授業における活動量という発想

授業づくりにはさまざまな味付けがある。
いくつあっても良い。
どんな種類があっても良い。
ある程度の方向性があればなお良いし。
その場における全ての子どもが学びに向かうルール、ルーティン、レギュレーションがあればなお良いのではないだろうか?
必須ではないけれど


教師の仕事

 センセーとして結果を問われる仕事ではあるが、必ずしも結果が伴うことはない。いつでも勝てるわけではない。
 ここを勘違いしてる教師はマニュアル本を書きがちだ。
 かの武豊だって負けることが多いのだから、負けから学ばなければならないと言う。だからこそ彼はいつも言う。「今日の自分は昨日より上手い自分でありたい。」彼らは馬の力が全く違うレベルでもなんとか1着を目指している。
 我々は子どものレベルが違うといってもまだ馬と違ってなんとかなるレベルであるだろう。
 だからこそ毎日リベンジできる授業で勝負する生き物である教師に対してもう少しケアはないのだろうか?そして厭いや労いを受け取ると同時に勝負師としての修練や執念を全面に出していかねばならないよねと思う次第である。それが教師という仕事のシビアな現実ではないのだろうか?

どのレベル?

 どのレベルの授業を作っていくかを考えるとき、まず先立つのは目の前のクラスルームを子どもを正確に掴んでいく必要がある。
 これが評価であることを正しく理解できている人間はそう多くない。
 そしてその評価が担任にしかできないことを理解できている人間は大学教員の中におそらくいない。
 何度もいうが日本の教育がうまくいっている理由はシステムとしての安定性とそれを維持することのできる教員の質だけである。
 しかしシステムの安定性というのはさほど重要ではない。アメリカの大統領にどんな人間が現れても困らないのはアメリカの大統領の選定方法と権限に対する限定にそれなりの経験則に基づく改変が加えられているからである。南北戦争までの南部と北部、ケネディ大統領暗殺まで続く東部と西部の対立の歴史はたった300年ほどのアメリカの歴史において一定の安定的基底の発想を作り上げたのだろう。同程度の歴史しかない日本の公教育制度もその設計と改変によって安定性の基底を作り上げてきたことは別に特別優れているわけでもない。
 
 しかし、今の教育システムが公立学校の教員の質を確実に担保できるかどうかについてはいささか怪しくなっている。この件については、大学教員と保育士が10数年の先行性を持っている。大学教員の起点は2004年の大学独法化であると思う。多分1991年の設置基準の大綱化の時点でこの流れは決められていたので別に有馬朗人が悪いわけではないのだろうが、多分この元文部大臣の老人(朗人)も頭が悪かったのであろう。少なくとも物理には詳しくとも教育に関わる知見はなかったに違いない。今更のように文科省の官僚に騙されたみたいな新聞記事を読むが沖縄科技大に関わっている時点で何も反省がないのであろう。何度もいうが、大綱化の時点で大学教育が研究水準を維持できる可能性はゼロに近いことぐらい働いている大学教員なら分かろうよ。と思う。
 保育についても現時点でも、生計を立てるにはなかなか厳しい給与しか支払われていない実情がありながら、2000年ごろの保育指針が策定された頃は今の教育現場と同じ保育の質の問題が提起されていたことがある。
 その後の森友問題と保育所落ちた日本死ねの事件がインパクトが凄すぎてそれ以前のことを忘れがちなのだが、実は日本の預ける側からの保育の問題は解決されたように見えるかもしれないが、介護問題と同じように保育士の働く問題は何一つ解決されてはいない。
 それどころかより酷い状況をそのまま放置している。いつも思うのはなぜ保育士が黙って「仕事しない教員の子ども」を養育しているのかということである。もちろん子どもには罪はないという話になるのであろうが、保育士の労働条件は労働の質と価値の問題を少しシビアにあげつらっていかないと解決にはつながっていかないと思う。
 いつまで汐見稔幸のような老人の茶飲み話で濁しているのか意味がわからないのだが保育における専門性を主張してイニシアティブをとっていくことが保育士の待遇改善につながることをわかっていながらなぜやらないのだろうか?
 
