自遊工房

1954年生。 人生急降下中。 忘却のままでいいのか。 体験、経験、歴史から、誰かの一…

自遊工房

1954年生。 人生急降下中。 忘却のままでいいのか。 体験、経験、歴史から、誰かの一息にでもなれば。 独断の隙間を開示。 あんなこともあった。あんなことをやっていたのか。そんな時代があった。

マガジン

  • 佐伯望郷誌

    南海部に天空路を開く会より、短いのを何か書け、と来た。何某かの一助になればと思う。

  • 自遊工房昔日記

    時々過去のことを思い出して、恥ずかしい思いをしたり、悔んでしまったりする。数々の間違いをし、恥ずかしい記憶が残っている。人生急降下中。いっそさらけ出してしまえば爽快かもしれない。残っていく者たちが反面教師としてみてくれれば、尚のこと。

  • 自遊工房日日録

    日々思ったこと 気紛れ日誌

  • 豊穣の国

    人生の曲折 転んだ先をどう生きるか 老後の迎え方をどうするか

  • 青の彷徨  後編

    喪失から孤独。支えもあるが苦行のなかを生きる。そして再生へ。平成初期、医薬品卸は生き残りをかけて合併へ。どう存続させるか。人も会社ももがいてあがいて生きてきた。

記事一覧

固定された記事

円形分水路。山中を隧道で通し、水争いをせずに済むよう、均等に分ける先人の英知と努力に敬意。

自遊工房
3週間前
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読書のすすめ

 故柴田幸夫先生を偲んで  昭和の戦後から高度成長への間、山合の田舎の生活は大変厳しく、米がそのまま貨幣として通用した。それほど食料に不自由した時代だった。  …

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438年経過

自遊工房
4日前

438年経過

 堂ノ間供養塔  因尾物語<因尾通路斬の事> ―――主として大友興廃記による ――― 羽柴弘  <略>日州薩摩の武士、府内へ往来の時は、佐伯の内因尾という所を折…

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4日前

郷土史発掘の先人

天空路を拓く会の趣旨にもあるように、郷土の歴史や文化を発掘検証し、後世に繋げていくことは重要である。 佐伯史談会という会があって、もう半世紀以上活動が続いて…

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隠れた大美術館

 佐伯の自慢といえば、いろいろあるが、私は南海コレクションをまず押したい。この話は公開すべきなのか。少し考えてみたが、そのまま自由に公開されていたのだから、何も…

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反省記

二日酔いを初めて経験した日のことはいまだに覚えている。なぜなら初めて飲酒をした日でもあり、18歳の誕生日でもあったから。 高校三年の秋、私の誕生日に呼びも…

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お茶の季節

 新茶の季節となった。ゴールデンウイーク中、茶農家は大忙しである。私が子供頃は、この期間に遊びに連れて行ってもらえるなど考えたこともない。家族総出で早朝から夜遅…

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衰退する町

 故郷の変化の中で、一番寂しいのは懐かしい本屋がなくなったことだ。本屋こそ文化の根源であり、未来を拓く英知の指標がそこにあると思っている。私が高校生の時、昭和45…

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天空路越え

 私が小学校の頃の遠足は佩楯山が多かった。番匠川を遡り虫月、小鶴、松葉から山を登る。山頂にはテレビ塔があって、三重町から大分市内が遠望できた。8合目から9合目あた…

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10日前

柳井館の謎 

 番匠川の支流小又川の、その支流に江平川がある。江平川の行き詰まりに江平(えびら)という地区がある。私が子供の頃は確か2軒の家があって、私の同級生もその家の子だ…

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天空路の一つ 

椿山 冠岳 楯ヶ城山    昔は明治村(しばらく前は弥生町、今は佐伯市)の長畑という地区は、椿山の長い急斜面に段々畑が長く続いて、その隙間に人家が点在していた。 …

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11日前

小さな家庭菜園

 3日前に実家の田んぼの端っこの余った土を、土嚢袋に5個詰めて、Y市の娘の家まで運んだ。庭の土を起こし野地板で囲い、土を混ぜ、肥料を加え、水をたっぷりやり、シート…

