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【小説】あしたの祈り【第3回】#創作大賞2023

 家庭訪問の期間が慌ただしく終わると、ゴールデンウィークに突入する。

 バスケ部の練習や試合があるため、そのすべてが休みになるわけではないし、持ち帰った仕事もある。それでも、出勤しなくていい日が数日ある。それまでの週末がバスケ部の指導で潰れてしまっていた真樹子にとっては、貴重な休みだった。

「ちょっと痩せたんちゃう?」

 久しぶりに会った恋人の久保田はそう言うと、ハンバーガーショップの向かいの席で、コーラをすすった。彼は大学の同期で、もう四年の付き合いになる。大学院に進学した彼もそれなりに忙しいようで、真樹子とは時間が合わず、3月末に会った後、ようやく一ヵ月ぶりに会えることになった。一八〇センチの長身に、やせ形の体型は大学の入学当初から変わらない。ジーパンにTシャツという早々と夏の装いになった彼は、眼鏡の奥から真樹子を見た。

「そう?」
 やっと会えてほっとする気持ちと同時に、なぜだか落ち着かない気持ちで、真樹子は彼に向き合った。

 大学での勉強に早々と限界を感じた真樹子とは違い、成績がよく研究テーマも見つけた久保田は、当然のように大学院に進学した。研究を続け、博士課程に進学することも視野に入れているという。久保田に、

「忙しいん?」
 と聞かれ、
「まぁまぁね。仕事だし、仕方ないんやけど」
 と真樹子は答えて両手で持ったコーヒーを啜った。久保田は真樹子のポテトに当然のように手を伸ばす。

「院はどう?」
「面白い」

 自信のある様子で顎を撫でる。理学部の中で情報分野に進んだ彼は、MRIの画像処理の研究をしているという。

 すごいな、と感想を言うと、否定はせずに、まあね、と笑う。将来的には社会の役立つ、意味のある研究なのだと言う。

「真樹子はどうなん? 数学の先生やろ」
 久保田のように面白いとは言えず、真樹子はため息をついた。

「中二やけど、文字式の代入すら理解できてない子が多いねん」
 小学校の算数ですら理解できていない生徒が一割いる、とも付け加えた。

「なんでそんなことに」
 久保田は驚いた表情をする。真樹子には彼の驚きが理解できた。理学部に進学する学生で、数学が苦手だという者はいない。理解できないことが、理解できないのだ。

「私もわからんねん。けど、その子らに、二次関数や証明も教えなあかんねん」
「無理やろ、そんなん」
 久保田は切り捨てるようにそう言う。

 真樹子自身もまた、教えることに自信を持てないでいた。だが、指導要領によって学習内容は定められており、定められた内容は授業で教えなければならない。

「私も難しいとは思うねんけど、高校入試にも出るし……」
「え、その子ら、高校行くつもりなん?」
 久保田はまた驚いたように大きな声を出した。

「うん、まあ、ほとんどの子は高校行くと思うよ」
「それやったらさぁ、代数幾何とか、その子らわかんの? そんな子ら高校に行かしても、高校の先生が困るだけちゃうの?」
「それは、そうかもしらんけど」
 中卒では就職も難しい。

「その子らをさ、高校に行かせるなんて、無駄ちゃう? だって、高校の勉強にはついていかれへんやろ?」
 久保田の話に、思わず
「そんなん言わんといて!」
 と大きな声で否定する。驚いた表情の久保田を見て、真樹子は、ごめん、と付け加えた。

 久保田の言いたいことはわからないではなかった。真樹子自身、ほんの一ヶ月前までは、彼とほとんど同じ考えだったのだ。

 中学受験をして、進学校と呼ばれる中高一貫の私学で学んだ。苦手な勉強もあったが、数学だけはずっと面白かった。勉強すればするほど問題が解けた。解けるとさらに面白くなって、もっと勉強した。

