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好きなことを仕事にしなさい vs 置かれた場所で咲きなさい 論争 (後編)

今回は表題の後編となります。
前回、
「好きなことを仕事にすることをマネタイズ出来ないという理由で他人が止めるというのははいかがなものか?」
という観点で書かせていただきましたが、私の記事の中でかつてない大きな反響をいただきました。

現時点で70いいねを超える過去最高の大きな反響があり、非常に嬉しい限りです。
気合を入れて自分の考えていることを伝えることで、見てくれる人がいるんだということと、noteというメディアの可能性を改めて感じました。

まだお読みになっていない方はぜひ前編を読んでいただければと思います。

さて、本題に戻りますが、
今回の記事では、私がかねてから気になっていた
「好きなことを仕事にしなさい」
という言葉に対して、
「いやいやそんなの理想論でしょう。置かれた場所で自分にできることを精一杯やりましょうよ」
という反論が展開されていたりすることに対して、
どうもそれって「どっちでもなくてケースバイケースなんじゃない?」という想いがあったこと、またこの2つの二元論に話が寄ってしまうことが考え方としては少し危ないところを孕んでいるのではないかと思ったことがきっかけでした。

前回では、
「好きなことを仕事にしなさい」
というのは全くの筋違いではなく、
その方が幸せになる可能性が高いからそれは無碍に否定されるものではない
という意見を展開しましたが、今日はそれとは対極に語られる
「置かれた場所で咲きなさい」ということの難しさ
について語っていきたいと思います。

まず、前回の話について少し補足をすると、私は
「好きなことを仕事にしなさい」に対して全肯定しているわけではないということをお伝えしておきます。

言いたかったこととしてはは、上記したように、
「好きなことを仕事にしてはいけない」というの安直に否定
がどうもしっくりこなく、さらになぜそれが言われるかをよくよく考えてみると、
「儲からないでしょ」「最初は面白くても続かないでしょ」
などというどうも極論的な発想から否定されているような気がしてならなく、そんな程度の話が理由であれば、
他人が個人の想いをストップをかけてはいけない
ということでした。

前編にも書きましたが、では
「じゃあ、好きなことをマネタイズで出来るようになればベストなんじゃない? そのためにはどうすればいいの?」
まずはこの点について語っていきます。

まずはマネタイズという意味で重要なのは、
「好きなことが行うことが自己満足に陥らず、他社への貢献に紐づいていること」
ということがあります。

自分があることを好きで、他人よりも得意な状態で、そのアウトプットが誰かに喜んでもらえる
という状態であれば、多少なりともマネタイズは出来るかと思います。

さらっと書きましたが、実は今日のキーワードはこの中にあります。

そう、
「他人より得意な状態であるか」
というのは非常に重要なファクターです。

いくら好きであっても「他人の困っていることに貢献出来る」という専門性を持つレベルに達していなければ、マネタイズは出来ません。

つまり、
ある物事にがものすごく好きだとしても、それについて自分では再現出来ない価値があり、それが欲しいと思ってるくれるレベルになっていなければ対価を得るということには至れない
ということです。

※この「価値提供」に関する内容はこの記事でも詳しく触れております。

ここで、「置かれた場所に咲きなさい」に関する話に戻ります。

正直言ってしまうと、
一定の時間を使って、少しでも「これは出来そうかも、むしろ得意かも」という要素が見出せなければ、それは続けない方がいいということの暗示だと思った方が良いかもしれません。

どんな人であろうと個性はあるので人には向き不向き、適正や不適正が確実に存在します。

自分に向いていないなと思ったらそれは続けることを避けた方が良いです。

これにはいくつかの理由があります。
まずは、
•嫌いなことや苦手だなことをしばらく続けてみても好きになったり、得意になるという確率は相当低い。

例外はあるかもしれませんが、かなり確率でそうであろうと思います。
それもそのはずで、嫌いなことや苦手なことを続けるというのは、自己肯定感が低いようなネガティブな状態からスタートしており、そうなってくるとそもそも続けること自体が相当しんどいです。

