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映画感想 犬王

 室町時代にいたかもしれないロックスター。その名は犬王!

 『犬王』は室町時代を舞台とした湯浅政明監督による5本目の劇場アニメーション作品だ。タイトルにもなっている「犬王」は15世紀頃、世阿弥と同時代に実在した猿楽の名手であるが、奇妙なことにほとんど記録に残されていない。Wikipediaで「犬王」を見ても、書かれているのはほんの数行。この謎めいた人物を題材にした作品が、古川日出男による小説『平家物語 犬王の巻』だ。湯浅政明監督のもとにオファーが来たとき、企画にロックアーティスの写真も添えられていたらしく、映画プロジェクトの初期段階でライブシーンを現代的に描こうという意図が窺える。
 本作は室町時代であるが、『平家物語』と強い関連を持っている。原作の古川日出男は『平家物語』の現代語訳版を手がけ、『犬王』はそれに連なる作品として発表している。ある意味『平家物語』の続編でもあるわけだ。
 ちょうど本作を制作したサイエンスSARUの作品に、山田尚子監督『平家物語』があるので、こちらを本作視聴前に見ておくと理解力が高まるはずだ(山田尚子監督『平家物語』は古川日出男現代訳の『平家物語』をベースにしている)。ちなみに山田尚子監督『平家物語』と本作『犬王』はともに2022年公開(『犬王』はもともと2021年公開予定だったが、延期された)。この2作を前後編の物語として捉えてもいいだろう。

 では、前半のストーリーを見ていこう。


 ――今は昔。能が「猿楽」と呼ばれていた頃。朝廷は二つに分裂し、互いに争い合っていた。時の将軍である足利家は、天皇としての証である三種の神器を求めていた。三種の神器、即ち八咫鏡・草薙剣・八尺瓊勾玉の3種であるが、草薙剣は先の戦で壇ノ浦の海底に沈んでそれきりだった……。

 物語はその壇ノ浦を前にした漁村からはじまる。村では漁での仕事だけではなく、壇ノ浦に沈んだ平家の遺品を拾い集め、それを売って生計を立てていた。そんな村に京都からの使者がやって来て、ある仕事を依頼する。「草薙剣を引き上げよ」――もちろん充分な報酬を提示して。
 それを引き受けた友魚(ともな)とその父親は、間もなくそれらしい遺物を発見し、引き上げる。だがその剣を引き抜いた瞬間……友魚は目が見えなくなり、父親は腹が引き裂かれて死んでしまう。それは間違いなく草薙剣だが、長年壇ノ浦の海底に沈み、平家の怨念を吸い上げて“呪われた剣”となっていた。
 父が死に、自分は盲目になってしまった。友魚の母親は発狂して、間もなく死んでしまう。天涯孤独となってしまった友魚は、旅に出ることとなる。あの時、剣の引き上げを依頼した男達を探すために、京を目指した。
 その最中、宮島で琵琶法師の谷一と出会い、同じ盲目の仲間として引き入れられ、旅をしながら琵琶を学ぶことになる。
 2年後、ようやく京都にやってきた友魚は、京都の琵琶法師を束ねる「覚一座」に入門し、「友一」の名前を与えられる。
 同じ頃、京都では面をかぶった「異形の者」が闊歩する……と恐れられていた。とある夕暮れ時、友一の前にかの異形が現れる。異形は友一を脅かしてやろうと「ひょうたんの面を外してやるぞ!」と言うが、目の見えない友一には通用しない。驚きも怯えもしない友一に、異形は拍子抜けしてしまい、「琵琶か、それ弾けんのか?」と尋ねる。
 「もちろん」と友一は即興で琵琶を弾き、異形がその音に合わせて踊る。一曲弾き終える頃にはすっかり意気投合した二人は、そのまましばらく語り合い、やがて別れる。その別れ際に、友一はこう尋ねる。
「俺の名は友魚。あるいは友一だ。お前をなんと呼べばいい?」
「俺の名か? 俺は比叡座の舞台にその名を轟かせる――」