 だから、正直に言えば、センター試験の数学のレベルで、解けないということは理解できなかったし、ましてや文字式の代入ができないなんて、想像すらしていなかった。

 母校での教育実習では、教え方を工夫すれば、理解に時間のかかる生徒でも、きちんと問題が解けるようになった。生徒が理解し、喜ぶ姿に、真樹子も喜びを覚えた。だからこそーー。

 真樹子はため息をついた。

「言いたいことはわかるねん。私もちょっと前までそう思ってたし」
「真樹子は、数学の面白さを教えたいって言ってたやろ? それって、多分、小学校の算数のことちゃうやん。その仕事って、意味あるん?」

 言い終わると、久保田は下を向いてコーラをすすった。

 意味はあると言いたかった。最初に望んでいたこととはずいぶん違うけれど、まだやらなければならない事がたくさんある気がする。けれど、今、彼にそれをうまく説明できる気もしなかった。

「とにかく、もう少し頑張ってみるから」
 と真樹子も下を向く。大学時代は彼を身近に感じていたのに、今日はなぜだか遠く感じた。

 久保田と会った日以外は、学校での部活とスーパーでの買い出しに出かけただけで、真樹子のゴールデンウィークは終わってしまった。

 母親の良子からは、兵庫県三田市にある実家に帰ってくるようにという催促の電話が何度もあった。電車とバスを乗り継げば一時間三十分で着ける距離だが、その距離がひたすら遠く感じられ、結局は一度も帰ることなくワンルームの部屋で過ごした。

「さあ、ここからが大変です。気合いを入れていきましょう」
 ゴールデンウィーク明けの職員朝礼で、中二の教員を前に、学年主任の岩本が冗談めかしてそう言った。

 隣の席の田辺が
「ほんまに、大変になると思うわ」
 とぼそっと呟いて、湯飲みのお茶を啜った。

「そうなんですか?」
 思わず訊ねる。
「毎年、休み中にやんちゃしてた子らが、そのままの気持ちで学校に来るしねぇ」

「どういうことですか?」
「問題行動やね、いわゆる。そのうちわかると思うよ」
 田辺は朝からため息をついた。

 不安な気持ちのまま、ホームルームのために教室に向かうと、チャイムが鳴ったにもかかわらず、生徒が廊下にたまっている。何度も声をかけて教室に入室させると、今度は鈴木美晴を入れて七名の席が空いている。

「どうしたのかしら」
 と首を捻ると、
「起きられへんかったんちゃう?」
 と生徒の一人が欠伸をしながらそう応えた。

「でも、もう九時よ」
「休み中、十二時まで寝とったし。俺も眠い」

 眠い、眠いという声がいくつもあがる。休み中に不規則な生活をしていたためか、ぼんやりした顔がいくつも見える。気持ちはわからないでもなかったが、中間テストが近づいたこの時期に、生徒たちの気持ちを汲んでばかりはいられない。

「ゴールデンウィークは終わったんやし、しゃきっとしよう」
 いつもよりは時間がかかったものの、生徒たちはなんとか授業の準備を始めた。真樹子もそのまま授業の準備をしようと黒板に向かったとき、廊下から「ちょっと」と呼ぶ田辺の声に振り返った。

「どうしました?」
 廊下に出て、田辺に近づく。田辺は藤本たち三人の名前を挙げて、
「ピアス、開けてきたって。生徒指導室にいてるから、話したってくれる?」
 と首のあたりを掻いた。

 反対側の校舎にある生徒指導室に駆け込むと、生徒指導担当の四十代の男性教員の前に、藤本たち三人が座っていた。険しい表情の男性教員とは対照的に、藤本たち三人は頬杖をついたり、指で髪をくるくる巻いたりと、悪びれる様子がない。

「あ、米山先生、どしたん?」
 真樹子に気づいた三人は、ニコニコとこちらを見る。

「どしたん、違うでしょ」
 真樹子は見せてね、と言いながら三人の髪を手で掬って、耳を見た。三人の耳には、ファーストピアスだからだろうか、よく似た形の石のついたピアスがはまっている。