 実は教員の待遇に対して明るい未来が抱けないのは、この二つの職種において壊滅的に失敗してしまった様を目の当たりにした2000年代の20年間というのは教育にとっては「失われた20年」だったのではないかと思うからである。
 しかもこの20年を作った責任は確実に大学教員の無能さからくるものであることに疑いない。
 だからこそ教員が今更ながらに大学教員に頼ってさまざまな取り組みをすること自体が理解に苦しむのである。教員の側として論理を戦わせることで教育現場の独自性を維持し、存在価値を示していくことの必要性をつくづく感じるのである。
 今こそ教員自身が教員の質の担保を担っていくことに意味があるのではないか?
 それこそが令和の日本型学校教育の作り方なのではないかと思う。
 だからこそ優秀な教員たちが公教育を離れていくことに対しては危機感を覚えるし、一緒にやっていきたいのに起業したり、NPOしたり、大学教員なんぞになったりするのかに疑問しかないのである。

授業づくりを考えるとき

 何度もいうが、どういう評価を持って授業を組み立てるかが非常に重要である。
 しかしその評価に正解や不正解は存在しない。
 ただ建て付けるにあたっての前提が存在するかしないか自体は非常に大事である。意図、営み、実践、コントロール下、計画、準備、指導、指導案、細案、略案、ゴール設定、道筋、とにかく色々な言い方や表し方があるがなんでも良い、とにかく前段階の場の設定があり、それに基づいた計画があることが必要である。
 そのうえが非常に簡単に成果をあげられる指標はやはり量なのである。

個々の活動量が学習の根幹を作る

 今まで質、質言ってたのにおかしくね。
 基本的に量が質に転化することはないと思っている。クソみたい量は結局クソみたいな成果にしか繋がらない。
 しかし特に初等教育においてはこのクソにこそ意味があることに気づいている人間があまりいない。実はクソにも何種類かあってただのクソではないのであるが・・・。
 下品な人間であることは否定しないがあまり下品な言葉を使い続けるのもナンなので低レベルと言い換えれば、低レベルの学びを繰り返すことで学び方を学ぶことはよくあるということである。
 しかし実は逆もあって低レベルが意味なくくっついてしまうと2度と取れなくなってしまうという事例も多くあるわけです。
 例えば出席番号を意味もなく記名の後ろに丸つけて書くことを低学年のうちに強要するという活動量を多く作った教員の後に待ち受けるのは後の教員の教育活動にとってすごく不幸なゲンジツです。何も考えないで常に名前の後ろにそれを書き続ける子どもの作成だからです。
 これは教員の管理の労力を削減するために活動量であって子どものための活動ではないのは明白であるが、活動量としては自分の名前を書くのと同じぐらいの学習活動量がその子どもにとっては目の間の教員に関係なく存在し続けたわけです。しかしそのこと自体に使用価値はありません。その子の人生にとって全く役に立たない活動量だからです。

 しかし低レベルであってもただ走るとか可動域を広げる動きや筋肉を高めるトレーニングを体育の授業の活動量としてしっかり押し込んでいくことは使用価値があります。しかもそれが個別化して取り組める土壌があれば一斉授業であってもパフォーマンスが格段に上がります。目指すべきは最高最良な姿ではなく、愚直な日常的反復だからです。
 これは質にとっては最も敵視すべき存在です。そもそも転化も昇華もしない。教育活動における量が質に転化することを正当化する論理構成は、その活動量が次の活動のために必要な踏み台であることを持ってそのエビデンスとしますが、それは量が別の見え方の量に変化しているだけであって質にはなっていないことがほぼ確実です。
 もし質に変化していることがあったとしたらそれは元から別の見え方をしている質の訓練を行なっていたことを隠していたか、見逃していたかのどちらかです。
 特に低学年においては、学びから逃走しないためには愚直な反復活動から忌避しないように授業の中における反復活動=活動量へのコミットを教師が意図することがとても大切だということです。

 活動量が質の土台を作っていくとはそういうことだと思います。この活動量への愚直なまでの取り組みを言語化することで、訳のわからないことを言って学習指導要領とともに日本の教育を破壊しようとしている大学教員どもをぶっ飛ばしてやれないものかと考える今日この頃です。なあ上智の・・・

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