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ハードボイルド書店員日記・特別編

「NHKどこ?」

週末の午後。雑誌担当がひとりもいない。代わりをできる人も。仕入れ室に積まれた「ゼクシィ」の梱包を開け、ふたつの付録をゴムで挟み込む。1冊300円。書店の利益は2割。たった60円。

3冊を抱えて棚へ運ぶ。昔より値段が下がり、重さは増した。年齢のせいかもしれない。腰の骨がきしむ。歩みを進める途中で「週刊文春どこ?」と訊かれた。アンタの目の前だよ。押し殺して「すぐそちらが週刊誌のコーナーでございます」笑顔を浮かべる。「ふうん」とだけ返された。この国に刑法があることに感謝した方がいい。

出し終えたら次は「ポケモンファン」と「ニコラ」だ。レジに入った際の感触だと、雑誌の中ではこのふたつの動きが特にいい。

ベルが鳴る。カウンターの前にS字の列。右脇のPCの前で新人の女性が問い合わせを受けていた。白髪の男性に「まだ?」と催促されている。

「えーと…」「何でわからないの? 他の本屋ならすぐ教えてくれるよ」「申し訳ございません」「ったく、この店は新人にどういう教育してんだ! NHKはどこかって訊いてんだよ!」NHK放送センターなら渋谷にある。もちろん彼が探しているのはそれではない。ウチの店におけるNHKテキストの所在地を知りたいのだ。しかし言葉通りに受け止めれば彼女の困惑も間違いではない。

「何かお探しでしょうか?」痛む腰をかがめて近付く。「だからNHKどこ?」だから正確に言え。「テキストでございますね?」「そう。ラジオ深夜便の本を探してるんだけど、あの新人のおねえちゃんが全然わからなくてさ」初めからそう伝えれば彼女にもわかったはずだ。「ご案内します」

戻ってくる。姿が見えない。事務所へ向かう。椅子に座って俯いていた。「大丈夫?」「あ、先輩。さっきはありがとうございました」目が合う。はっとした。白ウサギの虹彩。「NHKテキストの場所、わかるよね?」「わかります」退勤後に店の中を歩き、どの本がどこにあるかを確認している姿を何度か見た。「だったら気にしなくていい」「すいません…何か悔しくて」人差し指で目をこする。「NHKどこって、テキストどこって意味ですよね。何でわからなかったんだろ。自分で自分が恥ずかしいです」

「いいものがある」事務所内にあるロッカーへ戻り、鞄から本を取り出す。出勤前にニュースを見て衝動的に放り込んだ一冊だ。「何ですかそれ」「角川書店から出てるアントニオ猪木の詩集『馬鹿になれ』だ」あんとにお。確かめるように口に出す。「あ、今日お亡くなりに」「そう」「プロレスをやられていた方ですよね」彼女の年代ではその認識が限度だろう。私が子どもの頃ですら、すでに参議院議員として世界中を飛び回っていた。イラクで「スポーツと平和の祭典」を開催し、日本人の人質を連れ帰ったのは本当にすごいことだった。

「18ページを開いてみて」「はい。18ページですね」じっと見入っている。「かいてかいて恥かいて 裸になったら見えてくる 本当の自分が見えてくる」口の中でつぶやいている。「どう?」「……」何も言わずに別のページを開いた。そこにはこう書かれていた。「毒をも承知で飲む勇気 嫌いな奴をも飲み込んで 明日は明日の風が吹く」

「先輩」顔を上げた。ウサギはもうどこにもいない。代わりに黒目の中で雪の結晶が瞬いている。「この本、貸して下さい」「いいよ」「注文してお店に置きませんか?」「残念ながら出版社にないんだ。文庫版も」「そうなんですか」「復刊してほしいよね」「はい。何だか元気が出てきました」「わかる」「これとか可愛くないですか?『冷蔵庫の納豆 食べちゃってごめんね』」「ははは」大丈夫そうだ。

「レジに戻れる?」「これロッカーにしまったら戻ります。すいません、ありがとうございました」「じゃあ最後に30ページを」

見なくてもわかる。そこにはこう書かれているはずだ。「どんなに道は険しくとも 笑いながら歩け!」

猪木さん、ありがとう。大事に読み続けます。本当にありがとう。

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