「ピアス、開けてしまったん?」
 真樹子が言い終わらないうちに、男性教員は机を叩いて、
「校則で禁止されてるやろが!」
 と大きな声を出した。

 三人は拗ねたように横を向いたり唇を尖らせたりしている。
「外すよ」
 と言って、真樹子は一人ずつ、ピアスを外していく。全員のピアスが外れると、生徒指導の男性教員はほっとしたように「反省文書いとけよ」と言い残して部屋を出ていった。

「なんでピアスなんて開けたん?」
 真樹子が聞くと、
「うちのママがな、みんなの開けてくれてん」
 藤本は得意そうにそう言って、歯をみせて笑った。

「藤本さんのお母さんが?」
「そうやで。うちのママな、そういうの、得意やねん。ネイルとかもな、きれいにしてくれるねん」

 あわてて三人の指先を見る。除光液で消したのか、幸い、爪に色は残っていなかった。
 真樹子は家庭訪問で会った藤本の母親を思い浮かべ、頭を抱えたくなった。

「校則で禁止されてるのは知ってるでしょう?」
「うん。でも、そんなん、今時だっさいで」
 三人は顔を見合わせ、な、と言い合っている。

「ださい、ださくないじゃなくて、校則は守らなあかんのよ。だいたい、高校入試の面接はどうするつもり? ピアスなんかしていったら、落ちてしまうでしょ」
「先生、知らんの?」
 と言って、藤本は隣の市にある私立の女子高校の名前を挙げた。

「あそこな、名前を漢字で書いて、面接でメンチきらんかったら合格やねんで」
 だからピアスなんて余裕だ、と三人は言い合う。真樹子もその女子校の名前や、そうした噂は耳にしたことがある。面接が実際そうしたものなのかは知らないが、偏差値は低い。

「みんな、その学校に行きたいの?」
「えー、別にどこでもいい。ママもどっか行けるやろって言ってるし、私学行っても学費タダやし」

 数年前から府では私立学校の授業料を実質無償化している。そうしたことは、学業に熱心ではない生徒もよく知っている様子だった。

「どこでもいいとかじゃなくて、もっと真面目に考えて」
 言いながらも、真樹子はそれが三人には届くのだろうかという疑問を打ち消せなかった。

 藤本だけではなく、他の生徒の親も、家庭訪問では子供の教育にはあまり関心を持っていない、あるいは関心を持つ余裕がない様子だった。そしてそれは、目の前の三人に限ったことではなく、ごく少ない熱心な保護者を除いては、それがこの学校での多数派に思われた。一緒に暮らす親がそうである以上、教師がそれよりも影響力を持つと考えるのは、なかなか難しい。

 とにかく、と自分に言い聞かせるように話し始める。

「もうすぐ中間テストなのよ。気持ちを切り替えて、勉強頑張りましょう」
 はーい、という気のない返事を聞きながら、真樹子はそっとため息をついた。

 同類項は色で分けて示した。xは水色、yはピンクだ。黒板に書いた式の上に、色で分けた紙を貼っていく。その示した紙を色ごとにまとめ、足したり引いたりする。

「自分で解くときには、自分で印をつけて区別してね。仲間わけをしたら、計算しやすくなるから」

 説明が済むと、真樹子は生徒たちにワークブックの多項式のページを示し、問題を解くよう促した。ゴールデンウィークから約一週間すると、生徒たちがようやく落ち着きを取り戻した。それでも、中間テストが近いこの時期、真樹子たち教員はのんびりする暇はない。テスト範囲の学習をなんとか終わらせようと、必死に授業を進めていた。

 教卓のそばから眺めると、机に向かう生徒の様子がよく見える。説明にうなずいてワークブックを開く生徒、首を傾げている生徒、そして、ノートに落書きをする生徒。落書きをする藤本たち数人に、ワークブックより簡単なプリントを渡しながら、真樹子は教室内をゆっくり歩いてまわった。

