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私の生い立ち(その7) 〜 病気+こだわり屋=母と接して気付いたこと 〜

母は55歳の時に関節リウマチに罹患した。
それまで関節リウマチとはどういうものか、多少の知識はあったつもりだったが、日常的にどんな生活になるのか、それが人生にどう影響を及ぼすかまでは考えに至らなかった。

関節リウマチは自己免疫疾患で、原因は不明であり、完治は厳しい病気だ。
研究は日々進んでおり、様々な治療薬が開発されてるものの、苦しんでる人もいるのが現状。
薬が思うように効かなかったり、金銭的に苦しくて効果的な治療ができなかったり、病気そのものを受け入れられなかったり・・・

私の母も、医師から病名を聞いた時はなかなか受け入れられなかった。
「なぜ自分が」と何度も言っていた。
「これからどうしたら・・・」とも。

最初の頃は、指の関節が少し腫れて痛む程度で、日常生活には大きく支障なく過ごせていた。
そして年齢的にまだ仕事をしていたため、会社に隠しながら働いていた。
私も以前ほど実家に帰らなくなり、母がどんな風に過ごしてきたのか、気にかけてあげられてなかった。

それから数年が経ち、徐々に関節の痛みが全身に広がっていった。
痛みのせいで、私が実家に帰る方が負担になると断られることも。
本当はこの時点で、何か気づくべきだったと思う。

定期的に病院を受診しても、なかなか積極的な治療には踏み切れず。
痛みが辛くて寝起きするだけでもしんどい、と。
母は、『生物学的製剤』の使用を拒んでいた。
痛み止めや、でき得る飲み薬の治療でもコントロールできないのであれば、注射などの『生物学的製剤』を始めることが多い。
医者からも勧められてたようだが、副作用や注射自体の痛みなどを恐れて拒み続けていた。

「今 治療を始めなければ、一生 痛いままでもいいの?」
「痛みで動けなくなってもいいの?」

厳しいことだけど、娘だからこそ、本気で伝えた。
娘である私にしか言えないと思った。

関節リウマチになって7年が経った、一昨年の春。
母は62歳になった。
ついに、『生物学的製剤』の使用に踏み切る決意をする。
入院することも拒んでいた母だったが、さすがに入院せず治療を始めるのは難しかったため、リハビリも兼ねて1ヶ月だけ入院するということになった。
その準備のため、久しぶりに母と会った。


・・・その姿に驚愕した。
20kg近く痩せ細り、62歳とは思えないほど老け込んでいた。
痛みで家事は愚か、食事もきちんと取れず、まともに眠ることさえできてなかったというのだ。
そしてその痩せて筋肉が衰えた身体では歩くことさえままならず、人が1分もかからない数mを、10分くらいかけて歩く。
どんなに近場でも、タクシーを使わなければならず、金銭的にも大きな負担がかかる。
それでも屋内は、自力でなんとかしなくてはならない。

だけど潔癖の母は、誰かが助けようと手を貸してくれても、触れられることを嫌がって頑なに断る。
宅配便だって、届けてくれたドライバーが触れたドアノブとかも、後から除菌ティッシュで何度も拭かないと気が済まない。
こういうところが、生活に支障を来して悪循環になる。

ある時、そんな母の歩く姿を見て、「歩けないなんてダッセェー!」って言ってきた小学生の男子が通り過ぎた。
その言葉に私は腹が立ち、何か言い返したかったが、それでも一生懸命 歩く母の側を離れることもできず、黙って付き添った。
母にその言葉が聞こえてたのか聞こえてないのか分からないが、色々な意味で悔しかった。

関節リウマチになるってことが、どんなことなのか。
世界中の人がどんな経験をしてるのか。
自分で病気を受け入れることも辛いのに、他人からこんな風に言われるなんて・・・
当たり前のことを、当たり前にできなくなる。
理解してるようで、全然わかってなかった。

結局 母は、仕事を辞めざるを得なくなった。
元々 私は母に仕送りをしていたが、それだけじゃもちろん足りず、貯金も切り崩す生活をしていて、経済的にも厳しい状況だった。
病気はお金がかかる。
身体を大事にするのが一番だと言っても、どうにもならないこともあると痛感する。

車椅子だって、どこの場所にも備えられてるわけではない。
何かの制度を頼るにしても、まずはどこから?ってなるのが普通だ。
介護保険だって、年齢的な制限もあったりするし、何でもサービスを受けられるわけじゃない。
ましてや、潔癖の母がどこまで赤の他人を受け入れられるか・・・

なんとか入院の準備を済ませ、一昨年の6月に入院した。



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