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読書感想 『〈公正〉を乗りこなす 正義の反対は別の正義か』  「考え続けるための親切なガイドブック」

 本が売れなくなった、と言われてからが長い。

 電子書籍が登場する前から、記憶にある限り、出版不況という言葉しか聞いたことがなかった。どうやら戦後すぐの頃は、本がすごく売れた時代があったらしい、という話を、それこそ書籍などで読んだことがあるけれど、ぼんやりとしたイメージしか浮かばない。

 そして、今は紙の本の存在自体が危うくなっているし、電車の中などではほとんどの人がスマホを見ていて、本を読んでいる人がいるだけで珍しいと思うようになっている。


100分de名著

 それでも、まだ、あちこちのメディアで、本をすすめる人は多い。

 このテレビ番組では、主に1冊の本を25分×4回。NHKだからCMもなく、本当に「100分」で紹介するのだけど、聞き手としての一人に伊集院光がいて、時々、指南役をちょっと驚かせるほどの視点を提供するのも見逃せない。

 そして、毎月「指南役」として本の解説をする専門家についてだけど、ただ内容を移し替えるように語るのか、それとも自分の視点も含めて紹介してくれる人なのか。その人によって、この番組の熱量のようなものまで変わってくるところも、興味深い。

 そして、このローティの話をしてくれた朱喜哲氏のことは失礼ながら知らなかったのだけど、自分自身の感覚も十分に生かしながら、惜しみなく伝えてくれているような気がして、この紹介した著書だけでなく、朱喜哲氏自身の考えも知りたくなった。

 それで少しだけ検索をして見つけた本を読んだ。

『〈公正〉を乗りこなす 正義の反対は別の正義か』  朱喜哲

 「正しさ」について、実は以前よりも、特にSNS上では盛んに議論されている印象があるものの、同時に社会で「正義」が実現されている気もしていない。だけど、「正義」を議論すると、今はもっとも不毛な時間になりやすいようにも思う。

 例えば、「正義」だけではなく、「不偏不党」や「公正公平」という言葉などの議論にも関わりたくないような気持ちにもなる。

「正しさ」にまつわることばについて、「ほんとうの意味」をうまく説明できるひとは、じつはほとんどいないのかもしれません。
 こういった実感も背景として、わたしたちは少なからず「やっぱりこんな説明の難しい、ややこしい言葉を使うのはやめておこう」と思ったり、あるいはこの口ごもってしまう感覚のゆえに、「こういうことばは、ひとを黙らせるためにインテリや運動家が使うもので、〈正しさ〉が振りかざされる社会は息苦しい」というような反感を募らせるということが、じっさいにありそうです。 

(「〈公正〉を乗りこなす」より)

 人を黙らせるような正しさを説く言葉はあちこちで目にするような気がしていたが、こうして、現状の整理から、ゆっくりと始めてくれるのであれば、何か分からないことを話し続けるということはなさそうだと思ったし、読み進めていくうちに、一緒に考えられる速度の文章だと感じてくる。

「正義の反対は悪ではなく、別の正義」

 この「正義の反対は悪ではなく、別の正義」といった言葉は、特に近年よく目にするようになった。そして「それぞれの正義がある」といったワードも多く使われているようだし、もしくは「正義の暴走」などと指摘され、誰かが黙らされるような場面も、よく見かけるようになった気もする。

 ただ、そうしたことに対して、違和感はずっとあった。

 哲学用語では「相対主義」といいますが、こうした「どっちもどっち」「正しさはおのおのだから、けっしてわかりあえない」という冷笑的な態度が、「正義」のようなことばに向けられるようになったわけです。この相対主義的な感覚は、おそらく現代の日本語においてはいまだに根強いのではないかと感じます。
 しかし、少なくとも現代アメリカの政治のことばでは、かならずしもそんなことはありません。キングの時代からバイデン=ハリスまでのあいだに、一度は活力を失ったこの理念に、ふたたび息を吹き込んだ哲学者がいたからです。
 その人物こそ、ジョン・ロールズです。 