 ここまでで26分。

山田尚子監督『平家物語』の一場面。二位尼が8歳の帝に「波の下に都がございます」語りかけ、身を投げるシーン。この時に草薙剣も喪われる。

 ここからはネタバレありで本作の詳しく掘り下げていこう。

 まず時代設定はいつ頃なのか? 映画の最初に、朝廷が南北の2つの時代に別れていた頃……と説明される。教科書的には「南北朝時代」と呼ばれる区分だが、この時代は実は意外に長く、1337年~1392年もある。ただ、室町幕府を興した足利家が将軍だった時代のお話しなので、広義の意味では室町時代とされている。
 南北朝時代がどういったものか説明すると、鎌倉時代後半から天皇家は2つに分裂し、代わる代わる天皇の座につく……という体制を取っていた。それが室町時代後半になってくると、「我こそ本家だ」「いや、我こそ本家だ」と争い合うようになり、光明天皇が京都に留まり、それに対抗して後醍醐天皇が京都の南側に拠点を作った。室町幕府の足利家は北朝である光明天皇を支持していた。
 さあ、どっちが正統の天皇なのか……。正統な天皇であることを示すためには2つの要素が必要だ。一つ目には「血筋」――これはどちらの天皇も持っている。もう一つは三種の神器。八咫鏡、草薙剣、八尺瓊勾玉の3つ。そのうちの1つである草薙剣が壇ノ浦に沈んでしまっている。あれさえ手に入れれば、堂々と「我こそが真の天皇だ!」と宣言できる。そうしたわけで本作の冒頭で、草薙剣探索が描かれたわけだが……。

 もう一つ、本作の時代を特定する重要な人物である、この美少年。藤若という名前だが、後の「世阿弥」である。
 足利義満と藤若が出会ったのが1375年。藤若12歳の時。作中で出てくる藤若も声変わり前の少年として描かれるので、だいたいこの頃だと考えられる。足利義満は12歳の藤若に惚れ込んで、以来寵愛するようになったという。まだ「少年愛」が堂々と語られていた時代だ。

 1375年頃であるとすると、室町幕府第3代将軍である足利義満は17歳くらい。まだまだ若い頃だった。
 足利義満……という名前だけだとちょっと聞き馴染みがないように感じられるが、『一休さん』に出てくる将軍様とは彼のことである。

 ではもっとネタバレな話を掘り下げていこう。

 この物語は「呪い」が重要なファクターとして描かれる。まず草薙剣を引き上げるシーン。箱の上には、「平家の怨念が宿っている」と今でも言われる「ヘイケガニ」が乗っている。壇ノ浦の戦いは1185年(元歴2年)。『犬王』の時代から190年前だが、まだあの時代の呪いは清算されていなかった。

 190年平家の怨念にさらされ、“特級呪物”となっていた草薙剣。その剣を触るだけ、見るだけで呪いを受ける……とてつもなく危険なものとなっていた。

 ちなみに、実際には草薙剣は壇ノ浦に沈んだ後、回収されることはなかった。鉄は水に弱く、200年も水の中に放り込んだら上の画像のように跡形もなく消失してしまう。草薙剣も残念ながらこのように消失してしまっただろう。
 現存している草薙剣は後に作り直したものである。

 もう一つの「呪いの物語」がこの仮面。犬王の父親は、この見るからに怪しい仮面に、「力が欲しいか」と囁かれる。芸能の力が欲しかった犬王の父親は「何でもやるから、力をくれ」とお願いしてしまうのだった。
 もうわかるように、この「呪いの仮面」は「猿の手」。確かに望みを叶えてくれるけど、その当人の望まぬ形で実現させ、しかも大きな代償を要求してくる。

 呪われた仮面の力で、このおじさんは「一時代」を築いたわけだ。

 その裏で、おじさんは呪いの力に突き動かされ、琵琶法師達を斬りまくっていた。なぜ琵琶法師たちを斬っていたのか?
 『平家物語』を歌で継承していたのは琵琶法師たちだが、琵琶法師達は盲目だった。平家は壇ノ浦の戦いの後、一族が絶えてしまったのではなく、日本のあちこちに隠れ住んでいた。現在でも「平家の隠れ里」は残されていて、かつてのような時代ではないから「隠里だった」と公開されているものの、そこは今でも信じられないくらい文明から遠ざかった山深いところにある。
 そういう人目を避けて隠れている里に唯一立ち入って、「話」を聴けるのは琵琶法師だけだった。なぜなら琵琶法師であれば場所が特定されることもないからだ(多分そういうことだったんでしょう……)。平家の知られざる「物語」を知り、歌にできるのは琵琶法師だけだった(琵琶法師以外の人が立ち入っても、何も話してくれないし、「平家の生き残り」であることも明かしてくれないだろう)。
 犬王の父親は、おそらく呪いの力で琵琶法師を斬りつけるときに、彼らが持っている「物語」を奪い取ることができたのだろう。そうやって、「誰も知らない物語」を自分のものにし、それを舞台上で表現して一時代を築いていた。

