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P01_序文-どうしてもこの映画をつくらなきゃいけなかった、東京に大地震が来る前に。- │ 『東京彗星』オンラインパンフレット

東京にも、大地震は絶対に来る。それはほんとうに明日かもしれない。
その日が来る前に、この映画は届けなければならない。

映画が完成した2017年6月17日の日曜日から
ちょうど1年後の、2018年6月18日。

『東京彗星』はショートショートフィルムフェスティバル&アジア2018のCinematic Tokyo部門で部門賞と東京都知事賞をいただきました。

受賞スピーチでは小池百合子都知事から渡してもらったトロフィーを手に、(グラサンつけてふざけていたけど)大勢の前で話す機会が来たら言おうと真面目に思っていたことを言った。

「東京に大地震が来るのは、明日かもしれない。この映画は、大切な人のことは、今日ちゃんと大切にしよう、という映画です」

そして翌日、大阪で大きい地震がおこってしまった。

災害はほんとうにこうやって、突然来るのだ。
2011年3月10日は、みんなふつうに過ごしていたのだ。

ほんとうは劇中の重要な日である6月22日に投稿しようと思っていたけど、
そして大阪が地震でまだ混乱しているこのときに不謹慎なタイミングかもしれないけど、それでもより多くの人に届けるためにこの記事はいま公開することにしました。

ずっと前に書きあげていた記事に加筆修正したものなので、ややのんきに見えるかもしれないけど、ご了承ください。

『東京彗星』
オンラインパンフレット_P01
【序文】


2016年8月、東京。

自分の仕事が早く終わったので仕事終わりの妻を迎えに行き、一緒に道を歩いていた帰り道の虎ノ門で、あの嫌な音が鳴った。

緊急地震速報。

スマホを見ると、表示されている震源は東京で、マグニチュード表示は9.1。

自分が死ぬ日は今日だったと悟る。
ああ、せっかく結婚してじいさんばあさんになるまで一緒に笑い合って生きるつもりだったのに、今日で終わりなのか。

両親や友人の顔も浮かぶ。

それにまだ俺、映画監督になっていないのに。

2011年3月11日に「今日死ぬのかもしれない」と思って以来恐れていた日がやってきたのだ。やっぱりこうやって突然、死ぬのだ。東京に住んでいるからには、いつかやってくる日だったのだ。それが、今日だっただけだ。

いつ来る、まだか。建物に押しつぶされて死ぬのか、それとも津波で死ぬのか。ああ、もっと生きたかった。と、一瞬のうちに頭を駆け巡った思いとは裏腹に、地面は揺れる気配がない。



緊急地震速報は、誤報だった。

しかし今でもあの「M9.1」の表示を見たときの恐怖は忘れられないし、それが今日じゃなかっただけで、今後30年以内にその日はかならずやってくる。

じゃあ、「その日がいつなのか、わかっているとしたら」。

自分は、逃げる。しかしそれは、失いたくない幸せがあるからだ。

「もしいま幸せじゃなくて、捨ててしまいたいような日々を生きている人は、逃げないことを選ぶこともあるのではないか」

そんないくつかの疑問と、「明日死ぬかもしれないなら、いますぐ映画を撮らないと後悔する」という思いが結びつき、ひとつの映画企画が生まれた。

「1年後、東京に彗星が落ちる」と発表される。

学童疎開で、東日本大震災時には被災地だった岩手へと疎開することになる10歳の弟と、ひとり東京に残り人生を捨てることにした20歳の兄。
日本中が混乱するなか、親のいない兄弟の絆が試される物語。

いつ来るかわからない地震のかわりに"地域と日時が明確に規定された災害"を通して、"(大地震が来ることがわかっている)東京で生きるということ"を描く映画。


それが「東京彗星」である。

グランプリ企画には500万円の制作費が出資され、世界の映画祭への応募も代行してくれる、そんなコンペがある。

MOON CINEMA PROJECT(第1回のグランプリ企画は「そうして私たちはプールに金魚を、」)だ。僕は企画書を書き上げ、まだ脚本もできていないのに、グランプリを獲ったら具体的にどうするかも考えないまま、自分への無茶振りを承知で「東京彗星」の企画書を応募した。

