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『生きることとしてのダイアローグ』を読んでは独り言・其の三

対話の大切さが
語られるようになっている

そんな気がしているのは
私だけだろうか

対話の重要さは
殊更ここで言うまでもないことだが
ではいざ自分自身に
「対話しているか?」
と問いかけてみると
何とも心もとない気持ちになる

果たして私は対話できているのだろうか?

誰と?いつ?どんな対話を?

頭の中で問い達が追いかけっこをしている

そんな状態である

・・・・・・

日頃

自分の中に生まれる
心のモヤモヤに対して
洞察してみると

自分の中には
こんなにもくだらない考えが
眠っていたのかと気付かされる

ある人の発言にモヤモヤした背景には
自分だったらあんな発言はしない
という思考の背景があったりする

そしてその背景を考えると
自分の中に眠る価値観や
あるいは相手のことを
無意識に下に見ている自分を見つける

その度に自己嫌悪に陥ることもあるが

まぁそんなものかと
それすらも受け入れるようにしている

自分との対話ですら
この有様である

見たくもない自分を
見つけてしまうという
何だか後味の悪い経験を
自ら進んでやるのは辛いものである

しかし

その発見すら
受け止めて
受け入れてしまえるようになれば

一番身近にある研究対象を
手に入れることができるのだ

自分という研究対象を

・・・・・・

今日もまた

読んだんだか読んでいないんだか
積んだんだか積んでいないんだか
といった本達の中から一冊紹介し
心の琴線に触れた一節を取り上げ
ゆるりと書き記していきたい

今回はこちらの本を読んでは独り言

以前に二度ほど
本を読んでは独り言noteにて
取り上げた本である

実は三分の一ほど読み進め
そのまま漬けていた本である

別に飽きた訳ではない

単に他の本に目移りし
その結果読み進めるのを
やめてしまっただけなのだ

何とも申し訳ない気持ちになるが
私の本棚は
そうした読み途中の本で
溢れていたりもする

何とも私らしいと言えば
私らしくもあるのだが…

さてさて

そんな読書を再開した本書から

いつものように
引用する必要があるんだかないんだか
本来の引用の定義を考えつつ
自己ツッコミを入れながら
noteの引用機能を用いて
引用させていただきたい

在るということは、対話的に交通するということなのである。対話がおわるとき、すべてはおわる。したがって、対話はじっさいにはおわることはありえないし、おわるべきではない。(2. 156)
(中略)
ひとつの声はなにもおわらせはしないし、なにも解決しない。ふたつの声が、生きていくための必要最低限の条件であり、存在していくための必要最低限の条件なのである。(2. 157)
(中略)
生きるということは、対話に参加するということなのである。すなわち、問いかける、注目する、応答する、同意する等々といった具合である。こうした対話に、ひとは生涯にわたり全身全霊をもって参加している。すなわち、眼、唇、手、魂、精神、身体全体、行為でもって。(5. 351)

桑野隆. 生きることとしてのダイアローグ バフチン対話思想のエッセンス. 岩波書店, 2021, 3p

読書を再開した本書から
第一章の中にある
バフチンの著作からの引用文を
3つほど引用させていただいた

本書を読んでいると
対話の対象は人間だけではない
ということが思い浮かぶ

生きている限り出会う
ありとあらゆる存在

その全てと対話する

それこそが

生きることを感じられる瞬間なのではないか

そんなことを考えさせられるのだ

対話することで
その対象とのつながりを感じられる
とでも言おうか

物言わぬ対象の場合は
結局の所は
自分自身との対話になるかもしれない

生きている限り出会う
ありとあらゆるものを契機に
自分と対話する

それこそが生きることに他ならないのではないか

沢山の情報に囲まれ
その情報の洪水の中で
溺れそうになる現在

その情報の波に流されつつ
ひとつひとつの情報を契機に
自分との対話をする必要があるのかもしれない

そんなことを考えさせられた

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