覚書:パートII

できるだけ長ぁ~い歴史的パースペクティヴに自らを置く

細かいプロセスの話ばかりしていると、どうしても現在やわりと近い未来又は過去に意識が集中してしまいがち。

なるべく長い長ぁ~い歴史的な積み重ねを意識するようにしたい。

私個人ができることとか、残せるものなんてたかがしれている。

これは自身の残すものに野心とか希望とかを込めない、とか、「相手にしてもらえなくたっていいや」とシニカルに責任を回避しようとするのでもない。

逆に、コメ粒一粒ほどであっても、目にした人、触れた人のためになって欲しいとの願いを込めている。つもり。

現代はとにかく目まぐるしい。新しいものがどんどんと現れては消えていく。

そういうトレンドが現に発生しているのも、きっと昔々からの経緯があってのことなのだろう、と前提する。

そうした長ぁ~い流れの一部を成している、と考える方が、私が残すものの意味とか意義とかも見出されやすいのではないか?と。

私は基本的に運動を組織しようとも思わない。プロジェクトを立ち上げたいとも思わない。そうしたことに長けている人は沢山いる。

私としては、現に何をやっているか/何もやっていないか?に関係なく、常に満足しない姿勢の大切さをリマインドし続けたい。

社会って、一人一人のちょっとした心の持ち方、気持ちの向け方次第で、随分とやさしいものになるはずだ、と信じるから。少しぐらいはいいけれど、「満足」しちゃうと”気持ちの向け方”も融通利きにくくなるから。

覚書:パートIで語り切れなかったことに、私が残そうとしているものの、「”即”換金性のなさ」がある。

お金にならないだけでなく、特に名声にも名誉にもならないもの。すぐには。

でも残しておいた方がいいだろうと思っている。かなり強く。

長ぁ~いパースペクティヴでいえば、人類総体として、知的側面では、それほど目覚ましい進歩が今のところない。戦争もやめないし、格差もなくならない。「各自の生活を美しくして、それに執着すること」って実践できているとも思えないし。。。科学技術は?個々の天才たちの業績は?さぁ。それ言い出すと、「オレ多分天才?だから例外!」とか言う人がわらわらと出てくるから。。。ってのがまあ進歩していないことの証明なんだけども。。。それはともかく、超天才であろうとなかろうと、その他大勢がダメなんだったら、そりゃ、それに対して極少数のエライ(?)人が「俺らの責任じゃない」なんつったって。。。ほぼ意味ないでしょ?違う???人類総体としての知識の程度が知れてるのって。。。みんなの責任では??

勿論個人個人できること/できないことは違うし、なるべくできることはやろうとすべきで、長ぁ~い歴史の中でやろうとし続けているんだろう。でも、知識って個々人の所有物じゃないし、”責任”だってくっきりはっきりと境界線なんて引けない。様々な理由により、私物化できることにしておきたい人が少なくないらしいけれども、知識を私物化しているうちは、社会的貢献なんて限られたものでしかないばかりか、社会の分断を煽ったりして、却って害悪を及ぼしている。

長ぁ~いパースペクティヴで、知識というものの理解の仕方も含め、大して発展していないんだから、何かのきっかけで途端に知的に開花(開化)するなんてことはないだろうし、そうであっても特段絶望したり悲嘆に暮れることもないだろう。

「常に満足しない」ってのも「細けーよ!」ってぐらい小うるさいことではあるけれど、目に見えないものを「見えないんだし違いなんて分かりゃしないだろ」と疎かにする。これも知的発展を阻害する態度として戒め続けていきたい。

「見えない」と思われていることにとことん拘る。

スーパーヒーローの描かれていない人間っぽい弱さとか。

ヒーロー絡みだと、いっちゃん強力な呪いはアンチ・ヒーローじゃなくてフツ—の人が吐く。

アンチ・ヒーローをストーリーの中で動かすと、どこかしらラヴリーな面が現れる。『罪と罰』『The White Tiger』『Artemis Fowl』等々。

極悪冷徹なキャラ設定が、時空に関わらず持たされているクォリティだとして、そうしたキャラ設定のアンチ・ヒーローが活躍するイベントやそれが起こるコンテキストがストーリーとする。

完璧な極悪キャラでも、ストーリーの中では、そうでない側面が見えてしまう不思議。

勿論それは単なる錯覚でしかないのかもしれない。ただ、私たちの想像力は、普遍(不変)と思われるキャラ設定なのに、そうしたキャラ設定の人物が動いて何かをする(しゃべる)と、キャラ設定にはないはずのものを感知してしまう。

これはフィクションの中だけの話ではない。現実世界を見る際にも使えるお話。

最もおそろしいパワーを発揮する呪いというものは、呪文が決まっているような呪いではない。

呪文らしきものがないもの。

これが最も恐ろしい。

「呪文らしきものがない呪い」とは?

”積み残し”かな?

目に見えないものとされているものってどんどん堆積していっている。特に現代。

例えば、多分ほとんどの人が気付いていないと思うけど、私たちって、本来持てなかったモノを持つと、その分だけ負債を抱え込む。

どれぐらいが自然な寿命なのか?なんてはっきりしたことは言えない。けれども、平均寿命80歳ってのは自然のものじゃない。勿論悪いことばかりではないけれど、それなりに対処が求められるモノゴトも増えている。

そんな感じ。

寿命という生き死にに関わる問題でなくとも、特に先進国で生まれて暮らす人々というのは、数え切れないぐらいの人造物を消費したり、資産として計上する。帳簿なんてつけていなくても。それらはいわば様々な事情により、追加的に享受できるようになっているもの。便利、安全、安心は増していることと思うけれど、その分曖昧なもの、不確かなものとの付き合い方は稚拙になっている。

より確実なものを求めることはやめられない。それでも知っておく必要はあるだろう。「信じる」にあたって、より確実なモノ・コトのみを対象にしていては、真摯に信じようとしているのだとしても、やればやるほど増大するリスクを抱え続ける。「裏切られる可能性」という名の”呪い”を撒き散らしながら。

どういう仕組み?何故”呪い”?