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自遊工房
2週間前

長者原から三俣山を望む。白雲が山を覆うように迫っているが、いい天気だ。

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2週間前

豊穣の国 八

 佐伯に戻って城下町を車で案内し駅に車を戻して、電車に乗った。夕方日が落ちる頃、日向市の駅に着く。歩いて十分ほどのホテルにチェックインし風呂で汗を流した。ホテル…

自遊工房
2週間前
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固定された記事

円形分水路。山中を隧道で通し、水争いをせずに済むよう、均等に分ける先人の英知と努力に敬意。

読書のすすめ

 故柴田幸夫先生を偲んで  昭和の戦後から高度成長への間、山合の田舎の生活は大変厳しく、米がそのまま貨幣として通用した。それほど食料に不自由した時代だった。  男は思春期を過ぎ、精神と成人としての自立に到達するとき、必ず父親を対立軸とする。昔の生活台がそのまま彷彿させられる。共感、共感、共感。  透明性の中に、風景の無常観が浮かんで、過去の記録と感情の残片が高い文学性を持たせている。故郷と人の生き様の記録として、後世に残したい一書である。  その中にある言葉を引用したい。

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438年経過

438年経過

 堂ノ間供養塔  因尾物語<因尾通路斬の事> ―――主として大友興廃記による ――― 羽柴弘  <略>日州薩摩の武士、府内へ往来の時は、佐伯の内因尾という所を折々通路とす。  さる程に、天正十四年(1586)丙戌12月17日、佐伯太郎惟定の居城栂牟礼より、軍勢数多を因尾表に差向けられる。すなわち惟定の下知を受けたる因尾の武士、柳井左馬之助、同じく外記、同じく平兵衛、同じく弥右衛門、同じく兵庫ノ介、三代勘解由、柳井喜衛門、同じく弥右衛門尉、吉良舎人、杉谷兵部、同じく源次郎、

郷土史発掘の先人

天空路を拓く会の趣旨にもあるように、郷土の歴史や文化を発掘検証し、後世に繋げていくことは重要である。 佐伯史談会という会があって、もう半世紀以上活動が続いている。当初からその事務局として、歴史を知る人を発掘し、記録を残す作業を生涯されてきた人がいる。原稿はガリ版印刷だった。小冊子だが年数回は発行されたと思う。羽柴弘氏である。教職についていた経験から、ガリ版は苦にならなかったのかも知れない。私も学生時代部活でガリ版に苦労した経験がある。佐伯史談一冊全部お一人でされていた

隠れた大美術館

 佐伯の自慢といえば、いろいろあるが、私は南海コレクションをまず押したい。この話は公開すべきなのか。少し考えてみたが、そのまま自由に公開されていたのだから、何も隠すこともないと思う。  詳細を初めて知った時は、昭和から平成へ移行する前後だった。私は当時佐伯に居住して、医療関係の仕事についていた。そしてこの病院の担当になり、驚愕したのだ。一階外来の待合場所に、どーんとあった奥村樗牛の絵画。国宝だぞ! それ以外にもいたるところにある名画の数々は、その専門家なら必ず戦慄を覚えるほど

反省記

二日酔いを初めて経験した日のことはいまだに覚えている。なぜなら初めて飲酒をした日でもあり、18歳の誕生日でもあったから。 高校三年の秋、私の誕生日に呼びもしないのに友人が三人、私の下宿を訪ねてきた。彼らが私の下宿に来たのもはじめてだった。 夕食を食べて二階の部屋にいた時、二人がやってきた。TZとTF。二人ともそれぞれ日本酒とビールを持ってきた。私の誕生日を祝おう、というのだ。コップなど部屋になかったので、私は下宿のおばちゃんに借りようと、階段をおりているところ

お茶の季節

 新茶の季節となった。ゴールデンウイーク中、茶農家は大忙しである。私が子供頃は、この期間に遊びに連れて行ってもらえるなど考えたこともない。家族総出で早朝から夜遅くまで働いていた。  その習性か、この期間はいくら仕事が休みでも遊びに行く気がしない。何か悪いことをしているような気がして、もっぱら引きこもり。藤沢周平氏もその全集の中で書いてあるのを読んだが、結核の療養で休んでいるのに、自分だけ家の中にいるのが落ち着かない、とあった。そのお気持ち、農家育ちの者としてはよくわかるのだ。