 しかしおじさんの栄光は「猿の手」によってもたらされたもの……。二人の息子は見るからに「才能」がなかった。おじさんは焦る。せっかく一時代を築いたのに、技を誰にも継承できない。技と名声が自分の代で絶える……と焦る。
 そんな時、ふと見ると息子の一人が軽やかに踊っているのに気付く。仮面の呪いによって生まれた異形の子で、名前すら付けず、「犬」として育てていた、あの息子だ。あの子に才能が引き継がれているのを気付いて、おじさんはいよいよ正気を壊していく。

 では犬王の舞にはどんな意味があったのか?
 犬王の舞はいわゆるな「創作ダンス」ではなく、「鎮魂」「慰霊」の意味合いがあった。亡霊達から平家にまつわる「話」を聞き、それを舞台上で表現する。ただ話して語ればよい……というのではなく、多くの人々に「平家の無念」を知ってもらうこと。そのために、人々が熱狂しやすい「歌と踊り」で表現されていた。
 この時の描写が「お祭り」っぽく描かれているのもポイントで、「祭」とは「祀る」ことでもある。古代ではタタリを鎮めるために、お祭りが催されていた。お祭りとは元来、そういうものだった。「平家の怨念」という、この時代でもいまだ清算しきれていない呪いを慰めるために、真新しいお祭りを作り上げ、その熱狂で怨念を成仏させようとした。
 それで一つ怨念が清算されると、犬王に取り憑いていた呪いが一つ解除される……という仕組みとなっている。
 犬王自身、「呪いの複合体」のような存在だったが、歌と踊りによってお祭りを引き起こし、怨念が一つ浄化されるごとに、人間の体に戻ることができる。
 ここで「呪いからの解放」と「自己実現の物語」が組み合わさって、ドラマとして成立する構造になっている。この構造は見事なものだった。

 犬王によるライブシーンの一つ。
「元歴2年。壇ノ浦。源氏を前に、平家の統領宗盛は船からそれを見、占わせた。
それででっかいでっかい鯨。迫り来るでっかい鯨。
これは賭けさ、千ものイルカ。泳ぎ帰れば勝つ壇ノ浦。
すべての命運占うイルカ。さあどちらへつく? 占えイルカ」
 ……という歌。

山田尚子監督『平家物語』の一場面。壇ノ浦の合戦。
平宗盛。苦労人であった平重盛の弟。平清盛の死後、宗盛は平家の棟梁となる。

 このお話しは事実なのか伝説なのかわからないが、壇ノ浦の戦いの時、ふとイルカの群れが海底を横切ったとされる。「あのイルカの群れが我らのほうへ来れば、勝てる!」……いわゆる「奇瑞」(めでたいことの前兆として起こる不思議な現象)なのだが、残念なことにイルカの群れは源氏側に向かったのだった。
 「もしもあのイルカが、こっちの側についてくれたらなぁ」……とこの場面では歌っている。「あの時のイルカがこっちについてくれたら、勝ってたかも知れないのになぁ」……と。

