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ドリアンのバイブル・ワールド

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世界のロングセラー、ベストセラー、聖書を、日本の外に視点を移して読んでみたら・・・
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ドリアンのバイブル・ワールド

こんにちは、インドネシアのドリアンです聖書を読み始めたのは、1980年頃だったかと思います。それから、40年。 聖書は読めば読むほど味わいが深まります。インドネシアに来て30年ですが、日本では味わえないことごとも合わせ、聖書への視点も変わったように思います。それで、自分なりに教わったこと、思ったことなどを書いてみようとはじめて20年くらい。HTMLの基本形でちまちまとサイトを自作してたのも今は昔。 また新しい媒体で、新たな気分で始めようと思います。古いコンテンツも、折々ノ

天国は近づいた

天国って、死んでから行くところとばっかり思っていたけれど、今すぐにでも天国の住人になれる、そこから永遠に、天国に生きることになる、と知らされたのでした。 聖書が教える「目に見えない天国」は、気持ちの問題だけではない。イエス・キリストが到来して、そこに天国があったのです。 ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。(マルコによる福音書1章14-15節) 「2000年前、イエス・キリ

マリー・アントワネットと自由と永遠のいのち

ミュージカルを観劇。 王と、商人と、貧しい民衆と、クーデターを企てる者と、司祭。 宗教も人の活動に過ぎないんだから、司祭だろうと誰だろうと、支配されるよりは支配するものになりたい人間どうしのやり合い、という部分も出てくる。 司祭は、裁判には勝ったけれど、神の裁判での評決は、どうだろう? ルイとマリーと子供たち。貴族たちや、商人たち。だれが、天国に行くんだろうか。神の取り合い、祈り合い。強い祈りのほうが綱引きに勝つ、というわけでもないよな~ やっぱり、最後のゴールめざ

君の名は「不思議」。

ここの「君」はプリンス。だから、本当は「きみ、きみ」なんて気軽に声はかけられないんだけれど、向こうから近寄ってきてくれて、会話ができる。 さて、マノアという名の人がいました。子供のない夫婦でした。 主なる神の使いが妻に現れ、「あなたは身ごもって男の子を産む」と告げられるのです。続けてその御使いは、「その子がペリシテ人からイスラエルを救い始める」と予告します。 そのころ、イスラエル民族は近隣のペリシテ人の支配下に治められていたのです。 妻は夫のマノアに話します。それでマ

愛を信じられないのは、、、―ヨハネによる福音書―

信じることが大切で、何を信じるかはそれぞれでいいだろう、と思っていた。本当の神なんてそもそもいなくて、人がそれぞれに心に信じているだけなんだから、と。そんなことを考えていた自分は、それじゃあ、たとえば、親のことはどれだけ、どのように、信じていたんだろうか。 何をしても許してくれる、自分のことは信頼してくれている、と、信じていたんだろうか。だから、身勝手に何でも自分で決めて、勝手に行きたいところに行って、やりたいことをやっていたんだろうか。親は自分を愛してくれていると、信じて

探し出されるのは、迷惑か。。。ールカによる福音書―

神は、一人なのか。イエスだけが、神なのか。どうして「イエス」だけを神としなければならないのか。 日本に生まれ育ったボクにとって、八百万の神々は日常・・・ といっても、ボクはそれすらも信じてはいなかったのだけれど。ともかく、「イエスだけ」にどうにも抗しがたい反発心があった。 その上に、イエスは、ただの人間じゃないか、それを、人々が神に祭り上げただけじゃないか、そんな決定的な疑問が、考えを支配していた。疑問をちゃんと追及したわけではなかったのに、まるで、この疑問は決して答えら

良い知らせーマルコによる福音書ー

キリスト教は、どうしても外国の宗教だ、と思ってしまっていた。「世界の宗教」という考えは、まったく心になかった。知識としてはあったはず。「世界三大宗教」、とかいって。 でも、自分の住んでいる日本は、ボクの頭の中ではなぜかその「世界」には含まれていなかったし、たぶん、「全世界」なんて概念は、ボクの中にはなかったのだ。 2000年前のガリラヤで活躍していた、というイエス。日本が東の果てにあるというのなら、ガリラヤは西の果てにあるようなものだ。 今、自分がもっているもの、知って

