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豊後大友家臣団の戦国ネタ

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豊後大友家臣団の戦国ネタを書いてます。よろしくお願いします。
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記事一覧

大友宗麟の名言

「人生における敗北・苦しみは試練であり不幸ではない。 灼熱の炎に磨かれる黄金のように試練によってこそ人は高められる。」

大友宗麟。1530~1580年。九州の戦国武将として他の勢力よりも一歩も二歩も大きく。名門武家の棟梁だった方。キリスト教に憧れ、キリシタン大名の代名詞みたいな人物です。父親と確執があり、家督相続後には叔父と争い、その後は毛利、龍造寺、島津と争い、その最後の島津との争いに敗れて弱

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名君 大友 義長

名君 大友 義長

大友義鎮の祖父として名君とも呼ばれたこの人物の紹介をしないわけにはいきません。生誕は1478年(文明10年)、豊後国の大友氏18代当主・大友親治(おおとも ちかはる)の子として誕生。幼名から名前の改めは6回。塩法師丸(しおほうしまる)、五郎(ごろう)、親匡(ちかまさ)、親元(ちかもと)、義親(よしちか)とある。

先代の父子対立による家中の混乱を鎮めた父の親治により、1497年(明応6年)、当主と

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長宗我部信親(ちょうそかべ のぶちか)のお墓

長宗我部信親(ちょうそかべ のぶちか)のお墓

大分県戸次の地にて長宗我部信親のお墓があります。戦国時代、長宗我部といえば四国の武将です。なんでこの地に?と思い立ち寄りました。

長宗我部信親は1565年(永禄8年)、土佐の長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)の嫡男として誕生。幼少時から聡明であったため父から寵愛され、時期当主として期待が厚かった。元服後は父に従って転戦、四国統一のために尽力した。
1585年(天正13年)豊臣秀吉の四国攻めに

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要地(かなめち) 日田氏

要地(かなめち) 日田氏

日田氏は大友宗麟(おおとも そうりん)の時代には、大蔵一族の堤・財津・高瀬・坂本・羽野・石松の六氏に命じて、郡政として統治させていた。
戦国時代まえには大蔵氏が1071年ぐらいから1432年まで300年以上も日田の支配者で。1432年の家督相続争いで没落。
大友氏がそこに目をつけて郡代として入る。応仁の乱以降は大友家の争いに巻き込まれ日田大友氏も没落。
再度、大友親明(おおとも ちかあき)の子親賢

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大友家随一の茶人 臼杵 鎮続(うすき しげつぐ)

大友家随一の茶人 臼杵 鎮続(うすき しげつぐ)

生誕不明。死没1578年(天正6年)耳川合戦での討ち死に。
臼杵氏の一族で豊後の国大友氏の庶流戸次氏の流れをくみ、大友氏の一族。父親は臼杵長景(うすき ながかげ)。兄に大友家三老の臼杵鑑続(うすきあきつぐ)、鑑速(あきはや)がいる。紹冊(しょうさく)の号で知られている。

兄、鑑続の死後、柑士岳城(こうしだけじょう)城代として筑前国に入り志摩郡の国人を統率。博多の御笠川(みかさがわ)改修。房州堀(

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佐伯惟定(さいき これさだ)

佐伯惟定(さいき これさだ)

生誕 1569年。豊後佐伯氏第13代当主・佐伯惟真(さいき これざね)の二男として生まれる。

1578年に父、惟真と祖父、惟教(これのり)が耳川の戦いで戦死したため、家督を継ぐ。この時9歳。現代だと小学3年生くらいです。耳川合戦では「日向後家」という未亡人が多数うまれたのですが家督も若輩の者が継ぐことが多かったようです。
1586年 豊薩合戦
周辺の諸将が次々と島津方に降る中で、客将、山田宗昌(

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女好き 志賀 親守(しが ちかもり)

女好き 志賀 親守(しが ちかもり)

志賀 親守(しが ちかもり)は生誕不明。没年不明。

大友三家(田北氏、詫摩氏、志賀氏)の一つ。北志賀家は南軍衆の筆頭である。大友の主力ともいわれる軍を率いる頭として活躍した武将。

1550年二回崩れの変
大友義鎮(おおとも よししげ)の家督相続に尽力。
1552年親度(ちかのり)に家督を譲って隠居。隠居というぐらいですからこの時、30~40代ぐらいだったのかなとか年齢の推測をしてしまいます。