 それぞれに対立しうる「善/よいこと」の構想から、どのように万人が合意しうる「正義」をつくることができるのか。この道筋を、きわめてテクニカルに描きだしたのが、『正義論』という分厚い書物でした。 

(「〈公正〉を乗りこなす」より)

 その『正義論』が出版されたのが1971年だった。そこからの蓄積が現代アメリカの政治にはあるのは間違いないようなのだけど、この本の著者は、こうした「思想」の歴史を紹介するだけではなく、「正義の反対は悪ではなく、別の正義」といった現代の日本でよく見られる「日常的」な主張には、こうした対応が適切ではないか、という提案にもつなげてくれている。

 とくに日本語でありがちな「それぞれに正義がある」とか、「正義の反対は悪ではなく、別の正義」といった安っぽい相対主義を標榜する紋切型のことばづかいはやめておこう。そういう場合には「正義」ではなく、たんに「なにをよいと思うのか」、つまり「善についての考え方(善構想)」と言えばよい、というのが最重要ポイントでした。 (中略)
 それによって「正義」ということばは、この出発地点からはじめて、ときに対立しうるそれぞれの利害を調整し、バランスをとりながら、それでもいっしょに社会を営みつづけるための政治的な理念のことばとして使うことができるようになるのでした。

(「〈公正〉を乗りこなす」より)

 それぞれが抱いている「善に対する考え方」を「正義」と混同してしまえば、そこで対話も終わってしまう。そうではなく、「正義」とはもっと社会的なことだというのが明らかになるだけで、不思議と気持ちが少し楽になった気がした。

「正義」の前提としての「公正」

 そして、その「正義」を実現するためには、まず社会が「公正」でなければならない、と著者は話を進める。

 それ自体が、また定義などが難しそうではあるが、それでも、実はよく目にしている「公正」についての話も、著者はゆっくりと進めてくれているように思う。

 だから、これまで、これが「公正」(フェア)ではないか。となんとなく信じ込んでいるようなことが、かなり不正確、場合によっては間違っていることについて、改めて考えられるようになる。

 わたしたちは、多数派だけでなく「全員にとっての利益」に資するよう、自身の自由を制限するという責務を担っているのです。なお、さきほどの社会観をふまえれば、「全員にとっての利益」とは、「最大多数の最大幸福」ではなく、「少数派をふくむ個々人にとってのニーズ」ということを意味します。

(「〈公正〉を乗りこなす」より)

 こうしたことが「きれいごと」ではなく、例えばジョン・ロールズの『正義論』でも議論され、「公正」を考えることの「前提」でもあることを知ると、それに対して無知である恥ずかしさもあるものの、人類が考えてきたことの証でもあるようにも感じ、少しうれしくなる。

 そんなことを思えるのは、著者が「公正」であることについても、身近な出来事と結びつけて語ることを厭わないおかげのようだった。例えば、まだ記憶に新しいコロナ禍の時の「自粛」に関して、こうした表現をしている。

 このとき、わたしたちの忍従-----たとえば夜八時以降は外食をしないといった自粛----によって、公衆衛生や医療リソースの確保といった利益を享受している者(たとえば政治家)が、自身の行動の自由は制限せず、会食をくり返したり深夜まで繁華街で飲食をしていたとなると、それはフェアではない、と責めたくなるはずです。これは単純化してはいますが、ロールズ的な「公正」の用法といってよいでしょう。 

(「〈公正〉を乗りこなす」より)

 同時に、偏った職種だけが「自粛」を強いられていたことについても、「公正」から見直すことができると、著者は指摘している。

 飲食店ばかりが不公正に利益を制限されているとして、そのバランスの欠如を問いなおし、「分配」を再検討することが求められるのがロールズ的な理路であると思われます。

(「〈公正〉を乗りこなす」より)

