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『夏草の記憶』 トマス・H・クック

『夏草の記憶』 トマス・H・クック

痛ましく残酷な、青春の愛の物語である。

南部の田舎町で、地元の医師として敬愛されているベン。しかし、穏やかな中年医師の顔からはうかがい知れない深い闇を、その心は抱えている。
妻にも親友ルークにも告げることのできない、ベンの胸に秘めた大きな重荷は、青春時代に起きたある出来事に関するものだ。

ベンがハイスクールの2年生の時、北部の大都会ボルティモアから、一人の転校生がやって来た。
浅黒い肌と黒い巻

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『まどろみの檻』 皆川博子

『まどろみの檻』 皆川博子

湿気をはらんだ風が吹く、曇りとも晴れともつかないような日の読書に、皆川博子を選んでみた。
今回は短編集『悦楽園』に収録されたこちらの作品を紹介したい。

*****

冒頭から、ぞわりとする異様な光景。耳を片方断ち切られ、血を流しながら走り去る猫という、何か気味の悪い恐ろしい出来事を想像させるその記述の後で、ぽんと出される下の一文のインパクト。これぞ皆川ワールドだ。

主人公の秋本は、中高一貫の私

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『希望のかたわれ』 メヒティルト・ボルマン

『希望のかたわれ』 メヒティルト・ボルマン

オランダ国境に近いドイツの村。
農夫のレスマンが朝の作業をしていると、道を歩いてくる一人の少女の姿が目に入る。零下10度の寒空というのに、肩がむき出しの薄いドレス一枚だ。
何者かに追われているらしい少女をレスマンは家に助け入れる。

場面は変わり、ウクライナへ。
ここは、チェルノブイリ原発事故により汚染された立入禁止区域。
誰も住まないその土地に打ち捨てられた一軒の家に、ヴァレンティナという女性が

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『生は彼方に』 ミラン・クンデラ

『生は彼方に』 ミラン・クンデラ

この小説はミラン・クンデラがまだチェコにいた1960年代末に書かれた。しかし、自由化運動に加わっていた著者は自国では弾圧の対象になったため、小説はフランスの出版社から、フランス語版で出版されることになる。
その後フランスに亡命した著者が、著作のフランス語訳の全面的な見直し作業を行い、そうした見直しを経て1991年に「新訳」(および「決定版」)として出版されたもの(の日本語訳)が本書である。

本書

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『花びらとその他の不穏な物語』 グアダルーペ・ネッテル

『花びらとその他の不穏な物語』 グアダルーペ・ネッテル

惚れた腫れたの酸いも甘いもとりあえずは経験済みで、過去には疼いた傷も今は懐かしく思い出せる。そんな大人が楽しめるのは、直球ストレートの恋愛小説よりも、クセのある珍味のアラカルトのようなこんな短編集かもしれない。

向かいの集合住宅に住む男を、カーテンを閉じた窓の奥から観察し続ける女。
自分と妻とは違う種類の「植物」だと気づいてしまう男。
見知らぬ女性の痕跡を探し求めてレストランの女性トイレを覗き回

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『悪の誘惑』 ジェイムズ・ホッグ

『悪の誘惑』 ジェイムズ・ホッグ

2世紀も前のヨーロッパのゴシック小説など退屈だろうと思うなかれ。嘘のように引き込まれる作品だ。
読み始めたら止まらない面白さとは、本書の序文でもアンドレ・ジッドが熱を込めて述べているが、同時代人のジッドにあらずとも、読み出したら止まらなくなってしまう。

本作は三部構成になっており、1824年の発表当時からおよそ百年前に起きた出来事について書くという体裁になっている。

まず第一部では、ある兄弟の

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『ピュウ』 キャサリン・レイシー

『ピュウ』 キャサリン・レイシー

こんなに心に訴えかける本はなかなかない。とにかく読んでほしい一冊だ。

この物語の視点であり語り手は、ピュウと呼ばれる人物であり、これは、ピュウがある町に現れてからの一週間の物語である。

どこから来たのか分からない。人種も年齢も、性別も定かでない。何を聞いても一切言葉を発しない。そんな不思議な少年/少女が、ある町にある日突然姿を現し、住民たちは彼/彼女をピュウと呼ぶようになる。

