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発達障害と共産主義の関係について

 こんにちは、とまよこ りゃんシーです。
 自分の人生を振り返るのももう4回目なんですが、今回は少し長めに書いてみようかなぁと思ってます。まあ、短期記憶のキャパシティを超えるので支離滅裂になる可能性がかなり高いですが。それと、前の記事で書いた部分は適宜割愛します。
 僕は1992年7月に東京都立川市の病院で生まれました。母は40歳、父は48歳で、物心ついた時には父はすでに部長という地位でした。ちなみに父には前妻と子供がいますが、逃げられたようで今は連絡もまったく取れていないようです。僕は母にとっては初めての子供、父にとっては二人目ということになります。
 高齢だったので帝王切開でした。体重は3,000gを超え、かなり大きかったようです。僕を産んですぐに母が妊娠中毒症になり、僕は保育器のなかでずっと寝かされ続けていたようで、そのときに頭蓋骨が少々ひしゃげました。右側です。そう言えば最近知ったんですが帝王切開だと発達障害になりやすいらしいですね。
 退院後は両親と祖父母の4人で世話をしてもらっていたようです。国分寺市の新築一戸建てで、蝶よ花よと(?)育てられました。母は元々裕福な生まれで、服などは金に糸目をつけないタイプでした。父もお金が最もあった時期なので、僕や母に何でも買い与えていたようです。新築だったので物理的にもスペースに余裕がありましたし。ただ、僕個人はそこまで恩恵は受けていなかったと思います。もちろんお人形などは買ってもらえていましたが、まぁ一般家庭程度だと思います。何十体も買ってもらっただとか、高級なおもちゃとか、そういうものはなく、普通におもちゃ屋さんに売っているものを買ってもらっていましたね。ただ、キューティハニーやセーラームーンの玩具をけっこう買ってもらって、友達に羨ましがられたのは覚えています。何でもかんでもというほどではないにしろ、そこそこ買ってもらっていたかもしれません。でもやっぱり母の服ですね。母のはもちろん、子供用の服はなんかメチャクチャ買ってました。子供用のドレスとか。ただ、僕自身はまったく興味がなかったので、とくに嬉しくはありませんでしたね。買ってもらったからこそ興味がないという事も分かったとも言えますが。代わりに、車や汽車は好きでした。と言っても特別好きというほどではないですが。それと裁縫が好きで、人形の服を自分でよく作っていましたね。僕は腕の運動神経はあまり良くなくて、例えばボールを投げる動作みたいなものはとても苦手なのですが、手首までを固定して行う作業であればむしろけっこう得意です。ミシンとか小学生で使ってた気がする。
 食事については母が専業主婦だったので、そこそこ作ってもらえていたようなつもりだったんですが、今思うと全体的に量は少なかったかもしれません。やはり4人とも高齢ですから、必要量の半分くらいしか作ってもらえず、残りをお菓子でカバーしていたんじゃないかと思います。それに、どんどん母が更年期障害になってしまって、ほとんど冷凍食品なんて日も多かったです。小学校はほぼ毎朝冷凍食品だった。ただし、ヨーグルトは毎日食べていました。離乳食デビューの日に父がハマグリのお吸い物を食べさせたらしいんですが、それで物凄く下痢をして母に叱られたらしい。今でもハマグリを食べると下痢をする気がする。まぁ、滅多に食べないけど。そんな感じで、チョイスがどうしても古臭い。食事も全体的に和食が多くて、父も「カタカナの食べ物は食べない」と言っていましたからね。とはいえ懐石料理みたいなものではなく、炒め物とか鍋とか、そういう感じです。母は料理は早くてすぐに作るんですが、複雑な料理や手の込んだ料理は嫌いで、いわゆる丁寧なレシピみたいなものはほとんどありません。あってカツレツとか(衣をつけるのが複雑)。しかも料理そのものは好きではないらしく、あまりバリエーションも豊かではありませんでしたね。あと、かなり塩辛いと思います。まぁでも、それなりに食べれてはいたのでそこまで問題のある食生活ではなかったと思います。毎日塩辛い野菜炒め・・・的な。
 そういえば小学3年生くらいまでぽっちゃり太ってました。走る時に乳房が揺れるのが嫌ですごくがんばって痩せたんですが。やっぱり太ってるといじめられますしね。やっぱり、お菓子を食べてた量が尋常ではなかったとは思います。母もそういう管理はせず、食べたいだけ食べさせるほうでしたし。歯の磨き方、箸の持ち方なども一切教わりませんでしたので、歯を毎日磨きだしたのは大学生になってからでした。そういう基礎的な生活方法みたいなものを、僕は母から何も教わっていません。箸の持ち方はいまだに間違ってます。だからちゃんとそういうことを教えているお母さんを見ると羨ましいと思います。まぁ~厳しい親もそれはそれで嫌ですかね・・・。我が家は「厳しさ」とは無縁の家庭でした。良く言えば自由主義、悪く言えば甘やかしですが。例えばお金の管理など、すべて子供に任せていました。親がお年玉を管理するとか、そういうのは一切なかったです。銀行口座も中学に入ってすぐ作ってもらったのかな。放任主義とも言いますけど。そのわりに進路だけはめちゃくちゃ口を出された・・・。お菓子を食べる量とか、いわゆる「しつけ」のようなものをされたことは一切なし。刃物の管理も子供任せ。赤ちゃん言葉も使われたことがない。