 そして、新鮮だったのが、こうした「公正」であることを、どうしても個々人の心がけのように考えてしまうのだけど、それ自体に無理があるのではないか。という視点だった。

 公正であることとは当人の考え方の傾向や資質、つまり内心の優しさや思いやりとは関係ありません。むしろ、内心はどうあれ、社会という「みなでとりくむ命がけの挑戦」に参画するからには遵守を求められ、それはふるまいの次元において具体的に反映されなければならないルールなのです。
 「公正」や「正義」が気持ちの問題ではないという、この論点の重要性は-----これらの「正しいことば」をどうにも使いづらい-----日本語における用法と比較してみることで、いっそうきわだつはずです。

(「〈公正〉を乗りこなす」より)

 ここから、その日本語における用法の具体例として、「道徳」に関する言葉から、著者は注目している。例えば、「公正」に対しての認識に対しての無理が、すでにそこから始まっているのかもしれない、という検討に入っていく。

日本の道徳教育

 日本の道徳教育では、「正義」も「公正」も、個人の問題になっていることを、まず著者は指摘する。

 あくまで個人の内面、主観的な動機と、その発露としての個々人の行動が問題になっているのです。ロールズ流の場合、公正さとは一種のバランス感覚にかかわりますが、それはけっして「気持ちの問題」ではありません。道徳的だから公正にふるまえるのではなく、どんな価値観をもっているとしても社会でともに生きる以上は公正でなければならないのです。

(「〈公正〉を乗りこなす」より)

 実は「公正」さは、内面的な問題ではない。それは、改めて指摘されないと気がつかないくらい、自分にとっても、日本の道徳教育的な思想が内面化されているようだった。

こうした懸念を裏づけてしまうような記述を、学習指導要領の「解説」において見つけることができます。以下、「公正・公平・社会正義」を解説する箇所から引用します。

  社会正義は、人として行うべき道筋を社会に当てはめた考え方である。社会
 正義を実現するためには、その社会を構成する人々が真実を見極める社会的な認
 識能力を高め、思いやりの心などを育むようにすることが基本的になければなら
 ない。

 ここでの「正義」は、なんらかの個人的の道徳や倫理観(「人として行うべき道筋」)なるものが先にあって、それが社会という単位に拡張されたものだという理路になっています。だから、正義の実現にさいしても個々人の能力向上や良心 ―「思いやり」― の育成が必要になるという理屈なのです。
(中略)
 しかし同時に、社会正義という公共的で政治的な関心事の成立が、わたしたち個々人の能力や良心の問題になされてしまってもいます。

(「〈公正〉を乗りこなす」より)

 これも「公正」に対する「自己責任」なのだろうか。ただ、このことに、自分自身が、ほぼ気がついていなかったことに思いが至ると、ちょっと怖くなる。さらに、学習指導要領の具体的な文章への指摘から、考えが進められている。

  集団や社会において公正・公平にすることは、私心にとらわれず誰にも分け隔
 てなく接し、偏ったものの見方や考え方を避けるよう努めることである。

 これが、学習指導要領からの引用なのだけど、このことに関して、著者は、こう指摘している。

 最後の「努める」がかかっている範囲の解釈が分かれそうですが、「接し」と「避ける」の両方にかけて読むのが無難でしょうか。そうすると「公正・公平」とは、つぎのふたつの努力目標にかかっています。ひとつは「私心にとらわれず誰にも分け隔てなく接」するという、およそ立派なおとなであっても達成できないようなふるまいへの努力。そして、もうひとつは「偏った考え方を避ける」という内面にかかわる努力です。 

(「〈公正〉を乗りこなす」より)

「法外な目標」

 こうした「学習指導要領」の目標が、かなり無茶なことであるのは、よく考えればわかるようだ。

(次の引用の中の「前者」とは『「私心にとらわれず誰にも分け隔てなく接」するという、およそ立派なおとなであっても達成できないようなふるまいへの努力』を指します)

