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映画感想 もしもガンダムをよく知らない人が『逆襲のシャア』を見たら……?

 今回、変なブログタイトルですが、『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』の感想文です。
 どうしてこんな変なタイトルを付けたのかというと、本当にガンダムをよく知らないから。まったく知らないわけでもなく、過去に何度か見たけれども、いまいちピンと来なくて……。たぶん、ガンダムシリーズは私には向いてないんだろうね。

 それでも『逆襲のシャア』はガンダムファンから神格化されている1本。果たしてどんな内容なんだろう……と気になっていたので、「よし、一度見てみようか」……というのが今回の動機。
 で、ザックリな感想だけども……。最近見た映画、SF映画の中でもっとも理解が難しい作品だった。なにしろ作中に出てくる用語のほとんどが専門用語。しかも『逆襲のシャア』だけではなく、他のシリーズも見ていることも前提にしている。見ていても、台詞の半分くらいは理解できない。最近例に見ないくらいに、薄らぼんやりした印象で作品を見ることになった。

 とりあえず、わかっている範囲での感想文を書いていこう。

 まず物語の前提には、「地球対宇宙」という構図がある。地球は人口増加と資源の枯渇という問題を抱え、それが人類の宇宙進出を促した。作中「スペースノイド」と呼ばれる人達が宇宙進出を果たした人々だ。しかし宇宙に出たのは貧困層ばかりで、富裕層は相変わらず地球に留まり、その以前から続いている権威を宇宙時代においても振るった。ここから「支配者としての地球」と「植民扱いの宇宙」というすれ違いが生まれてくる。

 この問題に異議を唱えたのがジオン・ズム・ダイクンで、「ジオン共和国」を創り出し、宇宙連合の結束を訴えた。が、この野望はザビ家によって打ち砕かれ、ザビ家主導による「ジオン公国」が生み出されることとなる。ジオン公国はジオン共和国から側がそのままで、中身だけを変えた国だった。
 これが最初のテレビシリーズ「1年戦争」の背景にあったものである。
 ジオン公国は連邦アムロ達の敵……として描写されるが、その切実な想いには共感すべき部分は多い。しかし、ジオン公国はモビルスーツを持たない連邦に対する一方的な侵略行為、およびコロニーを落下させての大量虐殺……と、過激な行動を取るようになっていく。ゆえに、いつの間にか「善VS悪」の戦いに陥っていき、ザビ家率いるジオン公国は時代の狭間に消えていくことになる。

 地球からの独立は、凄惨な悪夢に変わり、最後には踏み潰されて終わり……だった。まあ、戦争なんてものは「勝った方が正義」なんで……。今も昔も、宇宙時代も。悲しいけどこれが戦争なのよね。

 1年戦争はザビ家の死によって終結するが、その後、ジオン公国の意思を次ぐネオ・ジオンが台頭し、やっぱり地球連邦によって潰される。  その次にやってきたのが、ジオン・ズム・ダイクンの遺児、シャア・アズナブルを総帥とする新生ネオ・ジオンだ。「ネオ・ジオン」という組織名を借りているが、ジオン公国との関連性はまったくなく、新たな組織として宇宙連合の指導者となろうとしていた。
 シャアは旧態依然の「地球対宇宙」という対立構造を破壊させるために、地球に小惑星を叩き落とす作戦を画策し、決行する。地球に小惑星を落とせば、地球全体の環境が変わり、寒冷化する。すると地球は食料生産が立ちゆかなくなっていき、やがて勢力も弱り、弱くなればどうあがいても「支配者としての地球」の立場は地位に落ちる。
 それはジオン公国が引き起こした「コロニー落とし」の再来でもあり、結局のところシャア・アズナブルはジオンの凶暴な側面を引き継ぐことになる。

 というストーリーが、映画の前半10分ほどに描かれたプロローグ。
 シャアは計画通り小惑星を地球に落下させ、チベット周辺の地域がまるごと消失。チベットだから、宗教的な大きな拠点にもダメージを与えたこととなる。
 これにより地球側は大混乱。地球を脱出しようとする人々で溢れかえるのだった……。

 最初の10分くらいの内容を書き起こしただけで、この情報量。というか、ここまでに書いた内容……合ってるかい? よくわかってないまま書いちゃってるけどさ。
 とりあえず、続き書くよ。