一次選考を通過した連絡が来たとき、ここまで来たら絶対にグランプリを獲ってこの映画を撮って次のステージに進むと勝手に決めた僕は退路を断つというかケツまくるためと、そのとき賃貸で住んでいたマンションがちょっと窮屈だったのもあり、無茶めなローンでマンションを買っちゃうことにした。水槽の大きさに比例して成長するというミドリガメ理論だ。

背負うもんは限界まで先に背負って、もっともっと上に行く前提で、
"自分に全額ベット"した。

2016年10月。
応募された企画の中から「東京彗星」を含む4企画が、決勝戦であるクラウドファンディング一般投票へ。

投票者は500円をファンドすることで1票、選んだ作品に投票することができ、それ以上の投資の場合は1500円で完成作の脚本、3000円でプラス試写会招待、5000円でプラス完成作のBlu-ray贈呈、がリターンとして設定された。

4企画はそれぞれPR映像を制作し、2週間に渡り自分の企画への投票を呼びかけた。僕も恥を捨て、知り合いみんなにしつこくお願いした。

ものごころついたときから「映画監督になる」と言っていたのをみんな覚えててくれた。幼稚園の幼馴染から、小中校大の同級生や先輩後輩、バイト仲間、会社の同期や先輩後輩、大人になってから飲み屋で知り合ったオトナ友達の方々からそのまたお友達の方まで、たくさんの人が投票してくれた。そしてたくさんシェアして応援してくれた。

かたや自分は秒単位で投票サイトをチェックし、投票してくれたことが確認できた人には瞬間でお礼のメッセージを送った。

投票最終日の24時、投票期間終了を待って、一気に引っ越しの荷造りをした。自分の人生に全額ベットして、限界まで背伸びして買ったマンションに引っ越し、アー○引越しセンターのみなさんを見送った頃、メールが入った。

SNSで報告とお礼、決意表明の投稿をした瞬間、一番最初に祝福の電話をくれたのは、後にこの映画のプロデューサーを引き受けてくれる、松尾さんだった。

2016年11月。
僕は広告制作会社所属の、主にCMやMV、WEBムービーなどを演出するディレクターである。自分の所属する会社で受注するかたちで制作することも考えたが、まぎれもない自主制作作品だし、思い切り集中するために、社外活動として業務外の時間を利用して制作することにする。

ただ、僕が入社1年目のときから世話になり、ディレクターデビュー作をプロデュースしてくれた社内の先輩は、コープロデューサーとしてかかわってくれることになった。

メインのプロデューサーを引き受けてくれたのは、一番に電話をくれた、松尾さんだ。松尾さんと酒を酌み交わし、いよいよ制作開始。

地震速報の誤報をきっかけに生まれた想いを、エンターテインメントとしても成立させるための試行錯誤が始まった。

2016年12月。
通常業務のかたわら、帰宅後の時間を使って資料を読み漁りながら、まずは詳細なプロットを開発。

MCPの規定は25分以内の短編映画だが、ざっと90分程度に相当するプロットが出来上がった。

予算的にも、製作期間的にも、非現実的なスケールの物語や設定であったが、僕には勝算があった。

「現代人、もしくは2、3年先の人々の情報処理速度をかんがえると、90分相当のプロットを25分に圧縮することは可能」

「VFXをふんだんに使用したビッグビジュアルがなくとも、スケールの大きい物語を表現することは可能」

という2つの仮説を遂行、立証することができれば、この映画は成立する。そうしてプロットを大きく削ることなく、脚本制作に入った。

2017年1月。
正月の東京には人がいない。仕事始めの前日には、東京駅に人が溢れかえり、東名は渋滞する。これらの様子を撮影しておけば、それぞれ「人がいなくなった東京」「避難するために東京駅へ人が殺到する様子」「避難するための車両で起きる渋滞」というカットが成立すると踏んだ僕は、脚本ができる前にひとりでクランクイン。狙い通りのカットをたくさん撮影することができた。

こうした撮影の場合、被写体に嘘や仕込みはない。映像の文脈で意味をチューニングすれば、「ビッグビジュアルなしでスケールの大きい物語を表現できる」という仮説を立証できる。
そもそもこの正月よりはるか前の2016年夏頃から、ふとした瞬間に人がいないように見える東京の風景も、iphoneで撮りためていた。

