勤途中に会うようになったので毎朝「おはよう」と挨拶するようになり、彼氏に連れられてパチンコやゲーセン、ビリヤードに行けば偶然会う事も多く、彼氏そっちのけで昔話に花を咲かせる事もあった。中学時代は恥ずかしくてあんまり話はできなかったから社会人になってからの方が友達として仲良くしていた。先に結婚したのは私の方で、妊娠中に元夫と買い物をしている時にも会っているからN君は私が幸せに暮らしているだろうと思っていただろうにU君にシングルマザー頑張ってやってるとか聞かされてさぞかしびっくりした事だろうと思う。N君には子供3人もいるから安泰かな。

女の子で1番仲良しだったのは体操部のアッコちゃん。アッコちゃんとは毎日学校で話しても話し足りなくて部活が終わって家に帰ってからも毎日長電話して、お互いの親に怒られていた。
休みの日にアッコちゃんの家に遊びに行くとアッコちゃんはいつも無線で話をしていた。その無線の話し相手が後に生徒会長になるS君である。
アッコちゃんとは仲が良すぎたからなのか2年3年は1組と10組という遠く離れたクラスにされてしまい階も違ったので(1学年10クラスもあるマンモス校だった)廊下ですれ違ったり部活の時に見かければ話しかける程度になってしまった。
しかしアッコちゃんの幼なじみの無線仲間S君とは、これまた数年後にmixiで再会したのだが、その頃のS君はオーストラリアに海外赴任中でとにかくドデカイ仕事をこなしていて感心するばかりだった。mixiを退会してからは音信不通だけど海外赴任を終えた今は毎朝、湘南海岸を走り込んでるんじゃないかと思う。

男子の親友「ミッちゃん」
ミッちゃんは1年の時、同じクラスで成績優秀な学級委員だった。新任の男性教師が泣き虫先生で生徒から授業ボイコットされたりしようものなら、すぐに泣きながらキレて職員室に帰ってしまうので仕方なしに先ずは代表として学級委員のミッちゃんと女子の2人が謝りに行き、「こんな事では許されない!」と先生が駄々をこねると今度はクラスメイト全員が1列に並んで1人ずつ謝罪をするのが恒例だった。そんな甘えたちゃんな先生も当時、同じ新任だった女性教師と数年後にめでたく結婚して、あの時は来れる人だけだったけど、1年の時のクラスの半分は来たかな。みんなで楽しくお酒を飲みながら先生結婚おめでとうパーティーしたっけ。
いじめられっ子だった私だけど、ミッちゃんはいつも守ってくれた。隣の席のミッちゃんと後ろの席のナオキとその隣のIちゃんと4人の班は凄く仲良くて、ジャンプ、サンデー、なかよし、りぼんの漫画を持ってきては回し読みしてた。
高校は別々だったけど、うちの母親の強い希望で弟の家庭教師をミッちゃんにお願いすることになる(近所でもあったし)ミッちゃんは快く引き受けてくれ、弟の家庭教師の時間が終わるとそのまま私の部屋に移動してきてコーヒーを飲みながら夜遅くまで語り明かした。たまに「お前んち親さ、こんな時間まで俺がいても何とも思ってないのな」とか言ってたけど、それはミッちゃんが槇原敬之そっくりだからとか、私にとっては女子友と変わらなかったからかもしれない笑。
このままミッちゃんの話を続けると、ミッちゃんとは本当にずっと仲が良くて、高校3年間私の中間、期末テストの面倒も見てもらっていたし(高校違うのにね、笑。弟とミッちゃんの妹も同級生なので、よくミッちゃんの家にも遊びに行っていた)
あの成績優秀なミッちゃんが都内の大学受験に全て失敗してしまい、残すは地元の大学1つだけ!になった時も親ではなく、私が付き添って一緒に合格発表を見に行った。無事、合格していたから良かったものの私の方が気が気じゃなかったのを覚えている。
ミッちゃんが地元で大学生になってくれたお陰で高卒で就職した社会人の私に現役大学生の友達がたくさんできた。彼らにも毒親から逃げる為に家出を繰り返していた私を匿ってもらったり他県へ連れ出してもらったり、ミッちゃん抜きでも本当に凄くお世話になった。彼らの中でも恋愛問題が色々発生して大変な時はあったけれど収まるべきところに収まってくれて良かったと思う。
ただ、ミッちゃんにとってはこの大学時代の失恋の傷が後を引きずり、この後、中学教師になるのだけど、1人の女子生徒の相談に親身になっていくうちに恋仲になり、妊娠させ、懲戒免職となってしまう(嘘みたいな本当の話)
教師ではなくなったミッちゃんはしばらくフリーターをしていたが、何を思い立ったのかある日突然ブラジルに旅立ってしまい(妹に聞いた)イエス・キリスト像の絵葉書が一度届いたっきり、連絡がつかなくなった(妹もミッちゃんのお母さんも何処にいるのか分からないと言っていた)
色んな事があっても私と元夫の結婚披露パーティーの司会や二次会も仕切ってくれたりしたので、せめてあれから私が離婚した事、でもシングルマザーとして頑張ってきたから息子は立派に社会人やれている事をいつか伝えたい。