 ところが最終的に犬王の真新しい「平曲」は禁止されてしまう。なぜだろうか?
 このお話の前景は南北朝時代だ。朝廷が2つに分裂し、「我こそが本当の天皇だ」と争っていた時代だ。そのために北朝は草薙剣を手に入れようとした。
 で、草薙剣を手に入れ、覚一による『平家物語』が編纂された。つまり、「草薙剣はこれこれこういう経緯で喪われたけど、自分たちの手元に戻ってきたよ」という「正史」だ。しかし犬王たちが亡霊達から聞いた話を(願望を込めた)物語にして歌っている。すでに紹介した、壇ノ浦にやってきたイルカの話も、歌の中では「こっち側に来てくれたらなぁ」という「願望」を語ってしまっている。「鎮魂」のためであればこう歌うのは必要なことだが、「事実」ではない。あんなものが広まると、人々から「あの正史は違うんじゃないか」という疑念が生まれ、間もなく権力の座につこうとする天皇を疑うようになるかも知れない。
 乱れた世を立て直そうとしているという時に、それはまずい。確かな権力の確立と、太平の世のためにも、『平家物語』の「異伝」は潰して回らなくちゃいけない。そのために、友有は処刑、犬王にはそれまでの曲をすべて捨てさせた。

 本当は犬王は舞台上で処刑……の予定だったが、呪いが解けてしまい、処刑にする理由がなくなってしまった。足利義満はその代わりに犬王を一生「飼い殺し」にする。犬王は友人のためにそれを受け入れるのだった。

犬王への「飼い殺し」を宣言する場面。桜の植え替えが描かれている。要するに、「新しい時代が来ますよ」という表現。犠牲はあったかも知れないが、平和な時代を築くためには仕方のないことだった。

 友魚の父は呪われた剣を手にしたしまったことで死んでしまった。そのため、怨霊として残ってしまうことになる。ところが友魚が「友一」と名前を変えると、父は息子の姿を見付けられなくなった。これはなぜなのか?
 「諱(いみな)」といって、「本当の名前を隠す」という風習がある。日本においてはアイヌ民族がそれで、みだりに本当の名前を言うと、山に住む魔物に連れさらわれると考えていた。それで普段は、家族単位で暮らしていたから「アチャ(父)」「ユポ(兄)」「サポ(姉)」というふうに呼び合っていた。
 特に山の中では魔物の気配が強くなるので、絶対に名前を呼び合ってはならない。もしもはぐれてしまったときは「カッチー、カッチー」と声を上げて呼び合うことになっていた。
 『犬王』はこの風習を元にしている。幽霊になると肉体を失い、「概念」の存在になってしまう。だからこそ、その個人を規定する概念である「名前」が重要となる。名前を変えてしまうと、幽霊からは特定の個人を見付けることができなくなってしまう。名前だけが頼り……ということになってしまう。それで友魚の父親は、名前を変えた友一を見付けることができなくなっていた。

 映画の最後、物語の中で「平家の怨霊」は解消されたが、最終的に友有の怨霊がこの世に留まることとなってしまった。どうしてこうなったかというと、死に際に「我は友魚!」と宣言したから。
 犬王は自分が死んだ後、当然ながら友有を探したが、しかし犬王が手がかりにしていたのは「友有」という名前。だから600年、友有の怨霊を見付けることができなかった。
 ところが友有の怨霊は琵琶を弾きながら、我が身の上を語り、語り続けてその最後に、「ここに“有る”のか」と呟く。その瞬間、やっと犬王が友有の姿を発見し、怨霊が浄化する……という流れになっている。

 本編の「解説」はここまで。ここからは「感想」。
 雅やかな平安時代が終わり、源頼朝を将軍とする鎌倉時代も終わり、足利家の時代がやってきたが、京都はあの時代から荒れたままだった。それは政治が安定していなかったから……というのもあるけれども、平家の怨霊がきちんと解消されず、京の都に充満していたから。

 荒廃した14世紀頃の風景をしっかり描きつつ、その中で営んでいた文化を細かく細かく書き起こしている。よく作り込まれているなぁ……と感心。実写だとここまで色んな場面を点々と描写できなかったかも知れない。アニメではこういうところも自由に描写できるものの、逆に考証をきちんとしなければいけないが……不自然に感じられるところはない。

 犬王の“ライブ”に集まってくる群衆。飢餓状態で痩せこけている者、身体を欠損している者もいる。こういうところを、「現代的」にせず、この時代の人々はきっとこういう栄養状態であろう……という想定で描かれている。
 こうした時代を背景にして、200年間まともにお祓いもしなかったために留まっていた平家の怨霊をいかに解消していくか。そこで鎮魂としての祭を開催する。それは京都にはびこる呪いを解くことが、犬王自身の呪いを解くことにつながり、そこで「自己実現の物語」とも合わさる。この構造の立て方は見事だった。