 まず前者の努力目標が法外である、ということはすぐ指摘できます。ロールズ流「公正」も、ひととの接し方におけるルールではありましたが、それは共通する利害の配分におけるバランスの問題でした。そして、具体的なケースにおいて、どのような状態であれば公正が実現しているのかは原理的に特定できるものです。この場合、わたしたちはより公正である、そしてより正義にかなった社会というものを構想できます。

(「〈公正〉を乗りこなす」より)

 つまり「法外な目標」---実現不可能なこと---は、人を奮い立たせるのではなく、最初から諦めさせ、無気力や無関心を呼びやすい。そのことで、実は社会にとっては必要不可欠である「正しいことば」を虚しいものにする、という著者の指摘は、とても重要なことなのはわかる。

 その具体例も挙げられている。

 たとえば「男女雇用機会均等法」などがそうですが、これは「機会の公平」、この場合は就業のチャンスが平等に分配されている状態をめざすという理念を掲げた法です。このとき、「公平さ」を実現させることは採用組織(に属する者)が公的に担う責務であって、個々の採用担当者の思いやりや良心の問題ではありません。
 こうしたことはわかっているはずなのに、どういうわけか小学校の道徳教科では「公正・公平」を、個々人が努力して養うべきものとして教えることになっているのです。それはあまりにも途方もない、法外な目標設定でしょう。こうした「正しいことば」が日本語において空虚に響くとしたら、それは初等教育における無茶な用法と無関係ではないと思います。

(「〈公正〉を乗りこなす」より)

 そして、道徳の「学習指導要領」の「正義」に関しても、このような解釈を提出している。

 「正義とは任意のもの(ひとつの善思想)だが、まともに教育を受けたならばめざされるべきもので、めざさない人間は弱い」という帰結が出ます。さらには「正義が実現しないのは、弱さを克服できない人間のせいである」ともいえそうです。
 これらはいずれも、公共的な目標設定とその斬新的な達成にかかわる課題を、個々人の努力と内心の問題に帰着させ、制度や組織を免責することにつながっています。わたしたちが、日本語において「正義」はどこか息苦しいという感慨をもつとしたら、それにはこうしたじゅうぶんな背景があるわけです。

(「〈公正〉を乗りこなす」より)

 少し目の前が開けたような気持ちになったし、その根深さに怖くもなった。

会話のルール

 この書籍の中には、これからも考える必要のある大事な問題が、数多く挙げられているのだが、読者も自分なりのスピードでゆっくり考えられるように書かれているので、その難しさに振り落とされにくい印象になる。

「道徳としての正義」とトランプ現象

積極的無関心のすすめ 

「自由」を大切に使う

「不寛容に対する寛容」は成り立つか 

なによりまず「残酷さ」を低減せよ

理論的なことばだけでは足りない

「公正」というシステムの責任者 

(「〈公正〉を乗りこなす」より)

 こうして、見出しを並べただけでも、かなり幅広く、どれも手強そうなテーマばかりではあるのだけど、すぐに諦めるのではなく、考えなくては、というよりは、考えたくなるような思いになるのは、この文章全体を、リチャード・ローティの思想が支えているからではないだろうか。

 「会話の根本的ルールは、それを打ち切らないことである」---そういう趣旨のことを主張した哲学者がいます。その人物こそ、本書でたびたび登場することになる主役のひとりであるリチャード・ローティです。 

(「〈公正〉を乗りこなす」より)

おすすめしたい人

 「正義」や「公正」。そうした「正しいことば」について、違和感を持っている人。関心がありながらも、遠ざけてきた人。社会に対して疎外感を感じている人。

 本来であれば、特に選挙権のある18歳以上の方なら、どなたでも読むべき本だとは思うのですが、特に「正しいことば」に関して、もやもやした気持ちを持っている方でしたら、少し視界が開ける気持ちになれる書籍だと思います。



(こちら↓は、電子書籍版です)。



(他にも、さまざまな書籍に関して、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。




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