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短編小説「半歩先の未来」



 どうやら学校の宿題に〝作文〟が無くなったのは、小学校3年生の1学期の頃らしい。理由は簡単で、児童が提出する作文に添削の必要性がなくなったからである。この話を祖母から聞いた時、(昔の人はなんて頭がよかったのだろう)と、とても感心した。




 〝宿題〟という呼称で親しまれていた、学習習慣の確立を目指す記述が学習指導要領から完全に姿を消したのは、祖母が小学校6年生の頃らしい。ニュースで学習の在り方について、大人達が難しい言葉を使いながらも、結局は「宿題なんてない方がいいんです」と、これまた難しい表情で言葉を結ぶ姿が面白く、祖母は(宿題をしなくていい日が来るなんてすごい幸せだ)と、ワクワクして聞いていたと教えてくれた。





 〝読書率〟を騒がなくなった。〝機械が機械を直す〟ニュースに世間中が熱狂した。〝少子化対策〟と〝高齢化問題〟を棚上げするため、30歳を成人と見做す政策が取られた。〝でも機械の方がうまい〟という賛辞の言葉が流行した。〝県内一律学校〟という制度導入により、児童は自宅のパソコンから全ての授業を受けられるようになった。〝教育者〟という言葉が死語となった。〝教育機械〟という素晴らしい言葉がとって変わりだした。〝識字率〟が低下した。〝聴覚が進化した〟あらゆる学問書は国籍を問わず、音声で聴くことが一般化した。そして……。




 私はこのまま時が進むと、人類は一丸となって本を燃やすだろう。そうなれば終着するところは決まっている。世界平和である。




 ———わたしは、べっとによこになったまま、えーあいに、わたしのかんがえをもとに、しらべさせまとめさせてつくってもらった、ぶんしょうを、てんじょうの、もにたーにうつした。そして、それをおんせいでかくにんすると、ようやくあんしんした。「わたしの、へんなもうそうはまちがっていたみたいだ。このままで、じんるいはいいんだ」わたしたちのみらいは、とても、あかるい。そのあんしんかんにつつまれ、わたしはねむりについた。



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