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掌編:睡蓮は夢の中



コポコポと水から空気が出てくる音が、
耳の奥でしていた。
水槽の中の空気を運ぶ機械のような、
柔らかく一定に聞こえてくる音だ。

正確には、今聞こえているわけではない、
記憶の中の音が耳の奥からするのだった。

次に、嬉しそうに笑う若い女の子の顔が浮かぶ。
「あのね、こどもが出来たみたいなの」と誰かに告げる。
実際には誰だか知らないし、自分に話しかけているわけでも無いのに、夢で見たのかすら覚えていないその映像が鮮明に見えるのだ。
僕には彼女も居ないし、その女の子に会った記憶もなかった。

こんな風に、音や映像を感じるようになったのは、先週の日曜日に母が亡くなった後からだった。

母は僕がまだ小さい頃からずっと入院していて、叔母が母がわりだったから、母の死は実感が湧かなかった。

母はいつも病室で、猫の様に何もないどこか一点を見つめて、じっと静かにしていた。
弟になるはずだった子供が空にかえってしまってから、母の世界は彼女の内側だけになってしまった。

「ユキコはサトルが大好きなのよ。」ユキコは母の、サトルは僕の名前だ、母の見舞いに連れて行かれる度に叔母が言っていた。

虚な目をして、僕さえ見えない母。
たまに微笑むとき、僕を見てくれたならどんなに良かっただろう。

僕は、ずいぶん前に考えるのをやめた。
愛情表現も、返事も僕の目を見てくれることも、期待すればするだけ、虚しい気持ちになるから。


ミユキは久しぶりに日記を開いた。
妹のユキコが使っていたボールペンをそっと手に取る。

今日、サトルが知らない女性の姿が浮かんだり、音が聞こえると不思議そうに話してきた。
多分、ユキコの事だと思う。
あの時、三歳のサトルはどこまで見ていたのだろう。
サトルを守るのに必死で、ユキコを助けてあげられなかった。
サトルが、自分の足が不自由な本当の理由が何だったのか、記憶にないようで少し安心した。
あの日、ユキコとお腹の子の父親ササキの会話を聞いていたのだろうか。
サトルを寝かしつけてから、庭に戻ると夏の夜の庭の、プールに浅く張った水に浮かぶユキコを見つけた。その姿がまるで絵画のオフェーリアのようで、現実離れしていた。
何故?何が起きたの?思い出す度に苦しくて仕方がない。
失踪したササキは事故で亡くなって、真相は闇の中だ。ユキコももういなくなってしまった。

ユキコがもういないなんて、
信じたくない。


ユキコは病室の窓から差す光に目を細めた、安定期に入ったが体調が思わしくなくて、入院していたのだ。
お腹の中で赤ちゃんが動いている気がした。
嬉しくて、まあるくなってきたお腹をそっとさすった。サトルがお腹にいた頃を思い出して、早く会いたくなった。
今日もミユキが小さなサトルを連れて遊びにくるはず。さみしくさせてしまって申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

最近ミユキが、見慣れない大学生の男の子を連れてくる。わたしの息子と同じサトルという名前らしい。こんな風に大きくなるのかしら。
少し不機嫌な顔をする男の子、サトルも反抗期が来たらあんな顔をするのかもしれない。


fin

あとがき

イメージが急に浮かんで、書き溜めたお話です。
そのままに、置いてみることにします。
色々書くと野暮になるような気がして。
多くを語らず、三者の視点から当時と今とを垣間見るような感じにしました。
ミステリーなのかしら、ホラーなのかしら。
読んだ方からはどう見えるのかしら。
ドキドキ。
ここまで読んで下さった方、ありがとうございます!とっても嬉しいです♪


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