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望郷点描

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戦後昭和の時代 昔 故郷を思う。
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望郷点描

 昭和三十年代を山奥の田舎で過ごした者として、ふとあの頃のことを思い出す。楽しくも悔しくも辛くも酸っぱくも有ったあの時。時の駅に立ってあの景色を眺めて見たくなる。二度と立ち返ることはできないが、あの時の駅に止まり、思い浮かべることは出来る。時の駅には、いまを築いてくれた人への感謝をこめて立ち寄る。  子供の頃は自然の中で遊び育った。四面の山間を縫うように支流が本流に注ぎ僅かに三角洲ができている。山の際に家々は建っていて、家の目前には田があり、見上げる前後左右が山だった。ある豊

点描点心

 お茶の前後は田植えの準備がある。連休があっても全く関係なかった。この習慣が身についているのか、山が若葉に溢れ、ニュースでゴールデンウイークと伝えられるようになると、なぜか落ちつかなくなる。遊びに行く気分には全くなれない。  梅雨が始まる前に大掃除が毎年行われた。母屋だけだったが、家中の畳を上げ、庭一面に筵をしいて日干しにする。畳と畳を上部で合わせて山形に立てるから、どこかがずれて倒れると将棋倒しになった。子供は年に一度のことで珍しく楽しいから、畳が干されている間を走り回った

望郷点描 ふるさと

土筆を摘んで 犬と走った   蓮華畑は 大きな蒲団 青い大空 やさしい陽射し   幼いあのころ 因尾はふるさと 浴衣の帯を 結んでもらい   団扇で打った 蛍は消えて 夜露に濡れた 暗い足元    せせらぎ響く 清流番匠   菱の実探しに 暗い山中    怖くて走った 山を降った 稲刈りすんで 祭りの笛の音  みんな笑顔で 心が弾んだ 半纏着込み 囲炉裏の炬燵   昔話に胸躍らせて 鉄砲なった 山を見上げた   木枯らし吹いて あの山ゆれた

番匠川

 故郷を思うと、第一に川である。何しろ山だらけに川が流れているだけのところだ。  子供の夏休みの遊びは川だ。番匠川の支流小又川に、子供が泳げる場所が決まっていた。妙見(みょうけん)という場所である。二つの集落の子供が集まり、天気の良い日は賑った。灌漑用水の引き込み口になって、コンクリートで堰が作られていた。堰に流れが止められ、石が溜まって浅瀬になり、上流に行くにつれて深くなっていた。深いところは二m近くあった。その両岸には大きな岩があり、岩の上から飛び込んで遊んだ。小さい子は

家族のこと

 最盛期私の家には十二人いた。曾祖父母、祖父母、父母、伯母、姉、私、弟、妹、弟である。このうち姉と妹、一番下の弟は障害児で寝たきりの被介護者だった。  曾祖父は、体は小さかったが財テクに成功した。我が家の最も隆盛したのは曽祖父が現役の頃で、以降は衰退するばかりだ。酒は飲まず刺身が好物で、冷蔵庫もない時代でも、一度に食べてしまうのはもったいない、何日かに分けて食べる変わり者だった。役場に勤めていたが、出勤前後に野良仕事をしたらしい。田んぼと山を増やした。町の土地を買う話があった

耕運機事故と家族

 家の庭には辛夷の木があり、春になると白い花を咲かせた。辛夷は田打ち桜とも呼ばれ、六花弁のやや厚みのある清廉な花が咲くと、田仕事にかかる時期になる。  当時我が家は八反ほど米を作っていた。トラクターも無い。耕運機もまだ無かった。馬を飼っていたので、父は馬に犂を引かせて田おこしをした。鍬を持って外周を掘るだけでも重労働である。それも八反もよく作っていたものだと今になって感心する。 初夏になると、家の前を通る井瀬と呼んだ灌漑用水路に水が通り、田に流れるようになる。田植えの時期であ

焼酎飲み

 村には居酒屋もスナックもなかった。酒屋はあって量り売りもしていたが、家にはよく焼酎飲みが来た。  私が小学校高学年になる頃には、家でただ一人焼酎を飲む曾祖母が亡くなった。曾祖母は晩酌に五尺、そのままで飲んだ。曾祖父母は共に働き者で、曾祖母は曾祖父より少し体が大きかった。曾祖父は役場務めをしていたが、役場に出る前に田や畑の仕事をし、役場から戻るとまた田畑に出た。曾祖母は家事炊事を済ませて田畑に出た。おそらく人を雇って作ったのだろう。曾祖父は家の財産を一代で築いた人だった。小さ

