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自分とは相容れない思想を「それも自由」と受け入れるには覚悟が必要。
フルシチョフが自分の考えを変えていく過程が興味を引く、と、フルシチョフ「最後の遺言」のエピソードを引用しながらのコラムだった。
ばちばちの共産主義時代のソ連にいた人が、どういう風に心変わりをしていったのかも気になるけれど、「いまそれを悔いている」とまで言わせる変化の過程にはど鵜だったのか気になる。
引用されていた「フルシチョフ 最後の遺言」は上下巻セット。Amazonには在庫なし。図書館に行け
タイパ・コスパ重視で実行するのが正しいとは限らない。
そもそも不当な利益。という話にはならないんだろうか。
法律のことは詳しくないし、昔のコラムだから今は違うのかもしれないが「そうなのかもしれないが、それって人間としてどうなの?」と思った。
脅しやたかりで得た収入を団体の利益と認めた。
脅しに行く際の交通費などを利益をあげるための必要経費と認めた。
課税するときは必要経費を差し引いて課税した。
という話らしい。必要経費を差し引いて課税するのはわか
自由な発言を認めた結果、平穏が脅かされるのは許されるか。
言論の自由の行使には一定の制約があるように思う。
たとえば職場では、自由な発言を求められていたはずが、実際には発言内容が制限され、不穏な空気になってしまうシーンがよくある。
会議で、「愚案・珍案でも自由に発言してほしい」と求められながらも、実際に発言すると周囲の空気が重くなったり、非難されたりする。
雑談会で、主催者が期待する発言でないと場が盛り上がらず、話題さえ遮られてしまう。
こんな風
「定義だ」「次元だ」「単位だ」と厳密さばかりを求めても息が詰まっちゃう
「定義のはっきりしない言葉を使って悦に入るような輩は嫌いだ」
とは、わが師、Y山教授のセリフである。
厳密さが服を着て歩いているような人で、ちょっとでも厳密さを欠いた発言をすれば噛みつきそうな人であった。彼の師匠にあたるH口教授(?)もそういう人だったというから、血筋というものなんだろう。たぶん。
大学を卒業して20年。言葉の定義をあやふやにして夢を見させる文章を書いたり、添削して生きている身
業務上・業務外。ラインを知らないといい喰いものにされちゃいそう。
何かあったときに会社は守ってくれない。のは当たり前として…。
どこまでのラインなら会社が従業員を守らざるを得ないのかという知識は持っておきたい。
たとえば、業務内かどうか怪しいときに何かしらのきっかけで亡くなってしまったとき、会社を相手に苦労するのは家族だ。
葬儀だなんだでただでさえ忙しいのに、裁判だなんだで苦労を掛けるのは忍びない。
「業務外扱いになる」とわかっていても、断れないこともある
私に何かあってもお部屋の被害は最小限のはずです…!なんていう日がくるのかしら
数日、数週間、数年経過してからみつかる孤独死者の亡骸。大家にしてみればたまったもんじゃないだろうなぁ。
などと不謹慎なことを思ってしまった。
でも、この孤独死者、明日は我が身だったりする。
子どもはいるけれどシングルマザー。しっかり育てたわが子が独立したら、れっきとした単身高齢者予備軍なのだ。
「もう一度、結婚したら?」という人もある。「その方がいいのかも」と思う自分もある。
けれど、さすが
「大丈夫だ。安心しろ」と言われても。そんなにすぐには信じられない。
それが原因で手ひどい目にあったという体験談を知っている。裁判にもなった。裁判は長引いていて、仮に勝ったとしても受けた被害がもどってくるわけじゃない。
自分は大丈夫だろう。でも、自分の大切な人が被害にあうかもしれない。
そんな状況に置かれたら、誰しも自分の大切な人をその場からできるだけ離すという選択を取るだろう。
今日のコラムは複合汚染の話だった。単体ではなんてことのないものが環境によって絡み
人間を”数”で処理する自分に気づいたら、行いを振り返るときがきたと自覚しよう。
対象者全体に対して”たった”0.2%。