「信じる」の対象は、大きく分けて二種類ある。

バカバカしいほど突拍子もないこと、確率計算上は全く期待値が低いもの。それでも信じる。勿論何か「そっちの方がいい」というような理由があるから。

もう一つは確実な方。こちらは”約束”の意味合いが強くなる。期待値が十分に高い分、「結果悪かったら(約束破ったら)。。。殺すよ。」みたいな勢いにもなり兼ねない。

場合によっては死活問題的に切実に欲しているってこともあるだろうけれど、それならニュアンス的には「無理だとしても信じる」方に近い。”約束”されるようなもんなんてさ。みんな欲しいに決まってる。全員等しくなんて行き渡らないし、そこに殺到するなら、個別の異なる事情なんてかまっちゃいられなくなる。

極端な話、確実なものしか信じられないなら、人類に先はないのだ。めっちゃ確実なことって。。。「私たちって一人一人はいつかきっと死ぬ」だもの。。。まあ、「賭ける方の信じる」ってやめないから、大丈夫なんだけどね。実際のところは。

それでもさ。どうせ「アホな方の信じる」はやめないんだったらさ、わざわざ「確実な方」の信じるを合理的だとかなんとかを根拠にあたかも”いい方”であるかのように見せようとするようなややこしいことしなくてもいいんじゃないか?お互いに「”約束”守るやんなぁ?」なんて脅したり、疑心暗鬼になっちゃうんだったら尚更。

自分自身の信じていること(普通は何かいいこと)が、できるだけいいこととして他者にも理解してもらいたいならどうしますか?

脅しなんて逆効果だろうし、まあウソはつかないでしょう。絶対正確な情報に基づこうとするだろうし、スタイルやフォーマット、その他マナーにだって気を配るだろう。

でもそれだけじゃ足りない。

どんな理解のされ方をしようが、全て受け入れる覚悟。うまく伝わらなかったとしたって、生きていられるのなら、何度だってトライする気持ち。

「『賭けっぽい信じる』なんて、ただのヤケクソじゃん?」と決め付けるなかれ。

どんな思いで賭けに出ているか?なんて本人以外知り得ないこと。

まあともかく、決め付けは避けねばなるまいね

決め付けられればそりゃスッキリはするだろう。一時的とはいえ、「確実とされるモノ・コト」に面倒をうっちゃれるからね。「結局そーいうふうになるんでしょ?」ってね。

個人の快楽のためなんかじゃない。分析のため必要な措置。とか言いつつ、いつまでたっても決め付け(の”呪い”)を解除しない。。。なんてことはごく当たり前に起こる。

「違う行き方を探ってしまう」という自らのポテンシャル。これを知ることが決め付けの呪いを少しでも緩める第一歩。自らのポテンシャルを知ろうとする過程で、まずは、なんとか自分自身について「信用したい」と願い、「信用してみよう」と勇気を持つ。それが自然と、自他共々、この世の中に存在する事実、できれば存在の仕方までも尊重する、という意味での信頼関係に発展するように。道のりは長ぁ~い。けど一歩ずつ。。。

フィクションって、主要な登場人物たちはキャラ設定がはっきりする。そうしたキャラの立つ人々を見ながら、ともかく現実のインタラクションの場でもそこに姿を現すことの大切さを思い出さなきゃいけないのかもしれない。ちょっと高度な想像力のような気もするけど。。。

現実のもう少しお堅い話に敷衍すると。

因果関係を説明するロジックを、コンテキストフリーに、一定の因果を示すものということで、上で述べたフィクションにおける”キャラ設定”に当たるものとしよう。ロジックは、それ自体は悪ではない。けれども、置かれる時間的流れの長短で、残酷なものともなり得る。

例えば、現代のフツ—の人のロジックって大概近視眼的。というよりも。。。タイムレス。時間の流れに関係なく、常に同じ意味しか持たないと考えがち。別の言い方をすると、ストーリーがない。結果、ロジックは永遠不変なものと思い込まれる。強く。

永遠不変に思えるロジックですら、現実世界で動かすなら、別の行き方があり得るように思えるし、それは真っ赤なウソとも思えない。何故なら、未確認の要素も、現実世界では加わってくるから。

ロジックを語る上では、適切な歴史的射程を設けることが大切だ。私たちは意味でもって世界を理解するから。

言葉を紡ぐことによって生み出される価値というものも様々で、現代はいかに多くの人々に消費されるか?多くの人々に消費されるような商品と関連付けられるか?というような価値に注意が偏っているけれども、「当たり前」と感じているものに対する意識の変化とか見方を変える、というすぐには交換可能な価値に換算されないような価値にも注目すべきではないだろうか。

多彩な”価値”と”意味”(この二つはほぼ同義で私は使う)、これらが生み出される過程で必ず起こる、物々交換や貨幣を媒介にした交換を含むコミュニケーション。コミュニケーションを支える、私たち個々の「信用しようとする勇気」、「信用したいという願望」。

特に「信用」の大切さ、奥深さについて、あまり急がず、長ぁ~い射程でもって、分かり易く、受け入れられ易いストーリーを語れたらなー。と思う。

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