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音信(五二)

和歌子が授業に出ているあいだに、ぼくは町田に頼みこんでクルマを借り出してきた。
夏の終わりに納車されたまだ新車の三代目の白のプレリュードを大学の門の向かいに乗りつけると、和歌子の姿が目にはいった。
ぼくに気づいた和歌子のほうから手を振ってきた。授業が終わって帰途につく学生たちの何人かが、追い越すときに和歌子をふり返った。和歌子が手を振るさきを、彼らがうらやましそうに見ている気がして、ぼくは心が踊った。
歩道に寄せた助手席に回りこみ、和歌子に変わってドアを開けた。低いシートにしずみこむように座ろうとする和歌子の、ベージュストッキングごしのきれいな膝やふくらはぎを盗み見しながら、ぼくはシャネルのキルトバックを受けとって後部座席に置くと、助手席のドアを閉めた。
和歌子がシートベルトをしたのを確認してから、ぼくはそそり立つペニスを連想させるガングリップタイプのシフトレバーを左手で握ってD4に入れ、やや乱暴にアクセルを踏みこんだ。
歩道を並んで歩いている学生たちの人波が、音もなく後方へ飛ぶように流れていく。
カーステレオのFMのスイッチを入れると、リック・アストリーの「ギヴ・ユー・アップ」が流れてきた。
まだそんなに暗くはなかったが、赤信号で停止したときに、ライトをオンにした。フェンダー両端のリトラクタブルが持ちあがると、低い着座姿勢からはつかみにくい車幅感覚が、ややましになった。
「あなたと会ったのは、今日が二度目」
「え?」
「図書館の閲覧室の、奥の席にいたのを見かけたことがある。青よ」
ぼくはルームミラーに写っている後続のクルマを気づかって、ハザードを点滅させながら、アクセルを踏みこんだ。慣らしが済んでからまだ日の経っていないロングストローク2リッターDOHC145馬力エンジンがなめらかに吹きあがった。
「五月の連休前よ」と、和歌子が言った。
「図書館にはしょっちゅういる。きみと会ったおぼえはないけど」と、ぼくは記憶をたどって言った。
「あなた、いびきをかいて眠っていたのよ」と、和歌子が言った。「シモーヌ・ドレフュスが困った顔をしてゆすぶったりしてたけど、起きなかった」
「シモーヌ・ドレフュス? ドイツのスパイ嫌疑で告発された大尉の奥さんかい?」
「ドレフュス事件のこと?」と、和歌子が言った。
「アルフレド・ドレフュス大尉の妻は、リュシー」
「世界史、とくにヨーロッパの近代史は専門外なんだ」
世界史という教科は、なぜここまで些末な知識を覚えなくてはならないのだろう。受験生だったころにうんざりしていた記憶がよみがえると同時に、それをすらすら言える和歌子にぼくは感心した。
「そうじゃなくて、シモーヌ・ドレフュスは、図書館の司書さん」
「あのブリュネットの、おさげ髪の美人?」
「有名人よ」と、和歌子は言った。
「きみだって、有名人だ」
と、ぼくが言った。
「ぼくのまわりに、栗山和歌子の名を知らないやつなんていない」
「ちやほやされたのは、いっときのことよ。来年の秋には、ぴちぴちしたミスキャンパスがまたあたらしく生まれる」
「今日、このクルマできみを迎えにきたことで、クルマを貸してくれたぼくの友達は、明日から命をねらわれるかもしれない」
和歌子は笑った。
「あれから実際、いろいろな誘いがあったわ。学友会だけじゃなく、学生課の入試広報とかからも。広報誌に載せるのにインタヴューをするからという名目で何度も呼び出されて、写真撮られたりね。看護学部生はそんなに暇じゃないんです、進級できなくなったら責任取ってくれるんですか、そうじゃないなら勘弁してください、って」
「いつもひとりで、読書しているね」
「声はかけないで、っていうアピールよ」
と、和歌子は言った。
「わたしは、かわいいだけのお人形を演じるつもりはありません。そういうのを期待されても、困ります」
「なるほど」
「わたしに声をかけてきた男の人に、読書家はひとりもいなかった」
「だけどぼくは、ラディゲを読んでいる。谷崎や三島が好きだけれど、ハヤカワのミステリやSFも読む。ハーレクインロマンスは読まない」
「そう。あなたは、わたしと同じにおいがする。だからこうして、話ができる」
「高校の図書室の司書の先生が言っていたことは、うそではなかった」と、ぼくは言った。「読書はみなさんの人生を豊かにします」
和歌子は笑った。

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