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ハードボイルド書店員日記【157】

「この手帳、置いてない?」

同僚のひとりが有給休暇を取った平日。何も問題はない。当然の権利だ。自分の時間を楽しんでほしい。問題があるとすれば、ひとり欠けただけで開店ギリギリまで雑誌を棚に並べられず、書籍の荷開けも終えられぬ人員体制の方だ。

カウンターの裏や仕入れ室にゴミや諸々の残骸を隠し、どうにか体裁を整えて朝10時を迎える。アイドル情報誌と付録付きの女性誌を携えたお客様が大挙してレジへ押し寄せた。元気そうで何より。こちらはすでに全身汗まみれでHP残量は7ぐらいだ。腰も痛い。だが棚への補充を待つ群れがブックトラックに万里の長城を形成している。レジを脱出できるのは1時間半しかなく、急いで品出ししていてもひっきりなしに「○○はどこ?」と訊かれる。ぜひ検索機を。難しくないです。

レジに入る。袋が要るのか要らないのかはっきりしない人が来た。やけに偉そうな高齢男性。有料だから何度でも確かめる。「ご不要ですね?」反応がない。打ち終えて本を渡したら「要るって言っただろ!」と怒鳴り出す。「なんて名前だ?」凄んできたから「どうぞ覚えておいてください」と名札を見せる。こういうケースで怖がるのは扶養家族のいる正社員の役職者ぐらいだ。一部始終を眺めていた孫ぐらいの歳のカップルから冷めた視線を向けられていたとはよもや知るまい。

ようやくカウンターから抜ける。早々にお問い合わせ。小柄な中年女性。薄くて赤い手帳を差し出された。裏のバーコードは一段。文具扱いだからパソコンで検索してもデータは出ない。肉眼でコーナーを見渡す。

置かれていない。「いつもいまぐらいの時期にここで買ってるんだけど」「少々お待ちくださいませ」下のストックを片っ端から引き出す。ない。ない。あった。ご丁寧に同じメーカーの手帳がすべて押し込められていた。高橋とNOLTYに占められてスペースがないから後回しにし、そのままのパターンだろう。

「大変お待たせ致しました。こちらでよろしいでしょうか?」「ありがとう。ごめんなさいね、お忙しいところ」こちらこそ本当に申し訳ない。笑点のカレンダーが棚に出ていなかったという数日前の同僚のボヤキが頭を過ぎった。同じ人が毎年買いに来てくれる定番を出さないのは考えられない。

「あ、そうそう。他のお店で買ってとても良かったのだけど、ここでも置いてるかしら? 友達に贈ろうと思って」年季の入ったハンドバッグから栞の挟まった文庫サイズが取り出される。タイトルは「本屋の周辺Ⅰ」で著者は松永弾正。緻密な記事をnoteで読んだことがある。

「これはZINEですね」「ZINE?」「簡単に言うと、少部数で発行する自主製作の出版物です。なので当店では」「○○○○に置いていたから、てっきり」某個人経営店の名が出た。「チェーン系書店よりも、ああいうところの方が比較的お取り扱いをしているかと」「そうなんだ」「いい本ですよね。全国の街の本屋とそれに纏わる歴史を紹介してくれて」「あなたも読んだの?」「22ページが頭に焼き付いています」そこには著者がとある古本屋の店主からもらったこんなアドバイスが記されていた。

「とにかく何でも本を読め。読んで頭に地図ができれば何でも吸収できる」

実際に開いて確かめ、眼鏡の奥の目を円くしている。「よく覚えてるわね」「たまたまです」「どこで買ったの?」「大きな声では言えませんが」都内某所にひっそりと佇むお店の名を告げる。知っていた。かなりの愛書家だ。「今度近くに行く用があるから寄ってみるわ」「火曜と水曜が定休日です」「ありがとう。じゃあ手帳のお会計してくるわね」

「本屋の周辺Ⅱ」がもうすぐ発売されると数日後に知った。ウチの店長にはおそらく返品がどうとかで拒否される。でも例の本屋は仕入れてくれるはずだ。あの女性が来たら教えなくては。不可能なのは承知で言わせてもらう。本と本屋を好きなお客様とだけ接したい。

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