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「人は人、自分は自分」という尊重

「理解はできないが、受け容れる」
という言葉を不意に思い出して、梨木香歩さんのエッセイ『春になったら苺を摘みに』を再読しました。

本作は、梨木さんが学生時代に英国留学していた時の思い出を中心に綴ったエッセイです。
そして冒頭の言葉は、留学時にお世話になった下宿先の女主人・ウェスト夫人の生き方を、梨木さんが一言で称したもの。
それを裏付ける様々なエピソードを通して、読む側もまた、ウェスト夫人の博愛精神に触れることになります。

私はこの言葉をどうしてもマイノリティの視点で考えたくなってしまうんですが、今回再読してみて「それよりもっと広い意味で問われるものだ」と、考えを新たにしました。


実は、この本を再読しようと思ったきっかけの「理解はできないが、受け容れる」を思い出したことには理由があります。

少し前に書いたnoteで「若い世代の人たち同士でチャットツールを使うと、文末に句点(。)を使わない」という傾向について触れました。

それを知った時は、考え方や受け止め方の違いって面白いなあ、ぐらいの感想だったんですが。
後になって、チャットツールで文末を句点で終わると怒っているように見えるとして「マルハラ」と非難のトーンで呼ぶ風潮を知り、いやそれは違うだろうと思ったんです。

「句点で終わられると怒っているように思えて怖い」と感じるのは自由ですが、それを理由に非難や揶揄で他人の行動を変えさせようとするって、怖いなんて言っておきながらなかなか逞しいことだなと。
(※この話題を取り上げているニュースサイトのクリック数に貢献したくないので、見出しだけ見て書いています。認識に違いがありましたらコメントいただけると幸いです)


冒頭で紹介した「理解はできないが受け容れる」という一文の前には、こんな文章があります。

自分が彼らを分からないことは分かっていた。好きではなかったがその存在は受け容れていた。

『春になったら苺を摘みに』230頁より引用

ウェスト夫人のそのあり方は、簡単に実現できるほど生やさしいことじゃないのは承知しています。
ただそれでも「分かり合う」ことって、他者が自分とは違う感じ方をする、違う人間である事実を認識して、尊重することから始まると思うんです。
自分が心地よくいられるように、他人に変わってほしい。そんな思惑のもとに放たれる非難や揶揄からは、決して生まれ得ないこと。


『春になったら苺を摘みに』には、ウェスト夫人以外にも、ディディという女性の印象的なエピソードが登場します。
他にも、戦争中にアメリカの強制収容所で過ごした人の言葉や、梨木さんご自身が遭遇したカナダのプリンスエドワード島へ行く夜行列車での出来事などもあり。
読み通すことが、違う国に生きる人の価値観に触れる体験とも言えるんです。

遠くとも難しくとも、理想として心に留めておきたい。
そんな静かな決意を新たにする一冊でした。
機会があれば手にとってみてください。



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