京都の異界・吉田寮に家族で10年暮らした話

京都大学の吉田寮に、4人家族で約10年暮らしていました。その頃のことを中心に書いていき…

京都の異界・吉田寮に家族で10年暮らした話

京都大学の吉田寮に、4人家族で約10年暮らしていました。その頃のことを中心に書いていきます。文章を書く「はるみ」と、更新作業その他担当の「娘」でお送りします。

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最近の記事

ご無沙汰していた件

ご無沙汰しております、娘(更新担当)です。 2020年の春からはるみさんにも私にも環境の変化があり、ブログもTwitterも更新できずにいました。長い間の放置申し訳ありませんでした。 更新できていなかった理由としては はるみさん:多忙&環境的に記事の文章を書くのが難しくなったため 私:コロナとは別の要因で体を壊して療養していたため(今も療養中) ……という感じです。 今年に入ってはるみさんの環境がまた変わって記事を書けそうかも?な状態になってきたのと、私の状態も全快とは言わ

    • 応援グッズ製作中&文章のこと

      こんにちは、娘(更新担当)です。 こっちは印刷屋さんから届いた新しい吉田寮応援バッジ! 娘渾身のねこ。 そして、応援Tシャツ第2弾も現在印刷中!! 準備が整い次第販売しますので、続報をお待ちください。 正直(ボツ案含め)だいぶがんばったので、はるみさんにはデザイン料としておいしいもの食べさせてほしいです。よろしくお願いしますえへへへ。 文章のことマガジン追加ついでに、今までの記事の文章にちょっと手を入れました。 といっても内容そのものには変化はなく、前置きを追加したり

      • ブログを引っ越しました

        こんにちは、娘(更新担当)です。 この「京都の異界・京大吉田寮に家族で10年暮らした話」は、もともとTumblrで更新していたのですが、このたびnoteに引っ越してきました。 この記事より前の記事は、すべて旧ブログからの転載になります。 (引っ越しにあたって、一部の誤字・脱字や言い回しなどをちょこちょこと直していますが、内容は変わっていません。) あとは、以前作った吉田寮応援Tシャツが売り切れてしまったので、その記事は引っ越ししていないくらいでしょうか…… 応援グッズにつ

        • 相部屋が原則の「部屋割り」

          私たちの入寮前は、中寮2階は個室だった。一定の相部屋経験を条件に、院生のみが利用できた。 しかし、個室によるアパート化は自治運営の意識の稀薄を招き、大学当局と緊張関係を保つ自治寮として致命的だった。寮生の増加もあり、その後廃止になった。 一人あたりの居室割り当て面積は、およそ4畳。居室は6畳、7畳半、8畳、10畳、12畳のタイプがあり、各棟によって異なる。 6畳~8畳は2人用、10畳~12畳は3~4人の割り当て。部屋換えは入寮選考委員によって毎年4月1日に発表され、新入寮生

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        • 吉田寮の暮らし
          9本
        • 応援グッズ
          2本
        • 入寮するまでの話
          11本
        • 福祉
          2本
        • 環境
          1本
        • 住まいと建築
          4本

        記事

          シャワー室

          焼失したシャワー室と洗濯室が再建されたのは、吉田寮に入寮して2年目のことだった。 食堂の北側にプレハブが建てられ、シャワー室3室、全自動の洗濯機が5台ほどと、それまで急場をしのいできた2層式洗濯機が2台置かれた。 シャワー室を利用するには事務室(マンガ部屋)での手続きが必要で、各シャワー室のノートに部屋番号と名前、利用時間を記入する。 ノートに添えた鍵があれば使用可で、無ければ使用中。しばらく待つことになるのだが、そもそも寮生180人に対して3つというのが少なすぎる。 満

          吉田寮生と介護ボランティア

          当時の吉田寮では、Mさんを通じて吉田寮と繋いでくれた二人の寮生をはじめ、数人の寮生が介護のボランティアをしていた。寮生で引き継がれている活動や仕事は様々で、介護ボランティアもその一つ。 ある日の寮生。 車椅子を押しながら、利用者に「右に行きますか?左に行きますか?」と聞いている。 車椅子を押す彼が決めるのではなく乗っている人に聞いている姿が、私には不可思議に映った。 私は、障碍者を知らずに生きてきた。手一杯の息子には意見を聞けるはずもなかったし、息子はこちらを見ないで動い

          息子とゲーム部屋

          息子は下校後や休日の姿が見えない時は、たいてい管理棟にある「ゲーム部屋」で数人の寮生に混じってゲームを楽しんでいた。 ゲーム機・ソフト・情報誌など、ゲーム部屋の備品は有志で買っていて自由に使え、息子もあれこれと使っていた。 しかし息子はディスクの扱いが乱暴だったり、ピョンピョン跳び跳ねてゲームデータが飛んだりして、寮生を困惑させていたらしい。 やがて特定の寮生から暴力を振るわれるようになる。最初はよく泣いて帰って来ていた。寮生が暴力に出ることは極めて稀だったが、彼らに取って

          膨れ上がる留学生

          吉田寮が留学生を受け入れ始めてからというもの、その数は急激に増え始め、私たちが退寮するころには寮生の半数を占めるまでになっていた。 彼らは炊事や洗濯を寮で賄うことが多く、日中の寮生活は外国人との生活でもあった。事務室でシャワー待ちをしていると、隣の麻雀部屋で留学生らが騒がしくやり取りしているのが聞こえる。目を瞑れば日本にいることを忘れるくらい、中国語が飛び交う日常だった。 吉田寮では、外国籍を持つ寮生には「対外的な自治に関わる義務を負わなくていい」という配慮がなされていた

