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「花、散りなばと」経覚という人、古市という場所について

 この小説は、室町時代の奈良を舞台にしています。
 主人公は、大乗院門跡の経覚きょうがく
 彼は摂関九条家の生まれで、関白の子です。

 当時の習いとして、十代から奈良興福寺に入り、わずか数年で大乗院門主、三十歳そこそこで興福寺別当(寺院のトップ)となりました。
 実質的な大和国の王であって、貴種ならではの出世コースです。
 その割に彼はかなり破天荒というか、自由闊達な性格だったように思われます。
 興福寺に何の縁もない天竺人の子孫を弟子に取るなど、そのすさまじい闘争心もあいまって、ちょっとヤスケを取り立てた織田信長を思わせるところもあります。

 大乗院は、一乗院と並び称される興福寺の塔頭たっちゅうです。
 今でも奈良の中心地に庭園が残っているほど、大きな勢力を誇っていました。
 古市胤仙ふるいちいんせんは、その大乗院に属する衆徒の筆頭格で、新興勢力ながら流通を抑え、大和でも指折りの武力を誇っていました。
 それに対する一乗院方衆徒の筆頭が、のちの戦国大名・筒井順慶で有名な筒井氏です。
 九条家が子弟を大乗院へ入れていたのと同じように、一乗院へは同じ摂関家の近衛家が門跡を送り込んでいました。
 京における公家同士の対立が、そのまま南都の寺院内部へ持ち込まれていたわけです。

 経覚は、六代将軍・足利義教よしのりの覚えもめでたく、信頼されていたものの、「金も人も出せ」という南都への過剰な要求があまりに度重なったため、一度だけその命令を拒否しました。
 するとたちまち、興福寺別当の立場を剝奪され、奈良から追放されてしまいました。
 さすがは足利義教、「恐怖の魔王」の面目躍如、といったところでしょうか。
 経覚はしばらく逼塞していましたが、「嘉吉の変」で義教が暗殺されると、自ら僧兵を率い、武力で無理やり興福寺別当に返り咲きます。
 そうして大乗院の利権を奪っていた筒井方に対し、政略と合戦の両面から、猛然と闘争を仕掛けてゆきます。
 既に五十歳に近付いていましたが、ここからの経覚の人生は、まさに戦いと流浪に明け暮れるものとなりました。
 古市氏ら大乗院方衆徒の武力を背景に大和を支配しますが、筒井方の逆襲にあい、興福寺のすぐ裏手に菊薗山きおんざん城を築いて立てこもります。
(ちなみにその丘が、今の奈良ホテルの敷地になっています)
 東山内ひがしさんない、という奥地に勢力を持つ筒井の兵力は膨大で、ついに陥落寸前まで追いつめられた経覚は、城を自焼じやきし、大切に書き継いでいた日記もほとんど失ってしまいます。
 奈良盆地の西の果て、葛城山の麓に身を潜めることになった元興福寺別当ですが、そこに救いの手を差し伸べた者がいました。
 またしても、古市胤仙です。
 南都からほど近い本貫の古市郷へ経覚を迎え、筒井との宿命的な戦いへ呼び戻そうとしたのです。
 当時既に老齢と言ってよかった経覚は、考え抜いた末、これに応じることにしました。
 この小説「花、散りなばと」は、その場面から始まっています。

 一つのエピソードとして、経覚は亡くなるまでずっと、足利義教の命日に供養を絶やさなかった、ということがあります。
 人がその理由を尋ねると、「恩人だから」と答えたといいます。
 自分を追放し、苦闘に明け暮れる後半生へ突き落したはずの「魔王」に、生涯恩を感じ続けていたというのです。
 あまりにも恐ろしい上役でありながら、その苛烈なまでの決断力と実行力には、内心敬服していたのかもしれません。
 そうして自分でも、目的を果たすためには、彼のようなやり方を取らなければならない、と考えていたふしがあります。
 経覚の激動の生涯を眺めていると、どうもそんな気がしてならないのです。

 胤仙も経覚も没した後、大和は京の勢力を巻き込んでの大戦乱時代へ突入してゆきます。
 古市はそのただ中で、筒井と死闘を演じた挙げ句、ほぼ滅亡させられることになってしまいました。
 そのため、戦国時代の大和にはほとんど登場しません。
 しかし、胤仙とその息子の胤栄いんえい澄胤ちょういんはいずれも魅力的な人物です。
 本編の主人公の経覚と合わせて、もっと歴史好きに知られてもいい、知ってもらいたい、という気持ちでこの小説を書きました。
 一人でも多くの方の目に触れれば、これ以上の幸せはありません。
 どうぞよろしくお願いします。

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