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【超短編】散りぬる前に君を知る

好きな人が引っ越すらしい。

隣の家に住んでいるのに、そんな噂が両親から私の耳に入ったのはあの子が引っ越す五時間前だった。あの子のことは全部知った気になっていたから、なんだか悔しかったし、うまく欺かれた気にもなった。小さい頃からずっと一緒に遊んできたのに。私は来年度から、そうちょうど高校生から、あの子なしでどうやって生きていけばいいんだろう。

肩を落としてベランダに出る。視界の端に桜が見えた。私たちの住む住宅街の端には公園があるから、恐らくそこの桜の木だろう。

亜音あのんちゃん」
近くで声が聞こえて振り向くと、隣の家のベランダであの子が笑っていた。あの子に纏われた花柄のワンピースが、風に馴染んでふわふわと揺れる。私が何から言おうか悩んでいると、あの子が先に口を開いた。
「物音がしたから出てきてみた。あ、桜咲いてるんだね。お花見したい」
いやいや、そんな呑気なこと言ってる場合じゃなくて。でもずっと引っ越すことを黙っていたんだ、聞かれたくなかったのかもしれない。私はぐっと言葉を飲み込む。
「…咲桜さおちゃん。お花見、行く?」
「えっ」
「行きたいんでしょ?私も行きたい。あそこの公園なら、一時間もあれば余裕だよ」
あの子は暫く黙っていた。その間にも、あの子の柔らかい髪を暖かい春風が撫でていく。触れたい。その手に触れて離したくない。
「わかった、行く」
あの子がそう答えるのを聞いて、私は玄関に走った。ただ好きだって、ずっと好きだって、伝えたいと思いながら。

「桜、やっぱり綺麗だね。亜音ちゃんと見に来られてよかった」
あの子が眉を下げて、少し悲しそうに笑う。きっとこれが最後になるんだ。
私はあの子の目を見つめて、ぎゅっと自分のスカートの裾を掴む。
「あのさ、私…」

「ん?」

上目遣いでこちらを見たあの子があまりに綺麗で、澄んでいて、透明で、汚したくなくて、嗚呼、駄目だ。私にはこんなに美しいものに傷を付けるなんてできない。
「私、咲桜ちゃんと出会えてよかった。すごくすごく大切に思ってる。だから」
だから、私はーー。
「ら、来年も桜見ようぜ!約束!」
不恰好な約束を押し付けて、小指を突き出す。あの子はぽかんと口を開けて、やがてくすくす笑い出した。
「そうね、約束。ここで桜見ようね」

私は咲桜ちゃんを忘れるかもしれない。
ベランダに出ても会えなくなれば、一日中咲桜ちゃんのことを考えるなんて無理があるかもしれない。
それでも私は咲桜ちゃんを好きになったし、今こうして一緒にいる記憶だけは紛れもない事実なんだ。それだけで、それだけで私はこれから生きていかなきゃいけないんだ。

「亜音ちゃん。実はわたし、引っ越すんだ」
遅すぎる震え声のカミングアウトに、私はさも今知ったように大袈裟に驚いた顔をしてみせる。だから、あんな台詞も言えたのかもしれない。

「桜散りぬる前に君を知れてよかった」

覚えているのは、あの子のワンピースがピンク色だったことだけ。他は全部、遠い昔にピントが外れてぼやけてしまった。
私はその日からもう何年も、桜の木もあの子も見ていない。

#夢現の狭間より

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