コマ チビ トムよ

 子供の頃、家には人以外にたくさん動物がいた。大きいのは馬だ。厩があって餌箱が角につけられていた。馬の餌は、藁をはめ切りと呼ぶ支点が先端についた大きな直刃を手前の柄で持ち上げ、草を下に入れて下ろし切る道具を使った。藁も草も面白いように切れる。下手をすると手も落ちるくらい良く切れた。藁を小さく切って草と混ぜ、糠も入れてやると馬は旨そうに食んだ。  耕運機が来るまで馬は大事な働き者だった。時々馬を庭に連れ出して日光に当て、毛にブラシを当てる。また蹄鉄も替えてやらねばならない。厩の

学校のこと

 小学校は家から二、三百m位で近かった。家を出て右に進むと、旗立場と呼ばれた神社の祭りで幟を立てる石塔が、道の両側にあった。これを通り過ぎるとやや左に曲がりながら緩やかに降る。降りきった右には川を前に見た三竈江神社があった。通り過ぎて橋がある。橋桁が高いので上りになる。川の両岸には堤防が築かれ、三竈江神社の大鳥居は堤防から急な石段を降りた直ぐ前にあった。橋を渡って右に曲がり堤防の上を五十mも進むと、幅一m長さ五m位の橋があって、学校の校庭に出た。入学式は古い木造校舎で、講堂は

 まだ小学校低学年だった。稲を刈る最盛期に学校が何日か休みになった。いまでは信じられないが本当にあった。小学校に通う児童の殆どは農家の子供だ。子供の手も借りたいくらいの忙しさになる。稲刈りは専用の鋸状の鎌で稲を刈る。大人の男は片手に持った鎌で、もう片手に稲を五束以上刈っては持つ。並んで刈って行くので、自分にあった束数を守って行かないと、後で刈る人が困る。刈った稲は順次均等に並べて干す。腰は曲がったまま。刈った稲は稲藁縄で束ね、木で組んだ干し台に掛けて天日干しにする。乾燥機が入

祖父

 祖父は普通の人じゃないと、子供の頃思っていた。他所のお爺ちゃんとは違っていた。近所の人や他所から来た人も、祖父に色々相談に来たりした。背は低く、体は細かった。よく一緒に風呂に入ったが、お腹はぺちゃんこで骨と皮しかないみたいだった。酒は飲めず、ゴールデンバットを吸った。新聞が郵便で届くと隅から隅まで読んだ。生まれた家は造り酒屋で、清酒を造っていた。祖父の父は酒豪で、裸馬に乗って尺間山に駆け登ってくる剛毅な人だったという。祖父は四人兄弟の次男で、兄は筋肉質の健康体で男前だったし

食べ物事情

 我が家では、何か知らないが宴会がたくさんあった。二間続いた八畳の和室の襖を外してつなげ、折りたたみの長テーブルをコの字に並べて外と内に人が座った。多かったのは葬儀関係だった。私が覚えているだけでも、曽祖父母、姉、妹、弟、伯母、祖父母の葬儀、四十九日があったし、少ない集まりだが、葬儀後四十九日までの間、七日ごとにたんやという法事もあった。それ以外にも集落の集まりで人が集まった。  台所は土間で、近所の主婦たちが立ち働いた。厩の前の土間には大釜があって、味噌用の豆を煮たし、蒟蒻

正月

 正月を迎える前に、家の周りをきれいにした。専ら祖父が草をむしった。時々祖母が手伝った。墓にもお参りをした。  師走の二八日には餅もついた。鏡餅やお寺にあげる餅もあり、何升もついた。餅は木の臼と杵でついた。重労働だ。つき手は父一人。杵を臼に振り下ろすと、捏ね手が餅を真ん中に寄せる。つき手はまた真ん中に杵を振り下ろす。単調な作業だが、呼吸が合わないと怪我をする。蒸したての米は湯気を立てて熱いから、捏ね手は手を水につけながら、やけどをしないようにする。水につけすぎると餅が水っぽく

新茶と自転車

 毎年、五月の連休前になると、行楽地の人出予想とか、渋滞予想などが報道される。このニュースを耳にすると、大人になって故郷を離れて暮らしていても、非常に違和感を覚えてしまう。山が新緑に燃え盛る頃は、我が家は休む暇もない毎日が続いている。子供の頃は、ゴールデンウイークの子供の日にはどこか行けるかも、と思ったこともあったが、それは一度としてなかった。  まずお茶だ。釜でお茶を作った。作ったお茶は売った。静岡、宇治、知覧、八女などに比べるとはるかに規模は小さいが、規模は小さいが因尾茶