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29.プチ留学とナゾの日本人ケミサキコ

語学学校の東京でのプロモーションを手伝ったら、校長先生が2週間の授業をプレゼントしてくれました。
寿司づくりプロジェクトも終え、その権利を使って日本へ戻る前に再び学校に戻りプチ留学です。


2週間のプチ留学

先生たちとは1年以上ぶりの再会ですが、さすがに半年間毎日通っただけあり、みんな覚えていてくれて嬉しかったです。
母校へ戻ってきたという感じがします。

こうして、毎年少しずつ短期間の留学をする生徒も少なからずいました。
理由を聞いたら夏のタオルミーナ、普通に宿を取ると高額になるので学校紹介のステイ先を利用してコストダウンすると授業料の足しになるらしいです。

留学を終えて以来、とくに日本でイタリア語学校へは行っていませんでした。
でも、先生たちにイタリア語を誉められたので、自分なりに努力してきたかいはあったようです。

最初の留学中は、文法的には条件法、接続法まで終えていました。
会話として使いこなせているわけではなく、なんなら文法的にもまだあやふや、というようなレベルです。
代名詞も読めば分かるけれど、自分で作文する場合の使い方がイマイチ。

日常会話として意思疎通を図るだけなら問題ないのですが、もう少しナイーブだったり、あいまいだったり、あやふやだったりするような会話はできません。
まったく自信がなかったので、この2週間でそのあたりを補強したいと思っていました。

残っている当時のノートを見ると9月1日からさっそく授業に参加したようです。

やっぱりぜんぜん出来てなかったらしく赤字だらけ

条件法や接続法はふだんの生活で多用するような表現ではありません。
実際にいまイタリアで暮らしていても、話し言葉ではなく書き言葉で使うことのほうが多いように思います。

不確実性を表すこの文法、実はいまだに苦手ですいすい出ては来ません。
常套句として文章として覚えてしまっているのでいくつかのフレーズを使うぐらいです。

新しい出会い

タオルミーナに引っ越してからまた新たな出会いがありました。
魚屋ファミリーのほか、偶然に知り合ったり、人を介して友だちになったりです。

同い年のロンドン女子

ロンドン生まれの生粋のロンドン女子と学校を通して知り合いになりました。
私は東京生まれの東京育ち。
偶然にも同い年だったし都会っ子同士、感覚が似ていたのかもしれません。

もともとイタリアで英語を教えていたけれどイタリア語を話せるようになりたくて夏休みを利用して通っていました。
どうしてもロンドンに帰る気にならない、いつも曇った空とジメジメとした暗さが耐えられないとイヤそうに言います。
私も東京の夏の蒸し暑さに辟易としていたので、一気に意気投合しました。

タオルミーナ滞在中はアペリティーボしたりコンサートに行ったりして過ごし、私が東京に戻ってからもわりとマメに連絡を取り合う仲に。

その後の彼女の経歴がまた面白くて、タオルミーナで友だちとレストランをしていると思えば、アラフィフになってからブリティッシュエアウェイズのCAになったり。
今はまたタオルミーナに戻りヨガ講師をしているという、自由な生き方がすごい女性です。

渡辺美里のPVに出たシチリア女子

彼女はアーティストでタオルミーナの目抜き通りに自分のショップを構えていました。
ガラスや鏡にシチリアらしい美しい絵を描いて売っていたのです。
私が日本人と知ると「MISATO WATANABEを知っているか」と聞かれて驚きました。

1年ほど前に渡辺美里が来たと言うのです。
デビュー20周年記念DVDのシューティング場所として選ばれたようで、さらに彼女の作品を気に入ったディレクターのアイディアで、そのDVDパッケージのいろんなところに彼女のガラスアートが出てくるのだそうです。
残念ながら私は実物を見たことがありません。

当時の彼女の夢は日本へ行くことでした。
そこへちょうどいい具合に私が現れたので一気に仲が深まったのです。

その後、タオルミーナのお店はたたみ、実は私がブラッチャーノに引っ越してきてから偶然、彼女も近くに来ました。
ラディスポリという海辺の町の中学校で美術教師として働くためです。
このとき、彼女に頼まれて私は2日間だけ、生徒にむけて折り紙クラスをしたことがあります。

ナゾの日本人ケミサキコ

お寿司づくりのないときの私は、散歩と料理とテレビ三昧の日々を過ごしていました。
そこで、観たい番組を見逃さないため、近所のエディーコラでテレビガイドをよく買っていました。

エディーコラは、新聞や雑誌を売ってるだけでなく、ちょっとした小物、ガムやアメ、ロト、コピーサービス、携帯のチャージなど日本でいうところのコンビニのような存在です。
いろいろな人が顔を出しますが、ある日このエディーコラで働いているシチリア男子が「彼女も日本人だよ」と紹介してくれたのがケミサキコだったのです。

ケミサキコのことは、ウワサで聞いて知っていました。
そして、いつもの散歩コースに素晴らしいお屋敷があり、なぜか日本国旗が掲揚されていてナゾだったのですが、そこが彼女の家だったのです。

日本人だけれど日本語を話すことはできません。
ローマ大学で日本語を学んでいるけれど夏休みで帰省中とのこと。
9月にテストがあるというので、じゃ、日本語のレッスンをしましょうということになり、例のお屋敷にお呼ばれしました。
そして、なぜ日本人なのにイタリア人としてここにいるのかを聴くことになります。

ケミサキコは、タオルミーナの目抜き通りにある老舗菓子店「Chemi(ケミ)」のお嬢さんでした。

サキコは「咲子」と書くそうです。
名古屋で生まれたこと、7人兄弟の末っ子で教会へ預けられたこと、縁あってケミ夫妻に引き取られ養子となりタオルミーナへ来たことなど。
このドラマチックな彼女のストーリー、朝日新聞で紹介されたこともあるそうです。
彼女は私より10歳ほど若いのですが海外養子縁組があったことに驚きました。

夕ごはんの後、私たちは待ち合わせしてよく一緒に散歩をしたのですが、それは目抜き通りを端まで歩き、折り返してまた戻ってくるというだけのものでした。
散歩はたいてい夜22時ごろから。
夏のタオルミーナはその時間がもっともにぎわっていて、小さな子どももジェラートを食べたり広場で遊んだりしていました。

知り合いの店へ顔を出し挨拶を交わしたり、彼女の家の菓子店で従業員の様子をチェックしたり、そこでカンノーロをごちそうになったり。
子どもは夜の散歩をとおして社交を学ぶのだと咲子は言っていました。
知人に会ったときの挨拶の仕方、会話の仕方など、大人の様子を見て自然と覚えるのだそうです。

咲子は夏の終わりにローマへ戻っていきました。
私は9月の終わりにローマ経由で帰国することになっていたので、ローマに1泊して彼女と夕食を共にしたのですが、結局その日以来、1度も会っていません。

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