 シャアはさらに小惑星を落とすつもりだ! しかし地球周辺にめぼしい岩石群なんてもうないはず……。さて、新生ネオ・ジオンの次なる一手はなんなのか? アムロ達が所属するロンド・ベルが調査するが、ネオ・ジオンの計画もシャアの行方も掴めずにいた。
 宇宙コミュニティの中にはすでにネオ・ジオン、シャアのシンパが一杯いて、地球連邦の手先であるロンド・ベルの調査にもぜんぜん協力してくれない。全コロニーを片っ端から調査したが、やはりシャアの居所は掴めない。しかもネオ・ジオンは新型モビルスーツの開発していて、現在の軍事力では対抗が難しい。アムロはネオ・ジオンの軍力に対抗できる、ニューガンダムの開発を指揮するのだった。

 シャアの立ち位置は、思想テロリスト。単に暴れたいだけの狂信者グループではなく、はっきりとした政治意思を持って、そのうえで狂気としか言いようのないテロを計画する。地球に小惑星を落として気候を強制的に変えよう……というのは犠牲が大きく、まさに狂気的な計画なのだけど、迫害を受け続ける宇宙コミュニティ側はシャアの計画に心酔し、協力しようとする。この辺りでスペースノイドたちが受けてきた差別の深さを読み取ることができる。
 ちょっとシャアにアドルフ・ヒトラーの姿が被る。ヒトラーは過去の敗戦で経済破綻したばかりではなく、「国家としてのプライド」を傷つけられたドイツ国民に「強いドイツ国民」の姿を訴え、蜂起を促した。コミュニティごと劣等者という立場に追いやられると、極端に強権的、排他的な指導者が支持される。シャアに心酔していくスペースノイドたちにそういう姿を見て取れる。

 一方の地球側は、どこのシーンを見てもほとんど自然が描かれない。香港を出て郊外を車で走るシーンが描かれるが、どこまで走ってもえんえん荒野。コケすら生えていない。地球の環境がすでに「虫の息」であることがわかる。
 しかし地球の富裕層になると、「虫の息」の地球環境をさほど危機的という意識がない。富裕層の住宅周辺だけは自然豊かな緑が残り、ゆえにどこか脳天気に考えている。富裕層が陥りがちな心理として、「多くの人が困っていようが、自分が大丈夫なら別にどうでもいい」といった状況が描かれている。
 それだけ脳天気でいられるから、あからさまなシャアの危ない交渉に騙されて、小惑星を一個まるまる預けてしまうわけだが。

 映画の全体は、「シャアVSアムロ」というライバル対決が主軸になっているわけだが、もう一つ主軸になっているのはハサウェイ・ノアとクェス・パラヤの二人。この二人が、「シャアVSアムロ」対立の中にあるもう一つの対立構図という入れ子構造で描かれている。
 クェスはニュータイプ(超能力みたいなやつ)の強烈な才能を持っているが、そのクェスはジオン側へと移ってしまう。「シャアとアムロ」をくるっと反対にしたような人物配置で描かれる。

 作中のキーパーソンに成長してしまうクェスは、ニュータイプの素質が強すぎて、ほとんど「巫女」みたいになっていく。次第に神がかった能力を発揮して、周辺の人や物の位置把握だけではなく、あらゆる人間の念も感じるようになっていく。
 クェスがある艦を破壊する時、画を見ると一瞬父親の姿がよぎるように描かれている。ということは、クェスはあの艦の中に父親がいることを察しながら、撃ったのだ。強烈なファザーコンプレックスに、シャアへの心酔がエスカレートしていき、次第に狂っていく姿が描かれていく。実の父親を殺して、シャアを(理想の)父親に据えたのだ。ニュータイプが陥るかもしれない危うさが描写されていく。
 そんなシャアを、「軍事利用できる」と見込んで、クェスにとっての理想の父親を演じ、クェスを危ない方向へどんどん推し進めてしまう。

