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リストカットなど自傷行為の正常性

現代社会で、リストカットなど自傷行為をすることは、至極真っ当なことだと考えている。
生まれて、このかた社会(世界、国家、地域、会社、職場、学校、保育幼稚園、家族、友人など)の影響を受け、身に付けた価値観と本来人間が自然の中で自然に育まれる自分自身の価値観とでは相違があるから。
なのに自分自身の価値観を社会の価値観に合わせようとすることが、リストカットなど自傷行為の形で現れるのである。。
頭で考えている価値観と心で感じている価値観との相違を、心で感じている価値観を殺すことが、自傷行為になって現れているのである。

換言すれば、社会の常識に自分の常識を無理やり合わせようとすることが、自傷行為なのである。
常識とは価値観のことである。
自分を無くして、社会に即する人間になろうとしているのである。
しかし個人が社会になることは、かなり困難なことである。

社会の常識は、社会にとって都合の良いものであり、時代や地域によって変化する。
社会は進歩しており、それに合わせ社会の常識も発展するが、本来の自分自身の常識とはただ存在することだから、どんどん乖離していく。
なぜ自分自身の常識がただ存在することなのか。
それは、ほとんどの価値観は、社会から刷り込まれたであるからである。
何故なら最深部の心理は、心理がほぼないところであり、そこでの認識はただの自分自身の存在を感じているだけであるから。

ここで仮に、未開の地で育ったらと仮定してみる。
そのアフリカの未開の地には、幸福という言葉すらない。
すなわち幸福になろうと思うことすら、社会からの刷り込みなのである。
それに本当の幸福は、幸福を超越したところにあるのである。

また社会の進歩とは、生産性、奉仕性、の向上である。
そしてその下には競争の激化があり、社会性の拡大であり、詰まるところ、自分自身の存在感が薄れていくことに通じている。
こんな状況下では、精神性・感受性が高いほど、生き苦しくなり、自傷するのである。

しかし自傷しても何も解決しない。
だから自分自身が社会から刷り込まれた価値観を見直す時期と言える。
身に付けた全ての常識をひとつづつ疑い、いつどのように自分に入ったか分析し、それで仕方なかったことと了解する作業をすることで自然な自分に戻れるのである。
そして最後に残った常識こそが、本来の社会の常識である。

また自傷行為をしたことは最善のことである。
何故なら人間はベストの選択しか出来ないのだから。
誰でもその立場、その知識、その経緯なら、同じ選択をするのである。
後悔とは、その当時の自分に対して、今の自分がする侮辱行為なのである。
これも他に仕方がなかったことだと了解すれば、後悔から解放されるのである。

問題の根本的解決には、所属していると思っている幾つかの社会と距離感を持たない限り解決しない。
換言すれば、社会と間をとることで解放されるのである。
自分と違う社会の価値観をただ認め、それとは一体にならないようにする。
何故なら社会(自分以外の人)は社会、自分は自分として存在しているからである。
また自分が認識出来るのは、まずは自分自身の存在であり、その次に社会などが認識出来るのだから、この順番を間違えると、間が違うのである。

また、この世にある戦いの半分は、無くした自分自身を取り戻す戦いと言われている。

だから、淡々と常識と戦うだけで仕舞いなのである。

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