パーセントで考えるとすごく少なく感じてしまう。
無視しても大勢に影響はないようにも考えてしまう。
でも、たった0.2%の中身は生きた人間。一人ひとりの人格があり生活がある。
無視することで人権として認められている何かが侵害されるかもしれない。
そのことで生活に支障がでるのかもしれないと思い至れば、うかつになかったことにはできない。
しかし、傲慢さが前に出
自分の正義を証明できるなら、遅れてでも正義がほしい。
日常の些細なことであったとしても、自分の正義が不当に傷つけられたときの恨みはそうそう忘れられない。
それが、裁判になるような出来事だったらその屈辱はいかほどかと思う。
裁判に長く時間がかかるほどに、関係者の時間もうばわれていく。
最後に自分の正義が認められたとしても一種のむなしさが残るのかもしれない。
それでも、自分が受けた扱いは不当であったと、本当の正義は自分にこそあったのだと認めてほしい
見せしめの教育効果…なんと胡散臭いセリフかよ。
今日読んだ昔の天声人語、元ネタがよくわからなかったのだけど、物騒な話だった。
殺人があり、それを「我々がやった」と声明を出した組織があった。にもかかわらず、警察は動かず事情聴取さえも行われていないという。
「組織同士のもめごとであり、一般市民にはあまり関係ない」という説明があったかどうかは知らないけれど、人の生き死ににかかわるような犯罪があったというだけで心穏やかにはいられまい。
にも関わら
譲れない誇りと哲学をもっているか。
なろう小説の読みすぎといわれるかもしれないけれど、ルンペンというと「どうしても譲れないものがあって、それを守るために身を落とした人」というイメージがある。
今日読んだコラムの「ルンペンに”は”誇りと哲学がある。」という一文がすっと心に収まったのは、そういうイメージがあったからだろう。
コラムを読み終わってふと思った。私自身は誇りも哲学もなく、ただ金を稼ぐためだけに生きているような気がする。
心のよりどころをそれと言えないさみしさってあるよね。
今日読んだ昔の天声人語は、教会に逃げ込んだ過激派の少年が、反省のうえ自発的に警察に出頭した話だった。
少年二人を匿い、更生の道を開いた神父がいたそうで、レ・ミゼラブルのミリエル神父が重なった。
教会に逃げ込むという様式があったのは、神戸という場所柄なのかしら?
私は、クリスマスも祝うし、盆暮れ正月は日本式、ふらっとたちより祈りをささげるのは神社。何か格言がほしいときは聖書を読むという、熱心な
被害者よりも加害者優先、どうせ救われないのなら黙っていた方が得?
「どうせ、何したって無駄」というセリフを言いたくなる場面がある。
たとえば、自分より上の立ち位置の人とのトラブルに巻き込まれてしまったとき。自分より声が大きい人ともめてしまったとき。
救いの手を差し伸べてくれる機関や人がいることはわかっているものの、問題を大きくしたところで、どんなに周りが同情してくれたところで立場が弱いことに変わりはなし。
形だけの謝罪と場合によっては多少の金銭。それにプラ
白黒はっきりさせてしまうと痛い目をみることがあるよね。
白黒はっきりさせねばならない職業と言えば裁判官。
ニュースでみるばかりであまり日常という感じはしないけれど、普段の生活でも、もめごとの仲裁なんかでは裁判官よろしく白黒はっきりさせたうえで判決をくださなきゃいけないことがある。
「ちょっと相談にのってほしい」的なことならうやむやにして「がんばって」で終わるけれど、そうではないときは慎重に白黒はっきりさせねばならないので、なかなか神経をすり減らす。
文章を書く練習:人による人のための自然は自然といっていいのかしら
「おいしい空気をふんだんに吸う生活はGNPという数字の足しにはならないが、大気汚染の中の冷暖房完備より豊かさがあるのではないか。」
と、今日読んだ昔の天声人語にはあったけれど、「そうかなぁ?」と疑問に感じてしまった。
自然を身近に感じられる幸せがあるのは否定しないけれど、
天然そのままの自然が身近にあるのはすこし居心地が悪いんじゃないかな。
もともとは人が管理していた自然も管理する意義がなく