そして恩師K先生の話に戻る。
ハードルに転向してイジメてくる同学年の女子達と少し距離は出来たものの、完全な解決には至らなかった為、毒母は過剰にK先生宛てに手紙を書いた…らしい。らしい、と言うのはK先生に「お前、家でも大変なのか?」と聞かれただけで、手紙が何通届いたとか内容がどうだとかは聞いた事がないからだ。
毒母がどのように当時の私をコントロールしたかったのかは知らないが、私にとっては例えイジメられていても家に帰るより部活に出て走っていた方が全然マシだった。
ただ、K先生に陸上部に引きずり込まれる事なく吹奏楽部でフルートを吹いていたら人生違っただろうな…とも思う。フルートはきっと祖父が買ってくれただろうし、問題なかったのだから、そっちの人生を歩んでみたかった。
そういう意味ではK先生を恨んでいるかもしれない。
K先生は学年主任という立場を使って3年時の自分のクラスに私を入れた。
2年の担任は英語のヒステリックな女性教師で、これが本当に酷い女で成績優秀な生徒しか相手にしないもんだから、それこそ授業ボイコット、白紙提出、授業そっちのけで大騒ぎ…なんでもありの1年間だった。私にはこのヒステリックな女性教師がだんだん毒母に見えてきてしまい、恐怖からかそのうち咳が出て止まらなくなるようになった。毒母の場合は結核の疑いがあると入退院を繰り返してきたが、私の場合は精神的なものだろうと中学2年で初めて精神科を受診した。その後は咳が止まらなくなると保健室へ行き、部活も休みがちになった。今、考えてみればあれがパニック発作の始まりだった。
この時も毒母はK先生宛てに手紙を送り続けていたのだと思う。
そして3年生に進学。K先生のクラスになる。
高校へはバスケ部のN君と同じ高校に進学したかったが、両親ともに商業高校出身で(父親はサッカーで有名なあの高校)尚且つ、女は大学に行く必要はないんだから高校を卒業してすぐ就職する為には普通校ではなくて資格がとれる商業高校へ行け!の一点張り。私立の小学校から公立中学へ希望を出した時のように学費が安くなるからとかで、また私の希望が通る話ではなく、【とにかく商業高校だ!】なので、泣く泣く志望校を商業高校へ。滑り止めで受けたヤンキー揃いの女子商業なんか死んでも行きたくなかったので、毒母が決めた各科ある中、1番成績優秀な女子だけのクラスを受験し、難なく合格。男女共学なのにそこの科2クラスだけ女子クラスという暗黒の3年間が始まる訳だけど、それはまた次の機会に。

親友や好きな人の事を書きつつも、私の歩んできた道はいつも裏で母親がどうにかして自分の思うようにしてやろうと邪魔をしていたという事実が分かってもらえれば。

卒業式の日。
その頃、流行ってたサイン帳にK先生にも一言書いてもらった。それも多分どこかの開けてない段ボールに入っている。


「人間は考える葦である。後悔先に立たず!」


フランスの哲学者パスカルの言葉。
人間は自然の中では葦のように弱い存在である。しかし、人間は頭を使って考えることができる。考えることこそ、人間に与えられた偉大な力である。

  

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今日は12月29日。
今年2023年もあと2日で終わりですね。
皆さんはどんな1年だったでしょうか?
後悔があった人もなかった人も
来年2024年は後悔のない穏やかで素敵な1年が送れますように心よりお祈り申し上げます。


私のくだらない中学時代の話などを最後までお読みくださった方
いつもありがとうございます。
また次も宜しければお立ち寄りください。
寒さ厳しくなっておりますので、どうぞご自愛くださいませ。

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