ピュウ(pew

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『この闇と光』 服部まゆみ

『この闇と光』 服部まゆみ

エマ・ドナヒューの『部屋』。
角田光代の『八日目の蝉」。
どちらも、映画化ドラマ化されたものも合わせて素晴らしい作品だ(私は『八日目の蝉』はNHKで放映されたドラマ版が好きだ)。さらわれて戻ってきた子供という題材は、作家を刺激するのだろう。
だが本書で著者が創り出した物語は、その分野の中でもなかなかにユニークなものなのではないだろうか。
難しいことは考えず、巧みに紡がれた物語に翻弄される楽しみがこ

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『アトランティスのこころ』 スティーヴン・キング

『アトランティスのこころ』 スティーヴン・キング

1960年から現代までのアメリカを、いくつかの人生に乗せて描いた長編大作。読書の高揚感をかき立てる、上下巻組の大型本だ。

物語の幕開けは1960年、コネティカット州郊外の住宅地。11歳の少年ボビーは、母親と二人でつましく暮らしている。
ボビーには毎日つるんで遊ぶ気の合う友人がいて、恋人になりそうな女の子もいる。目下の関心事は、どうしても欲しい自転車を購入するために、お金を貯めること。
そしてもう

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『緋の城』 木崎さと子

『緋の城』 木崎さと子

とても怖い、そして言いようもなくセクシーな小説だ。
この物語には「女性」というものが万華鏡のように映し出されている。
母性と少女性。現実をさばくたくましさと妄想に浸る危うさ。頑なに理性的かと思えば本能的な心のブレにはしなやかに従う。
「わたし」は、そんな女性という性が持つ特質を体現しているかのようなヒロインだ。
そのさらけ出された女性性の暗い部分が怖く、そしてさらけ出されているというそのことに官能

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『階段を下りる女』 ベルンハルト・シュリンク

『階段を下りる女』 ベルンハルト・シュリンク

美しい女性の登場するラブストーリーと思いきや、消化不良になりそうな難易度の高い内容だった。ストーリー自体はシンプルなのだが。

語り手の「ぼく」は、フランクフルトで駆け出しの弁護士だった頃、忘れられない恋をした。
発端は奇妙な依頼だった。
依頼主はシュヴィントという画家。彼はグントラッハという金持ちの注文で、グントラッハの妻イレーネをモデルにした絵を描いたのだが、その後イレーネと恋仲になり駆け落ち

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『きのうの神さま』 西川美和

『きのうの神さま』 西川美和

医者というキーワードで書かれた5編から成る、傑作揃いの短編集だ。

*****

「1983年のほたる」の主人公は、田舎の小さな村に住む小学6年の少女。
彼女は自ら希望して、村からバスに乗って市内の塾に通っている。

塾の帰りのバスは、いつも同じ運転手が担当している。お互いの存在は認識し合っていると感じつつも、顔見知りというような親しい間柄ではない。
そんな運転手がある日の帰りの車内で、少女に話し

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『二人のウィリング』 ヘレン・マクロイ

『二人のウィリング』 ヘレン・マクロイ

枯れ葉が風に舞う公園のベンチで読むなら、こんな古き良きミステリーはいかがだろうか。
アメリカのミステリー作家ヘレン・マクロイによる、精神科医探偵ウィリング博士のシリーズ9作目、『二人のウィリング』である。

煙草屋で出会った男が、自分と全く同じ名前を名乗っているのを偶然耳にしたウィリング。
不審に思い後を追ってみると、男が向かったのはとあるパーティー会場だった。
そして男は、素性を明かす間もなく、

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『ビル・ビリリは歌う』 黒井千次

『ビル・ビリリは歌う』 黒井千次

「内向の世代」を代表する作家であり、サラリーマン小説界の重鎮(そんな界があるならば)、黒井千次の自選短編集『石の話』から、昭和36年発表、著者が20代で書いた『ビル・ビリリは歌う』を紹介したいと思う。

どこかおとぎ話のような語り出しで始まる物語。

13階までのフロアーがあり、何万という人々が日々働いているこのビルで、ある日異変が起こる。かすかに、どこからか赤ん坊の鳴き声が聞こえはじめるのだ。

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