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ドライブ・マイ・カーにおける二重の虚構性

映画という虚構の中に、映画や舞台という形で入れ子式にもう一つの虚構が配置される、いわば「二重の虚構性」とでもいうべき演出をみせられると、その人についての真実がその人がただ真実を語るよりも雄弁に語るように感じられることがある。たとえば映画『地獄の黙示録』では米軍兵士たちにPlaymatesの女性たちがステージ・ショーを見せる慰安のシーンがある。ここでは兵士たちをダンスすることで「愉しませる」Playmatesたちの虚構性とおかしみが、主人公ウィラードが見つめる遠景を通すことで強調されている。ここでの真実とは—消費される存在としての女性性—、とでも言おうか。

 濱口竜介の『ドライブ・マイ・カー』では、この二重の虚構性が物語の中心的な主題として機能している。家福(西島秀俊)と彼の周りの人々が劇中で取り組んでいるのは、演技を通すことで「自分自身をまっすぐ見つめる」活動である。それは単に言葉をやりとりするだけでは実現できない。いや、濱口自身が単なる言葉のやりとりを信用していないともいえる。パク・ユリム(イ・ユナ)が手話によるコミュニケーションを行い、家福がサーブの車内での台本読みを行い、高槻がオーディションでジャニス・チャン(ソニア・ユアン)に詰め寄る演技を行うとき、「本音」によるコミュニケーションを捨てた彼らの身体は、ただ話すよりも雄弁に彼らについての真実を語っている。渡利みさき(三浦透子)による「たとえ演じていたとしても、それは心からのものでした」と語る台詞に、濱口による演技性の反演技性、とでもいうべき二重の虚構性の信念が如実に表れている。

濱口は二重の虚構性の「媒介性」を示すために、劇中に鏡を巧妙に配置した。筆者が気付いただけでも、まず家福の家の鏡。家福は家福音(霧島れいか)の不倫を、この鏡の虚像を視認することで知る。次に不倫発見後の家福が音と行う、テレビ電話の画面。ここにおける二人の結婚生活の虚構性は殊更に強調される。そしてオーディション会場の大型鏡。最後に、サーブのバックミラー。鏡を配置した濱口はその虚像をアングルに収めることで、家福たちの虚構性を強調する。

この媒介性を、濱口が好んで多用する小津安二郎の正面ショットや濱口メソッドとして有名な「本読み」の活動と共に勘案すると、濱口は本作でもスクリーンと観客の間の壁を取り去ろうとする、静かで挑発的な試みを続けているのだな[1]、と感じられる。上に示した鏡の例では、映画のスクリーンの中に虚像が配置されることで、観客は虚像をみつめる家福やみさきたちと同じ「側」へと、スクリーンの中に引きずり込まれる。またジャニスと抱き合うパクの顔が正面ショットで切り取られるシーンや家福とセックスする音の顔が同じように切り取られるシーンからは、否応なしに観客も、パクや音が見つめる「第三者」としての立場へと引きずり込まれる。そして本読みという作業も、「演じる」のではなく本人が本人なりに「生きる」ことを実現することで、「役」と「本人」との境界線を切り崩す作業として機能しているのだ。

思えば、虚構性を媒介することで現実の虚構性を強調するというシニカルな作業は、翻訳調の文体を通して非現実的な「異界」と現実社会の対比を描く村上春樹作品の特徴と大いに重なる。濱口の演出法が村上文学から出発しているのか、はたまたそうではないのかは、わからない。少なくとも今は、本作が生んだ濱口メソッドと村上文学の「奇跡」的な融合を、『ドライブ・マイ・カー』の他にももっと観てみたいと願うばかりである。



[1] 『寝ても覚めても』(2018)でも本読み・正面ショットが用いられ、現実と虚構の境界線を切り崩す試みが行われていた。

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