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価値は一つに定まった、私の本音⑩


1.私の価値観

今回も前回の続編である。

善悪が消えた日」により、私の世界はかなりシンプルになった。
明らかに視界が整理された。
複雑だと思っていたものは、実は単純な事実で構成されていていた。

そして、私は自分の価値観を自覚するに至る。
私がこの世界で価値を実感しているものは、ただ一つだけだった。

生命の価値、それだけなのだ。

2.生命の価値

私が価値を認識しているあらゆるものは生命の価値から派生している。
そして、それらは生命の本質から遠ざかるほど、認識が薄くなる。
私にとって、生命そのものは最も重い。

人の個性や多様性、可能性は生命から直接的に派生しているものだ。
こういったものは、私にとって価値を認識しやすいと言える。

人の知性や優しさというところまで行くと、個性から派生する要素であり、生命の本質からはさらに遠ざかる。
しかし、この辺りまではまだ認識できる。

問題はここから先だ。

3.社会的価値

一般に社会的な価値とされるもの、例えば社会的尺度、社会的地位、社会的実績、社会的正義、その他社会的要請に基づく多くのもの、そういったものにはほとんどの場合価値が認められない。

社会的尺度とは、例えば金銭のことだ。
社会的地位は、階級や職業、その他の地位を指す。
社会的実績とは、学歴や賞罰、その他の実績を言い、社会的正義は法律や常識、道徳、倫理、そして消費といった社会において善いとされるものだ。

こういったものは生命の本質から離れすぎていて、私には特に価値は感じられないということだ。

また、物質的なもの、機能的なものに関しては、それがどの程度人の個性や可能性を反映しているかによって評価が変わる。
しかし、やはりと言うべきか、多くのものに関しては、その価値は認められない。

4.生命の認識

生命に価値を見出す。

それが私の価値観としたが、一見して生と死を等価に扱うという前回の話と矛盾するように見えるかもしれない。
それを説明するには、私の生命というものについての認識について話すのがよいだろう。

私は、一人の人間をもって一個の生命とは必ずしも捉えていない。

生命の単位を考えるなら、一つの細胞とかそれに類するものを生命と考えた方が良いと思っている。
そして、細胞の集合体である人間を一つの生命とみなせるなら、人間の集団、群体も一つの生命とみなして問題ないと考えている。
こうして認識を広げていくと、生命の範疇は最終的には全地球規模、または、全宇宙規模にまで広がる。

私たち人間はその巨大な生命の構成要素の一つというわけだ。

5.生と死

そして、私はそういう、より大きなものの関係性の中にいるという実感を持って、日々を生きているので、個々の人間の死にはそこまでこだわらない。

そして、それは私自身についても言えることだ。

仮に、今日、私の人生が終わるとしても、私はおそらく困らない。
幸福な人生が途中で中断されるのは残念ではあるが、人生に後悔はない。
そういうものだ、と死を受け入れるだろう。

そして、それは他人についても言える。

それが無意味な死であれば、私も受け入れられなかったかもしれないが、この世に無意味な死などない。
個々の個体は死んでも、生命というものは続いていく。
一つの個体の生と死というものは、生命というものの表現の一種なのだろうと考える。
おそらく、そこに、その生と死に価値の違いはない。
そして、当然のことながら、そこにある喜びや怒り、哀しみや楽しみにも価値の違いはない。

私はそのように世界を受け入れている。

6.気付き

私が生命の価値を実感したのは随分昔のことになる。

そして、その時に私は自分自身の全てを肯定できる様になった。
私自身も人間であり、生命であり、その価値を実感できたからだ。
同時に、世界は価値で満ち溢れているということも認識した。

しかし、世界の複雑さに触れて、その認識は少し薄くなっていたかもしれない。
今回、価値観が整理されたことで、あらためてその認識に至ったことを、ここに備忘録として記す。

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