 そんなシャアも、内面的な危うさをどこかに抱えている。部下でもあるナナイ・ミゲルとの公私を超えた関係を結んでおり、特に私生活ではナナイから母性的な対応を求めようとする。表向きには鉄壁のカリスマ性を発揮しながら、その裏で傷つきやすい幼児的側面を受け入れてくれる相手を求めてしまう。
(やっぱりイケメンに甘えられると、女はコロッといっちゃうもんかね……)
 シャアは以前、ララァ・スンに並々ならぬ愛情を注いでいた。ニュータイプとしての強烈な素質を持つララァはある種の「兵器」だったが、シャアはそれを越えた愛情を持つようになる。「私の母親になれたかも知れない女性」と語るように、ニュータイプとしての導き手という立場をこえて、母親の代わりになることを求めていた。
(シャアはララァを神格化した存在と見なしていたから、性的な関係はなかっただろう。ナナイともそういう関係はなかったのかも知れない)
 だが、それを喪失した哀しみを、その後もずっと抱き続けるようになる。アムロに対する憎しみや対抗心は、そういうところから始まっていう。
 シャアがクェスを受け入れたのは、ララァの姿を重ねたからだと思うが、しかし間もなくシャアは、クェスは子供過ぎてララァになり得ないことに気付く。一方でシャアは父親にもなれない。クェスはシャアに心酔し、父親代わりを求めてくる。シャアは母親代わりになってくる女性を求めている……ここでどうしてもすれ違ってしまう。

 シャアはジオン・ダイクンの遺児としての立場や、そんな自分を総帥に立てようとする人々の期待に応えようという責任感と、ララァ喪失による絶望、アムロへの怒り……そういった葛藤を持ち、やや錯乱した思考が、やがて「小惑星落下」という狂気的な行動へと駆り立て、スペースノイド達を扇動していく。シャアはジオン総帥としての立場と、個人的な葛藤をごちゃごちゃにして、その混乱を自身で解きほぐすことができないまま計画を遂行しようとする。かなり狂気的な人格、その狂人に扇動されていく人々を狂気的に描いている。
 しかしそういう複雑さを持っているからこそ、シャアはキャラクターとして厚みがあり、とてつもない魅力を放っている。アムロはわかりきったことしか言わないわけだが、シャアは正気と狂気の狭間で揺れ動く様が描かれていく。物語として読むと、シャアというキャラクターの方が圧倒的に魅力的。例え計画内容が狂気に基づくものであっても。

 『逆襲のシャア』は1988年の作品。今から33年前だ(テレビシリーズは40年前)。この時代に、ここまで異様な濃密さを持ったSFが映像化されていたことが驚きだ。宇宙移民時代がもし来たとして、それが社会を構築するほどに文明が進むと起きるであろう社会葛藤を予言的に描いている。人間が取るであろう行動様式的な部分はどんなに文明が発展しようがそうそう変わるものではない。今から30年以上も前に、ここまでに厚みを持った神話的なSFをすでに作られ、映像化されていたことが凄い。なるほど、『ガンダム』シリーズがここまで名作の誉れを受けるのは、こういうことだったのか。
 こうした複雑すぎるストーリーは、まずハリウッドでは受け入れられない。描かれたとしても、大雑把な勧善懲悪に書き換えられてしまう。知能指数40くらいの内容じゃないと企画は通らない(アニメだとさらに知能指数は落ちる)し、だから作り手は表向きには知能指数40を装いつつ、どのようにテーマやシーンを描くのか、を主題とすることとなる。それはそれで、読み解くのが面白かったりするのだが。
 『逆襲のシャア』のような厚みがありすぎる世界観のアニメが映画として作られるのは、日本ならでは。凄いものを見たなぁ……と、内容のほとんどを理解できてないながらも圧倒されるものは感じた。

 ただ、映像としての見所が弱いのが難点。シーンの一つ一つがさほど美しくないんだ。それぞれのシーンが美しくないから、なんとなく印象に残らず通り過ぎてしまう。どのシーンも常に難解な背景設定やテーマを抱えて描かれるから、どうにも画の一つ一つに落ち着きが感じられない。
 キャラクター達の情緒もあまり深く掘り下げられているともいえない。心情で感じ入る場面が少ない。これも画の弱さにも絡んでくる問題だが、シーンの一つ一つを見ても、そこにあるべき感動が弱く感じられる。
 一つ一つのシーンが濃密に敷き詰められていて、どうにも落ち着かないし、余韻も少ない。この濃密さなら、2時間半くらいあってもいいはずだ。それくらいの尺があったとしても、長さは感じないだろうし、むしろドラマとしての凄みが出てくるはずだ。
 こうしたところが、まだアニメ技術が洗練されていないし、製作面も突き詰められていない。アニメがまだ混沌とした時代を脱しきれていない。「描かれるのが早すぎた作品」だったように感じられる。
(だからといって、今『逆襲のシャア』を描いても、当時のような「作画の熱気」が再現できるとはとても思えなし、越えられるとも思えない)
 かつては名作だったかも知れないけれども、今時代に見るとやや精彩さに欠く。視聴するのが遅すぎたなぁ……と後で思うのだった。


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