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なぜリベラルは「保守」にお株を奪われたのか 出版の自由を守った産経新聞出版

リベラルの恥辱


昨年KADOKAWAで「キャンセル」された「あの子もトランスジェンダーになった」が、改題されて、明日(4月3日)産経新聞出版から出版される。

『トランスジェンダーになりたい少女たち』は、先ほどアマゾンで確認すると、本の売れ筋ランキング総合1位だった。

amazon.co.jp 2024年4月2日7:00現在


書店や産経新聞出版への脅迫なども報じられたが、まずは無事に出版されそうであることを喜びたい。

日本の出版の自由を守った産経新聞出版には、今年の菊池寛賞と野間出版文化賞と毎日出版文化賞をトリプル受賞してもらうしかない。

原題(Irreversible Damage)どおりの「不可逆のダメージ」など無難な邦題に逃げず、KADOKAWAの編集者がつけたタイトルにあえて近づけたのも、会社に裏切られたその編集者の無念を汲んでくれたようで、もと編集者としてうれしい。

KADOKAWAには、最低出版社賞を差し上げる。


そして、明日の4月3日は、日本のリベラルが、産経新聞という「保守」にお株を奪われた、恥辱の記念日とすべきだろう。

本来、表現の自由と価値の多様性を、保守以上に主張すべきなのは、リベラルだからである。


キャンセルカルチャーを肯定した「リベラル」


従来「リベラル」とされた勢力の、この情けない体たらくはどうだ。

『トランスジェンダー』本発売をきっかけに、また1年前の毎日新聞の記事がSNSで流通していた。

昨年6月6日の「キャンセルカルチャーを奪い返す」というインタビュー記事だ。


キャンセルカルチャーを奪い返す 「表現の自由戦士」は正しいのか/五野井郁夫
(毎日新聞2023年6月6日)


この記事は、まさにリベラルの堕落の象徴だろう。

というのも、五野井ナントカという左翼学者がしゃべり始める前に、記者の前文がすでに左傾している。


弱者の武器であったキャンセルカルチャーが、リベラルな価値の攻撃に使われています。
困難を抱える若い女性を支援する一般社団法人「Colabo(コラボ)」への攻撃など、女性への個人攻撃も起きています。
本来の意味を取り戻すにはどうすればいいか。


ああ、毎日新聞はここまで堕ちてしまったか。ここまで左傾したか。

冒頭だけ読んで、そう思わせるに十分な記事だった。


ここでのキーワードは、もちろん「弱者の武器」だ。

弱者には「武器」が必要だ、という思想。

弱者の「武器」は肯定されるべきだ、という思想。

それこそが左翼思想だ。


「左翼」の論理に引きずられるな


ここでは思想的な議論をしたいわけではない(私にそんな能力はない)。

しかし、私はマスコミで、リベラルが「左翼」に引きずられていく過程を見てきた。


その実感で言えば、いま左傾化しているメディアでも、社内で活動家レベルの「左翼」は1~2割ではないかと思う。

朝日・毎日新聞、共同通信や東京新聞でも、そんな比率ではないかと思う。

それ以外は、漠然としたリベラル、ないし「庶民派」がほとんどだ。


なぜ9割のリベラルは、1割の左翼に引きずられるのか。

リベラルは、以下のような左翼の論理に弱かった。


「弱者は、強者の持たない『武器』を持ってもいい。強者が使えない『手段』を使ってもいい。なぜなら、弱者だから」


これは、突き詰めれば、「目的は手段を正当化する」という論理だ。


私はこの論理を、1970年代、子供の頃に聞いた。

前にも書いたが、「クイズダービー」という人気番組に出ていた鈴木武樹という大学教授が、ニュース番組でこの論理を喋っていた。

「弱者が激しい運動をするのは当然ではないですか。少しははみ出したこともする」

ーーみたいなことだった。

クイズ番組に出ているときの笑顔とは打って変わった、コワい顔だった。このドイツ文学の先生は、左翼だったのだ。(中山千夏らと「革新自由連合」を結成し、1977年の参院選に出て落選。翌年、胃がんのため43歳で急逝した)

その発言の正確な文脈は忘れたが、たぶん、そのころ問題になっていた「差別糾弾」運動に関してだと思う(1970年代は部落解放同盟の糾弾戦術が盛んだった)。

私はその時、「弱者はやり過ぎてもOK」という論理を初めて聞いたが、最初から変だと思った。だから記憶に残っている。


しかし、リベラルは、昔も今も、この論理に引きずられる。

「庶民派」を自認している人は、「弱者」を出されると弱い。左翼はそこにつけ込み、リベラルは反論できなくなる。

「目的は手段を正当化する」。この恐るべき論理が、20世紀に何千万もの命を奪ってきたのを目撃したにもかかわらず。


この論理から、あらゆる「ダブルスタンダード」が演繹される。

強者のヘイトは犯罪。弱者のヘイトはヘイトじゃない。
強者の差別は犯罪。弱者の差別は差別じゃない。
強者の検閲は憲法違反。弱者の検閲は検閲じゃない。


新聞が左翼になったら、彼らが思う「弱者」のためにいくらでも報道をゆがめるだろうから、もう信用できなくなる。

実際、現今の「キャンセルカルチャー」をも、肯定する羽目になっている。


リベラルの出直しを


こうした左翼の論理に抗するためには、まず「弱者」の定義をはっきりさせなければならない。

そして、その「弱者」は、ほかの「弱者」よりも優先させるべきなのか。

また、その是正のための手段は、「強者」との関係で公正なのか。

さまざまな問いを発しなければならない。

最終的に、目的がいかによくても、それだけで手段は正当化されない、ということを、強く主張しなければならない。


リベラルは本来、保守よりも「弱者」に優しいはずだ、というのは本当だ。

保守は、社会的な強者や弱者は、歴史や伝統の必然から生まれたかもしれない、と発想する。少なくとも、フランス革命に抵抗したエドマンド・バークの古典的保守主義ではそうだ。

また、世の中は優勝劣敗で、弱者が生まれるのは仕方ない、といった価値観も、通常は保守に分類される。


リベラルは、保守よりは「平等」にこだわる。

しかし同時に、他の価値との共存と、手段の公正さにこだわる。そこが左翼との違いだ。

「目的が手段を正当化する」という論理を認めたら、リベラルは左翼と同じになってしまう。絶対に認めてはならない。


そのことを、私より学識のあるリベラルに、今こそメディアで主張してほしいと思う。

4月3日は、リベラルの恥辱の日であると同時に、出直しの日にしていただきたい。



<参考>


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