それでも「お金のためだから仕方ない」と割り切れる人も中にはいるかもしれませんし、嫌いなことであろうと苦手であろうとを受け入れて頑張ろうとする人がいるという限りはその考え自体も否定するつもりはないのですが、個人的にはそれはウェルビーイングでもサスティナブルでもないと思いますし、努力として結構な困難が見込まれます。

なので、道理としては上記の逆もまた成り立つということになります。

•やっていることに少しでも興味があり、また得意になりそうな要素が少しでもあれば得意になる確率は高くなる。

当たり前のことかもしれませんが、「置かれた場所で咲きなさい」という言葉に対して、続けるか続けないかのジャッジの基準になってくるかと思います。

少しも興味が持てない、特になりそうな要素もないという状態が見えている中で、「置かれた場所で咲きなさい」という言葉に従う必然性はありません。

そのような状態でも無理矢理頑張るというのは心と体への拷問です。

ここでまた「そうでないと食っていけない時もあるでしょ」という意見が出てきそうですが、この意見には私は否定的です。

心と体を縛り付けてしまうような仕事とは距離を置くべきです。
(ここはあえてべきを使わせていただきました)

世の中には仕事はごまんとあります。
すぐに今とは違うことをやるのは難しいようであれば、今の会社と同じようなことをしている会社は他にもあるだろうし、完全に一致しなくても元々持っている能力で活かすことの出来る部分はあるかと思います。
他者に貢献を全くするつもりがないなどという極端な思想でも持っていなければ、誰しもがなんらかの形で仕事として貢献できることがあると思います。

方法論やアプローチは色々とあるとは思いますが、
一番大事なのは自分の心と体の健康です。
それがお金であるということ決してはありません。

幸せに生きるための手段としてお金を得ることはもちろん重要なことではありますが、本来の目的であるはずの幸せに生きることというのがお金を得るということのためにないがしろにされているのであれば、それはあってはいけない状態だと思います。

幸運にも、現在の日本において、大半の人が日々の食事に切羽詰まるような状況ではないと思います。

にもかかわらず、「置かれた場所で咲きなさい」という言葉に囚われて、無理をして心や身体悪くしてしまっては本末転倒です。

もしも、「置かれた場所で咲きなさい」という言葉を使うのであれば、
その仕事について本人が少しでも興味があり、得意になりそうな要素があるということをきちんとジャッジした上で、伝える必要がある
と思います。

めげそうになっている人に対して、この人はこうすればもっと出来るようになると思うし、今は少し辛いけれど、やる気もあるからなんとかしてあげたいと状況などでのアドバイスとして使うくらいに留めておくのが適切ではないでしょうか?
そうでない状態で使ってしまうのは、鬱状態になっている人に対して「頑張れ」と伝えるようなものです。

「あなたはここで咲くことが出来ると私は思いますよ」
というポジティブな意味で使われる言葉に変換していくのが良いのではないかというのが私の意見になります。

最後に、少しまとめると、
やはりこの2つは二元論で語られる内容ではなく、その時々の状況に応じて使う言葉だと思います。
また、
「〜しなさい」や「そうするべき」という意味で語られる言葉でもないと思います。

好きで頑張っているのであれば好きにやらせてあげて、そこで明らかに得意になる見込みがないのであれば本人にもその事実に気付かせるということも必要だと思いますし、
心と体に無理をして頑張っているのであれば、そこで頑張り続ける必要があるのかないのか?ということをきちんと話す必要があるとも思います。

いずれにせよ、個人としての仕事の継続していくか否かというのは誰かの判断に委ねてしまうものではありません。
自分が自分の責任を持って全て判断し、そして何より

自分自身が心地よくいられる状態を保つことに注力していきましょう!


今回は以上です。
長くなりましたが、ここまで読んでいただいた方に全力で感謝いたします。
また、前編•後編ともに読んでいただいた方には更なる感謝を申し上げます。
ではまたお会いしましょう。














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