 説明を頷きながら聞いていた生徒でも、自分で解くときには間違えることも多い。窓際の席の生徒は、式のマイナスとプラスを間違えている。

「ここ、よく見て。xの前に、マイナスがついてるでしょう」
 指でマイナス記号を示しているとき、窓の外で、遅刻したのであろう、セーラー服が横切るのが見えた。どこのクラスの生徒なのかと、目を凝らす。

 まっすぐに走る小柄な身体、鋭い目??鈴木美晴だ。真樹子は生徒に気づかれないよう、そっと息をのんだ。

「先生、これでいい?」
 ワークブックには正しい解が書き込まれている。
「え、ええ。そう、それが正解」

 駆け出したい気持ちを抑えながら、真樹子は頷いた。そのまま、チャイムがなるまでの時間を真樹子はジリジリと焼けるような気持ちで待った。

 ワークブックに向かう生徒たちの間を回って五分がすぎると、ようやくチャイムが鳴った。

 挨拶を済ませ、駆け込むように職員室に戻ると、
「鈴木美晴、見ませんでしたか?」
 と大きな声で訊ねた。

「保健室。寝てるらしいで」
 田辺も大きな声で応えた。

 真樹子は数学の教材の入ったボックスを置きにいくのももどかしく、そのまま保健室に走った。扉を勢いよく開けると、
「しっ! 静かに」
 と養護教諭の村田が眉を寄せた。五十代くらいだろうか、ベテランの女性教員で、生徒には優しいが、同僚に対しては迫力がある。真樹子はすみません、と謝りながら室内へ入った。

「鈴木、いますか?」
 小声で訊ねると、村田はカーテンで囲まれたベッドを指さして首を縦に振った。

「顔に殴られたような痣があって」
 と村田は顔をしかめる。

「なんだかぼんやりしているし、低血糖かもしれないと思って、飴をあげて横にしたら、寝始めて」

 カーテンの隙間からのぞくと、布団をかぶった美晴の頭が見えた。すうすうと寝息が聞こえる。

「何か言ってましたか?」
「ううん、何も。喧嘩でもしたのか聞いたんだけど、返事ないし。心当たりある?」
「いえ」

 村田は首を傾げて、何か考えている様子だった。
「何か気になる点でも?」
「うん、痣があるっていうのも気にはなるんだけど。それより……」
 村田は言いよどんだ。

「それよりも、ね、ちゃんとご飯食べてるんかなってのが気になって」
「どういうことですか?」

「鈴木さん、去年も今年も学校にはほとんど来てないし、身体測定も受けてないから、実際のところはわからないんだけど。ちょっと痩せすぎてない?」
「たしかに、痩せてはいますね」

 真樹子は野生動物のように走り去る美晴の姿を思い浮かべた。俊敏には動くが、筋肉質というわけではない。スカートからは痩せすぎとも思えるようなほっそりした足がのぞいていた。

「この学校、朝、気持ち悪くなって保健室に来る子が多いんだけど、それって、朝ごはん食べてない子がほとんどなのよ」
「食べずに来て、具合が悪くなるんですか?」

「そう。フラフラしたり、ぼんやりしちゃうのよね。で、下手したら晩ご飯も食べてないこともあって。だからここには飴とか、ビスケットとか、ぱっと食べられるものを置いているのね」