 ただ引っ掛かるのは、それを現代音楽風……というか「西洋音楽風」に表現してしまったこと。
 犬王は実在の人物であるのに、どんな曲や舞を残したのかわかっていない。一方、世阿弥の曲や舞は「能」として一つの流派として確立され、現代まで残っている。しかし能は上流階級向けに作られたもので、実はかなり“お上品”な内容。この時代でも“大衆的”な音楽はもっとリズミカルで激しかったんじゃないか……という説がある。それこそ、集まってきた人が映画の中の出来事のように熱狂して声を上げて踊り始めるくらいに。
 それを現代人でもわかるように、ということで現代風西洋音楽にしてしまった。確かに、こう描けば現代の人々でも「室町時代の人々はきっとこういう気持ちだったのだろう」という感覚がダイレクトに伝わってくる。
 でも「それでいいのか?」という感じがちらっと引っ掛かる。いや、この時代に電子楽器はなかっただろ、と。音楽はこの時代にあるものだけで表現すべきだったんじゃないか。

 ライブシーンは、物語の経過や解説も同時に語っている。そういう意味では一つ一つは重要な意味がある。作中の中でもかなり長めに尺が使われているのはそのため。そういう意図も理解できるし、実際映像にする意義はある。

 もう一つの引っ掛かりは「動きに粘りがない」ということ。日常的な所作はあまり気にならいないのだが、ライブシーンになるとどこか重力感が弱い。キャラクターの重さ・軽さが表現し切れていない。
 もともと湯浅監督は人物の生々しい動きよりも、いかにキャラクターに突飛な動きをさせるか。そういうときの「面白さ」を一番に重視する作家だ。『犬王』みたいな泥臭い作品に向いている作家ではない。

 例えばこういう演奏シーンも、「キャラの動き」と「音楽」が合っていない。画面左手の人がベースで、画面右手の人がドラム……を想定しているのだろう。しかしまず太鼓のリズムとドラムのリズムがまったく合ってない。ベースの音と演奏もやはり合ってない。『響け!ユーフォニアム』の完璧な運指と比較すると、ぜんぜんあの域には到達していない。まるで音楽だけ別のものに差し替えたみたいになっている。こういう、「絵と音の不一致」もこの作品で気になるところ。やはり音楽はこの時代の楽器で表現すべきだったんじゃないか……と再び思う。

 ただ「いかに身体感覚を別のもので表現するか」ということに長けた作家でもあるので、こういうところはすごくうまい。この場面は友魚が意識の中で見ている情景。雨が石灯籠に当たって、その当たったところだけが実体として浮かび上がっている。目が見えない人がどのように情景をイメージしているのか……を描いている。

こちらは友魚が手で触れたところだけ、すっと文字が現れる場面。実写では絶対にできない表現。こういうところで奇想の表現は非常に上手い。

 ステージ上に鯨のシルエットを浮かび上がらせているカラクリ。奇想天外な舞台装置が次々に出てくるが、この時代にあるもので表現できるように作られている。そういう映像的なところで嘘は描いていない。こういうところをしっかり描いているから、描かれていることに嘘は感じない。「あったかも知れない」という気にさせてくれる。
 ただ、この時代に西洋音楽はない。

さりげなく忍ばされる「同性愛」的な描写。室町時代だから、男性同性愛は普通のこと。二人の間にもそういう関係はあったのだろう。

 だからといって作品が面白くないわけではない。むしろ、ものすごく楽しかった映画だ。この時代にまだ蔓延していたであろう平家の“呪い”を巡る物語。呪いの浄化のために、新しい祭を作り上げてしまおう……という発想。その過程で描かれる犬王と友魚の友情物語。この全体の筋立てが素晴らしい。この友情物語がきちんと描かれているから、物語そのものは感動的な1本としてきちんと成立している。
 ただ音楽はそうじゃないんじゃないか……という引っ掛かりが残る。アニメーションにも力がない。
 しかし湯浅政明監督ではないと、ここまでポップで楽しい作品にならなかっただろう。そう考えると、なんとも複雑な後味を残す作品だった。いい映画か悪い映画か……と聞かれると間違いなく「いい映画」なのだけど……。


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