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当事者になるかもしれない、と想像してみること

中学生の頃から、犯罪者の心理をテーマにした小説に興味があった。

ニュースでは連日事件が報じられ、事件に加担した人は犯罪者として取り上げられ、非難される。

事件には被害者がいるので、加害者側が糾弾されることは当然と言えば当然だ。

そのことは当時の私も分かっていたと思う。

けれど、加害者も被害者も、どちらも人間だ。
だからそんなにシンプルな二項対立の図式で捉えることはできないのではないか、と何となく感じていたから、
犯罪者側の視点に立った小説に興味を持っていたように思う。

以前、会社の上司と同僚らと食事に向かっていた際のことだ。

朝の通勤ラッシュの辛さが話題に上っていた。
そこで上司は、よく超満員の電車で女性が倒れることがある、と話した流れで、
「体調が悪いなら休めばいいのに」ということを口にした。

すぐ次の話に移っていたので、何も悪気のない、ふとした発言だったのだと思う。

けれど、私はすごく鋭利な言葉を受けたように感じた。

その時の私は、体調を崩しながら、何とかバランスを取って働こうとしていた。

そんな私は、上司の言う、「超満員の電車で倒れる女性」という当事者になる可能性がとても高かったと言える。

だから、体調が悪ければ休めばいいのに、その方が電車も遅れずに迷惑が掛からないのに、
という趣旨の発言にくらってしまったのだ。

様々な事情から、そう簡単に休むという選択肢を取ることができない状況の人も大勢いるし、

私のように、不安定な体調をみながら働く意思を持っている人もいるだろう。

そもそも、朝は体調に特に問題がなくても、超満員の電車というキツい環境で具合が悪くなることは、性別問わず誰にでも起こり得る。

当事者に、誰もがなる可能性があるということだ。

何かの問題が起きていて、そのことについて考えたり、発言したりする時は、
「もし自分がその立場にあったら」という想像をすることが大切だと思う。

情報が多すぎる今、ひとつひとつの出来事に対してそう丁寧に考えることは難しいかもしれない、というか不可能に近いだろう。

だけど、ならば接する情報量を減らしてでも、
自分を当事者だと仮定して想像してみる、という行為には意味があると感じる。

誰かを不用意に傷つけることを減らすために、
そして周り回って、自分を自分の言葉で傷つけることを減らすために。

お読みいただき、ありがとうございます。