 朝ギリギリにやってきて、朝ご飯を食べていない生徒がいることは真樹子も知っていた。

「鈴木さんがここに入ってきたときも、なんだかそんな感じで。飴を舐めて、すこんて寝ちゃった様子も、そういう子たちと同じなの」
「今朝は食べてないってことですか?」

「それもあるけど、それだけじゃなくて……」
 と村田は鈴木が眠るカーテンの方を眺めた。

「彼女、ちゃんと食べたり眠ったりしてるのかな、ずっと」
 ずっと、という言葉が気にかかる。

「お母さんに聞いてみた方がいいですね」
「連絡とれそう?」

 今度は真樹子が考え込む。何度かけても電話はつながらず、手紙を郵便受けに入れても返事はない。まだ一度も連絡は取れていなかった。

「それは……難しいんですが。でも、連絡とらなきゃいけないって思っているんです」
 そのとき、カーテンがシャッと音をたてて開かれた。

「勝手なこと言うとったらシバくぞ」
 見覚えのある、鋭い目をした鈴木美晴が立っている。

「鈴木さん、大丈夫なん?」
 真樹子は慌てて声をかけた。

「うちのママはなぁ、ちゃんとご飯用意してくれてる。あたしは、遊ぶのに忙しいから食べへんことがあるだけや」

 村田が言うように、美晴のセーラー服はぶかぶかで、襟元からは鎖骨が浮き出ているのが見える。頬には、殴られたのか、青い痣が見えた。

「あとな、うちのママは忙しいねん。あんたのくだらん手紙に」
 と美晴は真樹子を指さした。

「返事してる暇ないねん」
 そのまま、保健室の出入り口の扉に向かう。

「待って、鈴木さん。ほっぺたどうしたの?」
「うるさいなぁ、ぶつけただけや」
「せっかく学校来たんだし、教室に行こう」

 扉から出て、美晴は歩いていく。真樹子は必死でその横を歩いた。

「ね、鈴木さん、もっとお話しよう」
 腕を掴もうとして、振り払われる。

「お友達も待ってるよ」
 真樹子がそう言うと、美晴はふっと口を歪めて笑った。

「友達なんか、おらん」
「え?」
「あたしに友達なんか、いてへんのや」

 そのまま美晴は駆け出す。真樹子が追いかけるのより早く、美晴は校門をすりぬけて行く。その姿は、美晴の住む団地とは反対の方向へ消えていった。

 駅前で買ったドーナツの袋を左手にぶら下げて、真樹子は右手の掌を頭から水平にかかげた。午後三時半。まだ五月だというのに、強い西日がコンクリートの歩道を白く光らせている。

 中学は中間テストのため、午前中で生徒が下校していた。採点は後回しにして、真樹子は学校を抜け出し、小学校の正門にほど近い歩道に立った。鈴木美晴の弟、秋生の下校を待って、会うつもりだった。

 さきほどから、小学生の集団がいくつも真樹子の前を通り過ぎていく。先頭の集団から五分くらいだろうか、遅れて、ゆっくり歩く秋生の姿が見えた。ジーンズ生地のハーフパンツに、ボーダー柄の半袖シャツ。ランドセルには給食のナフキンだろうか、小さな袋がぶら下がっている。

「こんにちは、秋生くんだよね」
 秋生の前に立ち、真樹子はそう声をかけた。

「ん、んん」
 秋生はため息のような声を出して真樹子を見上げたが、そのまま道に視線を戻し、歩いていく。小学校から美晴と秋生の住む団地へは、この歩道をまっすぐ歩いていくことになる。真樹子は秋生のペースに合わせ、ゆっくりと並んで歩いた。

「わたしはね、美晴さんの、お姉さんの担任の、米山っていいます」
 返事はない。
「よろしくね」

 右手を差し出すと、立ち止まってじっと眺めてから、秋生はその手を掴んで、そのまま歩きだした。うーっと唸るようにして声を上げながら歩く。しばらくそれを聞いて、それが「蝶々」のメロディーだと思い当たった。

「蝶々、蝶々、菜の葉にとまれ」
 唸るような鼻歌に合わせて歌うと、秋生は口を開けてうれしそうに笑った。上を向いて、頭を揺らす。つないだ手は強く振ってリズムをとっている。

 手をつないだまま歩いていると、
「何してんねん」
 と、セーラー服姿の美晴が歩道沿いの花壇を乗り越えて現れた。秋生の手をとり、彼の前に立って、真樹子から隠すようにする。険しい表情の美晴とは対照的に、秋生はにこにこ笑って「ちゃーちゃ」と言いながら彼女の腰に抱きついた。

「ごめんね、突然。鈴木さん、学校来ないし、連絡つかないから、秋生くんにお話きけないかなって思ったの」
「あきは、話されへん」

 美晴は秋生の手を引っ張り、真樹子に背を向けて歩きだした。
 強く手を引いたのか、秋生は足をもつれさせ、身体を大きく傾ける。真樹子は思わず腕を伸ばして彼の身体を支えた。