タマシイに安らぎ -マタイによる福音書-

昔、ボクがまだクリスチャンではなかったころ、「神はいると思うか」と尋ねられたことがあった。 ボクはこう答えた。「いるかどうかわからないけれど、いるほうがよいと思う」。 本当に真実で、善で、愛に満ちた神がいるとしたら、いないと考えるよりずっといいじゃないか、と思ったのだ。 でも、そんな風に答えたのも、そのころ、友人からもらった聖書を読んでいたからなのかもしれない。それまでは、神についてのイメージは、そんなによいものではなかったからだ。支配して自由を奪う、従わなければ刑罰を

倒れさせたり立ち上がらせたりする人―世界で最初の Christmas (5)―

再び、イエスにかかわる預言の言葉を見ていきます。 羊飼いたちの興奮もさめやらない、誕生から8日目。赤ん坊イエスを、イスラエルのおきてに従ってエルサレムの神殿に連れ て行ったヨセフとマリアが出会ったのは、シメオンという年老いた人物でした。 彼は、イエスを見て、「わたしの目が今あなたの救いを見た」と言います。ヨセフとマリヤは、このように老人が言ったのを聞いて、不思議に思います。それでシメオンは言葉を続けて彼らを祝福します。それから、母マリヤに次のように言いました。 「ごらん

羊飼いへのしるし ― 世界で最初の Christmas(4) ―

クリスマスの登場人物で有名なのは、野の羊飼い。再び登場してもらいます。イエスはすでに誕生しています。 『さて、この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番 をしていた。すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり 照したので、彼らは非常に恐れた。 御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大 きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あな たがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキ リストである。あなたがたは、幼な子が布にくるまって

二つの希望 ― 世界で最初のChristmas(3) ―

今年も残すところ2週間余り。 来年に向けて、どんな希望を描くかな~ * * * * * キリスト降誕に先だって、バプテストのヨハネの誕生物語がルカの福音書につづられています。ヨハネの年とった父親が、ザカリヤでした。その口から語られた預言。 父ザカリヤは聖霊に満たされ、預言して言った、 「主なるイスラエルの神は、ほむべきかな。  神はその民を顧みてこれをあがない、  わたしたちのために救の角を  僕ダビデの家にお立てになった。  古くから、聖なる預言者たちの口によって

重大な決心 ― 世界で最初の Christmas(2) ―

さて、少し話は戻ります。マリヤにとっては、人々の悪いうわ さの種となりそうなことがありました。それは、彼らはまだ「いいなづけ」の間柄だったということです。 当時、ユダヤ人社会では、婚約期間が1年続いたといいます―― 男は18歳、女は12歳半が、結婚最適年齢とされていたようです――。その期間が終わって婚礼の式。お祭りのような雰囲 気の中で人々が集まり、少年たちは遊びに駆け回り、少女たちは踊り歌い、そして夕方のにぎやかな食事の間をぬって、荘厳な儀式に臨みます。旧約聖書の中の「雅

洞窟の中で ― 世界で最初の Christmas(1) ―

クリスマスといえば、雪。家々の屋根に降りつむ雪。クリスマ スツリーにも雪を模した白い綿。チョコレートケーキのデコレ ーションさえ、しばしば白いアイシングで雪がイメージされる ほど、クリスマスと雪とは切っても切れない関係にあった…と 思っていた日本にいた頃は、南国のクリスマスをイメージする ことはありませんでした。 世界で最初のクリスマス、つまり、Christ の誕生祝は、どの ようになされたのでしょうか。もちろん、「クリスマス」という 言葉もないときのことだったでしょうけれ

「愛」の定義

人を好きになる、って、不思議です。一緒にいたい、という気持ちがこうじて、ずっと一緒にいたい、となっていくのですが、ずっと、となると、そこにはまたそれなりの問題が、、、、 インドネシア語で、kasih と cinta と二つの言葉があります。どちらも普通は「愛する」と訳されるもの。cinta は恋愛で、聖書で使われる愛は kasih がほとんど。教会の青年女子に、この二つの言葉はどう違うの、と尋ねてみました。そしたら、kasih は大きくて、すべての人に向けられるもの、cin