公園でポケモンGOに熱中する人々を映しつつ、仕上げの編集でコメントをのせれば、それは「スマホで彗星のニュースを見る人達」になるし、

湾岸の開通前の道路を撮影すれば「避難活動後に閉鎖された道路」になる。

こうして、脚本執筆と並行して個人での実景撮りも進めていった。

2017年3月。
完成した脚本を元に、そのシーン、そのカットで「何が表現されるべきか」「そのための被写体はなにか」「そのためのアングル、レンズ、ワークはどうあるべきか」をリスト化したショットリストを全シーン全カット分制作。

それらをすべて手書きでストーリーボード化し、

松尾Pはじめスタッフと共有。おもにふだんのCM仕事で一緒にやってきた技術スタッフ、そして2010年に監督・脚本を務めたNHKのミニドラマ『いちごとせんべい』のときにお世話になった、映画畑の演出部の先輩とともに、ロケハンやオーディションといった準備もスタートした。

主演の大西利空さんはGoogleで子役を検索し目についたので映像資料を探すも、ちょうど「ボクのおじさん」や「金メダル男」の公開終了とソフトリリースのあいだだったため、芝居が確認できない。仕方がないので「金メダル男」のメイキングにあたるインタビュー動画を見て、大西さんの地頭の良さに確信を抱き、出演を打診。会ってみると期待通り脚本への理解度が高く、芝居を見ぬまま主演に決定。

兄役の篠田諒さんは、演出部の先輩が推薦してくれた。
1シーン芝居を見て、即決。

トラック運転手の役はもともとアテガキで、僕が通う銀座のバー「HOLD ON」のマスター、榎本"CHAMP"光永さんだ。

"CHAMP"の名の通り、カクテルづくりだけではなく、サーフィンや格闘技まで、やると決めたら必ずやりきってくれる人だということはわかっていたので、演技は全くの未経験だが、スカウト。撮影期間だけお店を休んでもらうことに。

その他キャストも続々決定し、準備は進む。大小関係なく、いままでのすべての縁がまさに元気玉のように集まった。

2017年4月。
演技未経験のマスターのために1日だけリハーサルをおこなったうえで、都内と静岡で4日間、子役の時間制限との戦いを乗り越えなんとか香盤通りにメイン撮影が終了。都内の実景撮影に1日。

そしてどうしても、1シーンだけでも実際の被災地で撮らなければいけないとこだわって撮影させてもらった、岩手県田老町の津波防波堤で日帰りロケ1シーン。

今度は東京が被災地になる、という映画なので、避難先は絶対に2011年の被災地でなければならなかった。田老町の人たちは快く撮影を受け入れてくれた。

ありがとうございました。

数日おいて都内のニュースシーン用スタジオで劇中ニュース映像を撮影し、クランクアップ。

2017年5月。
オフライン編集と並行して、音楽、SE、彗星CG、ロゴ、オープニングタイトルシークエンス、劇中ニュース画面デザインなどを、それぞれ信頼するスタッフにお願いし、制作。

並行してその年たまたま東京で開催された、地球衝突天体とその危機対策の国際会議「プラネタリー・ディフェンス・カンファレンス」に、NASAやJAXAの人たちに混ざって5日間参加。

ここで得た知識や分析の様式などをもとに、劇中の彗星軌道や衝突予測データの描写をブラッシュアップする。

2017年6月18日。
仕上げ作業を経て、短編映画『東京彗星』は完成した。


2018年。
3月にゆうばり国際ファンタスティック映画祭にてワールドプレミア。
6月にショートショートフィルムフェスティバル&アジア2018で上映。
7月にSKIPシティ国際Dシネマ映画祭2018で上映。


続々と上映の機会をいただいているけど、
まだまだ観ていただきたい人はたくさんいる。


2年前、応援してくれて投票してくれたたくさんの人達。
制作中、完成後に興味を持ってくれた人たち。
そして僕とはなんの縁もゆかりもない人達。
とにかくたくさんの人に、観ていただきたい。

だからはやく一般公開できるように、準備をしているところ。

ほんとうに東京に大地震が来てからでは、遅いのだ。


「1年後、東京に彗星が落ちる。そのときあなたは、誰を想うのか。」

心に誰かが浮かんだなら。
その人のことを、今日、ちゃんと大切に。

彗星というサイエンスフィクションに変換して描いたけど、
これはまぎれもなく東京にいずれ来る大地震への不安についての映画だ。


2018年6月18日。
まだ東京に大地震は来ていない。


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