 美晴は舌打ちして真樹子を睨んだが、今度は秋生のペースに合わせ、ゆっくりと歩きはじめた。

 歩道はそのまま団地の中まで続き、別れ道で棟と棟の間を抜けていく。真樹子は美晴たちの後ろをついて歩いた。

「学校、来てほしいなって思ってるのよ」
 そう話すが、返事はない。

「このまま欠席が続くと、進学も難しくなっちゃうし」
 美晴は真樹子の声を無視して歩いていく。やがて、彼女らの住む低層棟の前まで来ると、急に立ち止まって振り向いた。

「どこまで付いてくるねん」
 イライラした様子で睨む。

「あのね、お土産持ってきたの」
 真樹子はドーナツの袋を差し出した。

「一緒に食べよう」
 そう言うと、
「いらんわ、そんなもん」
 美晴は目を背ける。けれど、それを見ていた秋生が、うれしそうに笑って、袋を受け取った。

「あき……」
 美晴は一旦口を開いたが、ため息をついて、低層棟の階段を上がった。

「言うとくけど、ママならおらんで」
「お仕事?」

 返事はない。美晴は黙ってドアを開ける。二人に続いて、真樹子も慌てて玄関の扉に身体を滑り込ませた。

 玄関を入って左手にキッチンのシンクが見える。その奥には畳の部屋。玄関右手には風呂とトイレだろうか、太い配水管と、ドアがあった。家庭訪問でも何度も団地には来たから、その作りには見覚えがあった。

 しかし、他の部屋とは違い、美晴たちの部屋には驚くほど物が少なかった。和室には丈の足りないカーテンがかかっているが、キッチンの窓にはカーテンがない。シンクの横には、一人暮らしのような小さなツードアの冷蔵庫が一台。和室に折りたたみ式の小さな机が一台。座布団はなく、秋生は畳の上に直接腰をおろした。

「どれにする?」
 美晴はドーナツの袋を開け、その中を秋生に見せる。秋生は粉砂糖のかかったシンプルなドーナツを袋から取り出し、口に運んだ。

 シンクの上の水切り棚に置いてあったグラスをとって、美晴が蛇口を捻る。水を入れると、秋生の前の小さな机に置いた。

 秋生ははっとしたように顔を上げ、
「ちゃーちゃ」
 と、食べかけのドーナツを美晴の口に入れようとした。

「あき、いいから食べな」
 美晴は押入から取り出したタオルで秋生の口の周りを拭く。

「いいから」
 ドーナツと美晴の顔を見比べてから、秋生はようやくドーナツの残りを食べ始めた。

「ほら、こぼすなよ」
 美晴は笑いながら秋生の口のまわりを拭いている。今まで険しい表情しか見てこなかったが、笑った顔はあどけない。

「鈴木さん、えらいのね。秋生くんの面倒をみて」
 真樹子がそう言うと、
「別に。こいつ、ポロポロこぼすから、迷惑やし。そんで拭いてるだけやし」
 と美晴は下を向く。

「じぶん、食べへんの?」
 下を向いたまま聞かれる。

「うん。よかったら、秋生くんに食べてほしいな」
 うれしそうに食べる秋生を見ていると、こちらまで幸せな気持ちになる。

 美晴やその母親に会えるかどうかも賭けだったが、持ってきたドーナツを食べてもらえるかどうかも賭けだった。母親には会えなかったが、美晴と秋生の仲の良い姿がみられたことで、そんなことはどうでもいいような気がしていた。

「ほな、もういいやろ。ママはおらんし、もう帰って」
 そうね、と言って、真樹子は立ち上がる。

「お母さんに、よろしくお伝えしてね」
 美晴は明らかにほっとした表情で顔を上げた。

「それと、学校には来てね。みんながーー私が、待ってるから」
 返事はなく、冷蔵庫の音だろうか、ブーンという低い音が響いた。

 (続く)


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