【雑記】能登半島地震で被災/津波から逃げる/地震に部屋を破壊される 2024年1月1日

 2024年1月1日16時10分、能登半島地震が発生。私は高速道路で、石川県能美市のあたりを走る車の中にいた。
 同日中、なんとか金沢市の自宅に帰還。家の中は、むちゃくちゃに引っ掻き回されていた。
 翌日、私は、起こったことと感じたことを簡単な手書きのメモにまとめた。
 1ヶ月以上が経過し、ようやくほとんど生活環境は復旧したので、メモを起こし、ここに載せる。


 2024年1月1日――16時過ぎ、私は、両親とともに、高速道路で福井方面から金沢へと向かっていた。運転は父、助手席に母、私は後部座席に座り、左の車窓からは海が見える。
 突如として、両親のスマートフォンから「地震です」と声が鳴った。
 父は車を路肩に停めた。程なくして、長く大きい揺れが始まった。
 そして、揺れが収まるや、今度は「津波です」との警報。
 私達は左側を見た。すぐ目の前に、海がある。
 助手席の母が、カーラジオをつけた。女のアナウンサーが、「直ちに避難! すぐ逃げること!」と叫んでいた。
 私はコーラを飲んだ。
 父は車を出した。
 私達は、最寄りのICから一般道に降りることにした。津波は17時頃、到達するという。
 私は、「日常がひっくり返る瞬間」に居合わせた人々が感じるであろう感覚を想像して、自分が今感じていることを、それらと照らし合わせる作業を開始した。
 今、自分が感じていることは、「海の目の前で大津波に居合わせる」という深刻な体験にはそぐわないのではないか――という漠然とした感覚それ自体が、いかにも、「非日常的な出来事に直面した時、意外に実感はわかないものだ」という、よく言われるありふれた経験則じみていた。私は、そのことに、ただ意識を向けた。もし1時間後の私が、津波の渦の只中でもがき苦しみながら死んでいくのだとすれば、その時の「非日常的」な苦しみよりもいくらかでも「日常的」に思える現在の感覚全ては、「死を前にする」という出来事の平凡さを実証するため、その機能を働かせているのだろう。「日常的な感覚」の平凡さは、非日常という基準点を見出したおかげで、あまりにも、現在の出来事の平凡さに「即しすぎている」ものへと変わりつつあった。私が立ち会っていたのは、津波でもなければ死の危険でもなく、平凡さが、本当に「平凡」に変わりつつある瞬間だった。
 最寄りの出口は、「能美根上」だった。そこはETC車両専用の出口だった。
 ゲートの前には、動きそうもない車の長い列ができていた。
 私と母は外に出て、列の最前へと小走りで向かった。同じように外に出てきた前の車の女性が、石川の方言で、「今、ゲートを開けるよう頼んでるみたい」と教えてくれた。
 母は車に戻った。
 私は列の1番前に行った。通ろうとした車がETCをつけていなかったためか、あるいは緊急時の不調ゆえか、無人ゲートは閉じていた。女性がイライラしながら、機械を通じて係員に「早くしてほしいんだけど!」と言っている様子を私は眺めた。スピーカーから、「今、対応していますので……」という弱々しい男の声が聞こえた。
 すぐ近くには、ラブホテルがあった。もしかすると私達全員は、そこの屋上にでも、車を捨てて逃げるべきなのだろうか。
 とはいえ、一人がそんな行動を取ったら、後ろの車全てがつかえて逃げられなくなることは目に見えている。
 私はとりあえず、両親のいる車に戻った。
 程なくして、ゲートは開いた。開きっぱなしにしたらしい。全ての車は、(おそらく)料金を払わずに一般道に出た。
 私は、とてつもない面倒臭さを感じ始めた。去年の5月にも、石川県は大きい地震に襲われている。その時、外出先から戻った私を待ち受けていたのは、ぐちゃぐちゃに散乱した本の山、レコードの山、CDの山、そして落ちてきた本に破壊されたオーディオ機器だった。物(主に本)で溢れかえった狭い私の部屋は、またしても地震に蹂躙されているのだろう。引きこもり然とした私の「密室」暮らしにおいて、最大の脅威、最大の悪夢はこういう事態である。ちょうど、最近買ったばかりのCDプレイヤーが私は心配だった。そしてもちろん、パソコンのデータ……。
 もしも何十分かあとに私が津波の中でもがき苦しんでいなかったとしても、面倒極まりない「現実」は、ほぼ確実に、私の部屋で私を待ち受けているはずだ。
 私はコーラを飲んだ。
 一般道は、ひどく渋滞していた。
 車を捨てて逃げる、という選択肢が、また頭をよぎった。とはいえ、この、田畑だらけのど田舎に、逃げ込めそうな高い建造物などないだろう。送電線がちらほら見える程度である。溺死か、感電死か……?
 「今すぐ避難! すぐ逃げること!」ヒステリックな正しい命令がラジオから私の耳に突き刺さり、私はイライラした。
 私は貧乏ゆすりした。
 小便がしたくなってきた。いざとなったら、コーラのペットボトルに放尿するしかないな、と思った。
 ――結局、私達は生き延びた。車列はある時点で緩やかに流れ始め、私が小便を漏らすより前に、車は家に到着した。すでに周囲は暗かった。
 結局、私の部屋は、去年の5月とは比べ物にならないほど徹底的に破壊されていた。本棚は倒れ、本は部屋中に散乱し、デスクトップパソコンも倒れ、机も動き、レコードも全て棚から飛び出し、本とCDとレコードが大きな山を作り、傾いた本棚の後側にまで本が飛び……オーディオ機器の近くには、本の山に阻まれ、近づくことすらできなかった。
 もしも地震発生時、部屋にいたら、死んでいた可能性が高い。
 私は、面倒極まりない片付け作業のせいでこれから感じることになる疲労を、先取りして噛み締めた。
 これまでの人生の全ての瞬間が、「もしかすると死んでいたかもしれない」1月1日16時10分に通じていたことを思えば、私が噛み締めた疲労感は、「もしかすると無駄だったのかもしれない」全ての物事に対する、答え合わせのようなものだった。


(1月2日執筆)

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