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戦国最強の女将 吉岡 妙林尼

戦国最強の女将 吉岡 妙林尼

吉岡妙林尼(よしおか みょうりんに)は戦国時代最強といわれた女武将です。信長の野望などでは「巴御前」のような長刀を持った勇ましい姿が特徴の人物ですね。
大友家家臣の吉岡家の人物紹介ではこの人物が外せません。
ただし、正確な記述がないので、まさに伝説の人物です。
生誕、没年不明。
父の名前も大江神社の神主、林左京亮(はやしさきょうのすけ)、鉱石採掘の、丹生小次郎正敏(にうこじろうまさとし)ともいわれ

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大内義長(おおうち よしなが)

大内義長(おおうち よしなが)

生誕1532年。没年1557年。
大友義鑑(おおとも よしあき)の子。大友義鎮(おおとも よししげ)の弟。幼名、塩乙丸(しおおつまる)。元服の際には将軍 足利義晴より偏諱を与えられ、大友 晴英(おおとも はるひで)と名乗る。

父の義鑑の妻が大内義隆(おおうち よしたか)の姉妹であったことから大内義隆の嫡子が亡くなって(1543年)すぐに猶子(ゆうし)として大内氏に出されている(1544年)。しか

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吉岡 甚吉(よしおか じんきち)

吉岡 甚吉(よしおか じんきち)

生誕不明。死没も不明。
父は吉岡鑑興(よしおか あきおき)。
1578年耳川の合戦で父が戦死。家督を継ぐ。
1586年の豊薩合戦の際、大友宗麟(おおとも そうりん)が籠城する臼杵丹生城(現:うすきじょう)を守る。二王座(におうざ)を守り戦功をあげる。二王座の兵300~500に対し島津軍3千と戦いこれの撃退。後に甚吉坂(じんきちさか)なる呼び名もついている。
大友義統(おおとも よしむね)の時代に統

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吉岡 鑑興(よしおか あきおき)

吉岡 鑑興(よしおか あきおき)

生誕 不明。死没は1578年耳川合戦の討ち死に。父は吉岡 長増(よしおか ながます)。
父の死後、1576年に大友義統(おおとも よしむね)の加判衆になっている。妻は吉岡 妙林尼で豊薩合戦で活躍し秀吉に会いたいと言わせた女傑である。
元々、大友宗麟の時に側近であったようで1569年に立花城攻略の際の雨中在陣を賞されている。
あまり活躍はないのだが三老に選ばれるところから宗麟の重臣的な立場で息子義統

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佐田隆居(さだ たかおき)

佐田隆居(さだ たかおき)

生誕不明。死没も不明。
佐田氏は宇都宮親景(うつのみや ちかかげ)が佐田川と山蔵川が流れる佐田の土地に移住してから「佐田」を名乗るようになった宇都宮氏の分家。
大内氏が豊後を支配するようになって宇佐郡の郡代を任じられた。

佐田氏はこれにより大内氏の配下となり大内軍対大友氏の合戦「勢場が原の合戦」では大内軍として参戦している。

1551年の政変で大内義隆(おおうち よしたか)が殺害される。

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高橋 統増(立花 直次)

高橋 統増(立花 直次)

生誕は1572年。死没は1617年。
父は高橋紹運(たかはし じょううん)。母は斎藤鎮実(さいとうしげさね)の娘。次男であり、長男は立花宗茂(たちばなむねしげ)。
幼名は千若丸。
大友義統の諱を貰って統増(むねます)と名乗る。
兄、宗茂が立花道雪(たちばなどうせつ)の婿養子となったため、高橋家の嫡男となった。
長男、宗茂をベタ惚れした立花道雪が娘誾千代の夫にと婿養子を希望。
高橋紹運も嫡男、宗茂を

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一万田鑑相(いちまんだあきすけ)

一万田鑑相(いちまんだあきすけ)

生誕不明。死没は1553年。大友能直の三男 大友時景を祖とし、一万田村に土着し一万田性を名乗った。鳥屋城を居城に400年近く治めた一族。

鑑実(あきざね)の父親で、大友義鑑(おおとも よしあき)に仕える。この時の名前は親実(ちかざね)で息子とともに改名し、鑑相(あきすけ)を名乗る。兄弟に高橋鑑種(たかはし あきたね)宗像鑑久(むなかた あきひさ)がいる。

1550年二階崩れの変が起き、大友義鑑

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