          苦学生

          吉田寮には苦学生が多かった。 当時の京都大学は、合格者の親の平均年収が1,200万を超えていた。多くの学生は塾や進学校に通い家庭教師を付けて合格するのだから、経済的なハンデは大きい。合格してからも周辺に安い下宿屋はなく、貧乏学生にとっては苦しい生活が待っている。 勉学の機会は等しく与えられるべきだと考える吉田寮は、厚生施設としての存続を訴えてきた。 医学部のT君は高価な専門書を買えず友人のものをコピーしてパンの耳ばかりを食べていたし、新聞配達や夜勤、掛け持ちのバイトで学費や

          高い環境意識

          吉田寮に入寮する前に、当時の執行委員長だったY君が寮の生活システムの案内をしてくれた。 初めて訪れた時に案内してくれたI君同様、Y君の説明も寮への愛情が伝わってくる丁寧なものだった。 当時はようやく牛乳パック回収が始まった時代。「環境市民」というNGOで活動し始めていた私は、彼らの環境問題に対する意識の高さに感心して聞き入った。 可燃ごみは焼却炉、生ごみは中庭に掘った穴に埋めて堆肥化、大量の酒瓶は酒屋に戻してリユースと、分別を徹底。中寮裏には「大型ごみ置き場」が設けられてい

          22部屋分の炊事場

          吉田寮の各階廊下の真ん中にある炊事場(兼洗面所)には、2口コンロが2台置いてある。 一応換気扇も付いているけれど、羽根からは油が滴り落ち、ガス口は噴きこぼれの汚れなどで詰まって、4口のうち2口使えればいい方だ。 棟の最西端に住んでいた私たちの部屋からは30メートルの距離。お湯を沸かすのにも一苦労する。 調理には鍋や食材をはるばる運ばねばならず、醤油ひとつ運び忘れても居室に取りに戻らないといけない。使用中のコン口を確保したまま炊事場を離れるのは難しく、やむなく一旦火を止めると

          吉田邸との出会い

          吉田寮に引っ越す前、建て替えた家に住み始めて2年経ったころのこと。 出身大学の京都支部から、例会の案内が届いた。京都支部を発足させた吉田孝次郎氏(※)の町家に、舞妓と芸妓を招いて京都の文化に浸ってみる企画だという。 それまで例会には参加してこなかったが、京都に住みながら京町家や京都の文化に縁遠い暮らしをしていた私は参加することにした。 夕暮れどきの町家。打ち水をされた表をくぐると、迎えの間の奥に坪庭が見える。そこには美しく手入れされた、初めて観る空間が広がっていた。今宵のた

          「自然住宅研究会」~身体を蝕む家~

          建売り住宅から新たに建て替えた家で暮らしていたころ、普段利用している自然食品店の一角で「住宅が農薬で蝕まれている」という小冊子が目に止まった。 殺虫剤・蚊取り線香・除菌剤・抗菌剤などは農薬の一種であるという。体内に取り込まれる空気の量は1日に20キログラムにもなり、有害物質は肺から血液中に溶けて体内を循環するらしい。 これまで有害物質を含む食品の購入を極力避けてきたのに、空気が汚染されていたとは! 建売り住宅に住んでいた時代は、最も危険な農薬の一つ「シロアリ駆除剤」が多用

          「自然住宅研究会」~身体を蝕む家~

          苦難の「体育館シャワー」

          吉田寮は、火災で洗濯室だけでなくシャワー室も失った。 彼らの多くは、講堂横に授業やクラブ活動用に設置されている「体育館シャワー」を利用していた。 近くに銭湯もあったが、家族4人で通うとかなりの出費になる。体育館シャワーを利用したことのあった連れ合いは使い始めたが、小1の息子と小6の娘を連れて行かないといけない私は、なかなか決心がつかないでいた。 寮生は厚生施設として平気で利用しており、家族というだけで気負いしてたまるかと、ある日思い切って行ってみる。自転車の後ろに息子を乗

          洗濯室

          吉田寮には食堂の西側に洗濯室とシャワー室があったが、私たちが入寮する半年前に火災で焼失していた。寮生はどうしていたのか知らないけれど、私たちは毎日出る4人分の洗濯物に困った。 仕方なく歩いて5分ほどのコインランドリーに通うが、混み合っていることもしばしば。それでも何度か往復し、終わるのはいつも昼ごろになった。 大学側は簡単には再建してくれない。さすがの貧乏寮生も困っていた様子で、年度初め恒例のリサイクル市に有志数人で行って洗濯機を手に入れることになった。 卒業生のお下がりを

          築100年

          私達が住んでいたころ、吉田寮は築100年を迎えようとしていた(※2019年現在は築105年)。 この規模の木造軸組み工法の住居は、全国でもここだけらしい。瓦葺きの屋根、畳敷の居室でありながら、内部の装飾は西洋建築を意識した意匠になっている。一部の柱や建具がエメラルドグリーンに塗装されたモダンな折衷様式から、創立直後の三高のなごりが見られる。 大学側からは老朽化を理由に廃寮を迫られ続けているが、交渉を重ねて存続を維持している。歴代寮生たちは廃寮を避けるべく新寮建設を訴えてきた