衰退する町

 故郷の変化の中で、一番寂しいのは懐かしい本屋がなくなったことだ。本屋こそ文化の根源であり、未来を拓く英知の指標がそこにあると思っている。私が高校生の時、昭和45年ころからだが、本屋を回るのが何より楽しく好きだった。別段購入する目的があるのではない。どんな本が並んでいるか。どんなジャンルがあるか。  下宿先から一番近いのが、広田書店。そこから駅の方へ少し行くと都堂書店。仲町には二海堂書店。根木青紅堂書店。大手前には高司書店。それぞれ少し個性があって、少し違ってそれがまた楽しか

天空路越え

 私が小学校の頃の遠足は佩楯山が多かった。番匠川を遡り虫月、小鶴、松葉から山を登る。山頂にはテレビ塔があって、三重町から大分市内が遠望できた。8合目から9合目あたりではよく貝の化石が簡単に取れたものだ。九州が二つに分かれていた時、海岸が隆起して一つになった証が貝の化石である。それは今回どうでもいいことだが、小学校から山頂までは3時間以上かかったと思う。全行程完全に登りしかない。  登山の起点となる松葉から元山部にかけては多くの人家があった。松葉には分校もあった。確か5年生にな

柳井館の謎 

 番匠川の支流小又川の、その支流に江平川がある。江平川の行き詰まりに江平(えびら)という地区がある。私が子供の頃は確か2軒の家があって、私の同級生もその家の子だった。  三方、四方山に囲まれた隙間にポツンと僅かに空が見えるところ、という感じの場所である。そこに柳井館なる小さいながら一種の城郭があった、とされて史跡もある。  因尾という地区は番匠川の上流から中流にかかる一帯で、最上流から樫峰、腰越、元山部(もとやまぶ)、松葉(まつば)、小鶴、紙土屋(つちどや)、虫月。ここで合流

天空路の一つ 

椿山 冠岳 楯ヶ城山    昔は明治村(しばらく前は弥生町、今は佐伯市)の長畑という地区は、椿山の長い急斜面に段々畑が長く続いて、その隙間に人家が点在していた。  今はその面影もないほど、ほとんど全ての家が便利なところに転居した。私の母の実家も昔はそこにあった。私のひいひいお婆さんも、母と同じ家から嫁いで来たのだ。  そこからどうして因尾まで来たのか。今なら大阪本、畑木、小倉、中野、と来ればいい。そんな遠回りなどしていないのだ。裏の椿山を越え、風戸にショートカット。  私の父

小さな家庭菜園

 3日前に実家の田んぼの端っこの余った土を、土嚢袋に5個詰めて、Y市の娘の家まで運んだ。庭の土を起こし野地板で囲い、土を混ぜ、肥料を加え、水をたっぷりやり、シートを敷き、マルチシートも貼って苗を植えた。今年古希の年。普段重労働はしないので、肩腰が痛い。  孫娘(小2)は好き嫌いが多い。この兄弟は長男(中3)も次男(小6)も好き嫌いが多い。野菜も嫌いな方が多い。共通して好きなのが胡瓜くらい。そこで胡瓜を育て、その成長をみて欲しいと思い家庭菜園を作った。  朝登校し帰宅したらいき

長者原から三俣山を望む。白雲が山を覆うように迫っているが、いい天気だ。

豊穣の国 八

 佐伯に戻って城下町を車で案内し駅に車を戻して、電車に乗った。夕方日が落ちる頃、日向市の駅に着く。歩いて十分ほどのホテルにチェックインし風呂で汗を流した。ホテル一階で食事をして外にでる。もう金の音が聞こえていた。金の鳴る方に進む。ひょっとこ面を被り、赤い浴衣に白い褌、白足袋姿の男衆。女はおかめの面を被り浴衣に白足袋姿。白い法被に赤い褌だけという一団もある。面はつけず素顔のままの集団もいる。それぞれ思い思いのいでたちで集団を組んでいる。この集団が順次繰出して行くのだ。  ひょっ