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vol.41 芥川龍之介「トロッコ」を読んで

10ページほどのこの短編、どう解釈するか、わからないままになっている。ただ、「良平」が、無我夢中で家路を走っている時、僕は子供の頃のこんな出来事を思い出した。

小学校低学年の夏休みだった。ひとりで自転車に乗って、10キロほど離れたデパートに行った。何回か父親とバスで行ったことはあったが、ひとりで行くのは初めてだった。やっと着いたデパートに自転車を止めて、しばらくして戻ってみると自転車がなくなっていた。必死て探したがどこにもなかった。盗まれてしまった。

仕方なく歩いて帰ることにした。標識を見ながら家を目指したが、いくら歩いても、見慣れた景色が出てこない。やがて、逆方向に歩いてしまったことに気がついた。戻る道もわからなくなった。泣きたくなった。ふと、タクシーで帰ろうと思いつき、結局タクシーに乗って、家まで帰った。運転手さんに怪しまれながら質問されたと思う。自転車のことは言えなかった。安堵と不安と疲労の顔をして、タクシーに乗っていたと思いう。

自転車を盗まれた上に、タクシー代まで払わされ、運転者さんに、「連れてきてくれてありがとうございました」とお礼の箱を渡しながら、頭を下げていた母親を覚えている。後で母親から「心配したよ。よく頑張ったね」と、なぜか、くじけた僕に優しかった。理由は聞かれたけど怒られた記憶はない。そのことが余計に辛く反省させられた。「良平」のように泣くことはなかったけど。そんなことを思い出した。

まだ8歳の「良平」は、トロッコに乗ってずいぶんと遠くまで来てしまった。一緒に来た土工から「われはもう帰んな」と言わた。突然に、今まで経験のない距離をひとりで帰らなければならなかった。薄暗くなった山道を必死で走り続けた。その時の「良平」の心細さ、情けなさ、怖さを想像する。家にたどり着き、母親に抱かれ大泣きした時の安堵感、あの時の僕の気持ちと似ているように思った。

しかしこの小説は、ただ単に、大人たちといっしょに、遠くまで来てしまい、ひとりで帰って辛い思いをしたという物語ではないはず。何と言っても夏目漱石の門下生の芥川龍之介だ。きっとそこには深い語りがあるに違いない。

おそらく、この小説の最後の3行に、芥川の思いが詰まっていると思った。

「良平は二十六の年、妻子といっしょに東京へ出て来た。今ではある雑誌社の二階に、校正の朱筆を握っている。が、彼はどうかすると、全然なんの理由もないのに、その時の彼を思い出すことがある。全然なんの理由もないのに?_塵労(じんろう)に疲れた彼の前には今でもやはりその時のように、薄暗い藪や坂のある路が、細々と一すじ断絶している。・・・」

きっと大人になっても、「心細さ」はそのままなのかもしれない。あの時、トロッコを通じて大人たちの厳しさや優しさに触れた。そして「薄暗い藪や坂のある帰り路」を、「命さえ助かれば・・・」と、泣きながら駆け続けた。その時、きっと大人の社会の試練を感じたに違いない。そして家について母親の胸で大泣きした時、帰る家があって良かったと思ったに違いない。

二十六歳になった今でも、社会の試練を受けながら、やすらぎの場所を求め続けているのかもしれない。それがふっとした時に、あのトロッコのことを思い出し、あの時感じた心細さが、今でも続いている心持ちなのかもしれない。

「塵労(じんろう)」という言葉を調べてみた。「世の中・俗世間における煩わしい苦労」とある。確か、夏目漱石の道草にも「塵労」という言葉が使われていた。まさか、芥川、「塵労」という言葉を使いたくて、このトロッコを書いたのではないよね

(おわり)

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