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すごい人は「その人にとっての当たり前」を積み重ねているだけ


2023年11月28日(火)朝の6:00になりました。

右足出して、左足出すと、歩ける。

どうも、高倉大希です。




彼も人なり、我も人なり。我なんぞ彼を畏れんや。

唐の文人である韓愈の著書「原毀」に記されている言葉です。


どんなにすごい人も自分とおなじ人間なのだから、過剰に畏れる必要はない。

簡単に言えば、びくびくするなという意味です。


座右の銘を聞かれたら、この言葉を答えるようにしています。

総理大臣も大統領も、おとなもこどももおねーさんも、みんなおなじ人間です。


わたしが見つけた「天才の定義」があります。「人が嫌がるかもしれないことや、人が疲れて続けられないようなことを、延々と続けられる人」、それが「天才」だとわたしは思うんです。(中略)自分が苦労だと思わずに続けられることで、価値があることを見つけることができた人は、それだけでとてもしあわせだと思います。

ほぼ日刊イトイ新聞(2019)「岩田さん 岩田聡はこんなことを話していた」ほぼ日


すごい人は、すごいことをしているからすごいのかというと、きっとそうではありません。

その人にとってはべつになにもすごくはない「その人にとっての当たり前」を積み重ねているにすぎません。


そんな当たり前の積み重ねが、他者から見ればすごいものとして映っている。

これが、すごい人の正体です。


べつに、とんでもないことをしているわけではありません。

すごい人は、べつにすごくなんてないのです。


けっきょく、自分の世界というのは「普段なにを見ているか」や「普段誰と会っているか」によって決まってくるものだと思います。

糸井重里、古賀史健(2018)「古賀史健がまとめた糸井重里のこと」ほぼ日


そんなすごくない人に「すごい人」というレッテルを貼ることは簡単です。

その人だからできたということにしておけば、自分は土俵に上がらずに済みます。


才能がない人の気持ちなんてわからないでしょう。

そういうことにしておけば、自分は挑戦せずに済みます。


彼も人なり、我も人なり。我なんぞ彼を畏れんや。

じつはけっこう、残酷な言葉でもあるのです。


視野を広げるためには、視座を高くもたないといけないが、そのために重要となるのが「信じる」ことだ。ここで言う「信じる」とは、カルト宗教に対する盲目的な信心を意味しているわけではない。世の中には自分が想像すらできないような真実があり、自分はまだそれを知らないことを信じるのである。

石川善樹(2019)「問い続ける力」筑摩書房


みんなおなじ人間である。

人間はみんなそれぞれちがう。


これらは決して、二項対立ではありません。

両方ともが、事実です。


事実がどうかではありません。

どう考えれば、よりよく生きられるかです。






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