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新海誠「すずめの戸締まり」

生きることに意味はあるのか?
生かされたことに意味はあるのか?
生きてることに意味があるのだ!
新海誠は力強く「生」を肯定する。
死んだってかまわない。
生きていても仕方がない。
諦めを口にしてはいないか?
危険を省みず扉を閉じるための旅路。まるで自分の命を軽んじるような主人公。生き残ったことと生かされていることの狭間で影を背負って生きている。
死に場所を探すかのような旅だ。彼女はあたかも命を懸けて何かを成すことに生きる意味を見出だそうとする。
すなわち懸命である。そして無謀でも。
だがその旅は同時に、誰かの優しさで成り立っている。そうだ。声高に生きてることそれ自体の意味(無意味)を掲げなくとも、日々を生きている全ての他人たちは彼女が生きていること、彼女が歩む旅を、肯定してくれていたことに気づく。
誰もが想定し得る共有の優しさで彼女に接してくれる。会話が予定調和。それは新海誠的なご都合主義として批判されるべきであるかもしれないが、出会う人出会う人は皆、彼女の発する聞こえない叫びを掬い取ってくれていたのではないか?
「生きていても意味がない」=「助けて」の叫びを。
決して言葉には出さないが、死に場所を探すような旅は優しさに出会う旅となる。それは生き直すための物語。
さよならを言うための旅だ。かつての、そして今もなお、人生という道に迷っている、あの日の自分に別れを告げて再び生き始めるまでの。
開けた扉はいつかきっとまた閉めなければならない。単純でありながら奥深いモチーフだ。扉の先の世界はどこに繋がっているのか。
あの世なのかこの世なのかは判然としない。しかしその扉はいつか見た風景、心の奥底に繋がっている。かつて迷ったあの場所に、かつて見失ったあの景色に。
危険な旅に身を投じる彼女の動機がわからないのは当たり前だ。彼女には彼女にしかわからない、彼女にもわからないかもしれない迷いと惑いのなかで生きている。語りたがりの新海誠が語らない彼女の内側。時おり見せる「あの日」の風景が彼女の内側にある重みを想像させる。
彼女はきっと時だけがあっという間に過ぎて、いつの間にか成長してしまった幼い子供。生と死の間で揺らぎながら生きている少女。
それを察するのはきっとうまく言えない波長が合うものだけ。新海誠は確かにそんなセンスオブワンダーを、彼女と彼女が挑む危険のなかに忍ばせてくれている。
だからきっとこの旅は、優しさに包まれたなら見えるものがあることを教えてくれる。
恋はチカラ。
新海誠らしいエッセンスに苦笑するかもしれない。しかしそれくらい潔いほどに、この映画は人が人を思う心で動かされている。
消費されるエンターテインメントではない。残すべきメッセージとして映画は来るべきところに到着する。
いってらっしゃい、おかえりなさい、こんにちは、ただいま、ありがとう、おやすみ。なんでもない言葉たちが最後に輝き出す。
これは禊でもあるのだ。まさしく穢れを払い身を清めるということ。自らに向き合い剥き出しの己と対峙すること。
まっさらな気持ちでそのとき彼女が口にする言葉こそ胸を打つ。自分を人生という大いなる旅に送り出すのは自分だ。
新海誠は死に近づきながら生を肯定するのだとあらためて思う。誰かを思うあなたならきっとこう思うはずだ。生きていてよかった。

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