どうやら「最初から大人として育てる」という教育方針だったのか、自分たちが子供だった頃を忘れてしまったのか、子供の立場を想像できないのか知りませんが。やっぱり年を取ってからの子供はすごく可愛いとかそういうヤツなんでしょうか。一度中学生の時に真夏にコートを着ていて職質されたんですが、そのときかばんに父がくれたサバイバルナイフが入っていたんですね。それで銃刀法違反になって警察署に任意同行させられて、迎えに来た父も一言も叱らないわけです。それに警察署の人が驚いていたり。叱られる、ということはほとんどなかったと思います。ただ、母はいつも怒ってました。叱らないけど、不機嫌になる。そういう感じです。父と母には、40年以上培ってきた「世界」があるわけです。こうすればいい、こうするのが自分だ、というマイルールがある。僕はその「仲間」になっただけです。親に合わせ、親の真似をする。親のコピーをする。だから僕を変えるとか、僕を育てるということはなくて、「生き残りたきゃまねすれば?」という感じなんですよね。だから遊びとかも、かなり自由にやってました。近所のマンションの避難はしごを登って屋上に上るのがマイブームでしたね。大家さんに見つかるとすごい叱られる。あと、サルビアの蜜を吸うのは普通に子供ならみんなやってたかな? 母が怒るのは世間体が悪い時とか後始末をしなきゃいけない時だけなので、僕自身が何をするかという点では叱られたことはありません。元々父は子供を作るつもりがなく、新築の家にも子供部屋がありませんでした(なので僕は母の部屋を使って母はリビング兼和室(?)で寝ていたんですが・・・)。母が子供を欲しがったのは今思えば一種のステータスだったんですよね。「結婚して子供産まなきゃ女として一人前じゃない」とかよく言ってましたし。自分のステータスの為に子供産まないでほしいな。
 所で僕は家事の手伝いをした事がありません。させてもらえないんです。手伝いをしても怒られるばかりなので、辞めてしまいます。僕がやっていても、母に服の畳み方や食器の置き方にこだわりがあるので、その通りに動かないとダメなんですよね。それと衝動性もあるので、結局子供がやるのを待てずに仕事を横取りしてしまうんです。最近気付いたんですが、母はドリップコーヒーを淹れられないんですよ。先日インスタントコーヒーがなくてしかたなくドリップコーヒーを買ってきた母、「お湯を沸かして小さいフィルターに数回に分けてお湯を入れる」という行為がめんどくさすぎてできない。結局全部水を入れてはうすいコーヒーを出してダメにしてましたが…。だから子供が不器用な手で家事をするのを見守るとかいうのは無理なんですよね。結局それで、「ろくに家事の手伝いもしないで」と世間に怒られるのは僕。これをカサンドラ症候群って言うんでしょうか? 本当につらいんです。
 睡眠についてですが、生まれた時から入眠障害があったんです。赤ちゃんの頃は仕方がないと周りは諦めて、小学生の頃はゲームが楽しいからだとずっと思ってました。中学・高校になると遠い学校だったので朝が早く、入眠がすごく苦痛で、寝るまでに1~2時間は必要なんですよ。テストの前日は夕食後すぐに布団に入らないと、11時くらいには寝られないんですよね。ふだんは英語のCDを聴いたりヒーリングミュージックを聴いたりして、とにかく横になってなくちゃいけないのがすごく苦痛で、一人暮らしを始めてから「もう寝ようと努力しなくていいんだ」と思って全然寝なくなったのが僕が体を壊した最大の原因だと思います・・・。
 僕は父母と祖父母のなかでは、たぶん祖父に一番似ていると思います。祖母はすぐに亡くなったのでよく覚えていないのですが、ものっっすごく神経症だったそうです。それで他人に危害(不安から来る危害)を加えることもあるらしく(他人の行動を制限しようとするということです)父はそれが物凄くイヤだったそうです。そういう面はちょっと分かるなと思いました。僕もコロナが始まったとき、両親の温泉旅行を靴を隠したりして阻止しました。これは多分遺伝なんですね。不安で周りのこととかがどうでも良くなってしまうことがあります。パニックというやつですね。祖父と似ていると言ったのは、祖父の持っている本がなんとなく自分に共感するからです。祖父は小学校の教師で、定年退職後は野口英世についての本を中小規模の出版社から何冊か出版していたんですが、その考え方とかがすごく共感するんですよね。日本はこれからどうあるべきかとか、教育はどうであるべきかとか、そういう観点も共感するし、あと、人体が好きだったんです。なんて言うか研究家タイプだったんですよね。無口で一人で黙々とやっているところとかも似ていると思います。あと、詐欺に遭って死ぬまで恨み言を日記に書いてたのとかが完全に僕。うちの一族は基本、お人好しすぎるんですよ。発達障害も関係あるのかな。父はなんて言うか、反面教師なのか、もっと上昇志向が強くてあまり好きではありませんでした。リーダーに憧れるタイプだったので。母は、全く合いませんでした。どこにその血の影響があるんだろうってくらい違いますね。ただ、母も自己免疫疾患があるし、正直「発達障害」という面では一番母が強い気がするので、実は一番母に似ているという可能性もあります。母は自己愛性人格障害があるので、自閉症との見分けはなかなかつきにくい所なのですが。母はすごく口が悪くて、僕の口が悪いのはたぶんその影響だと思います。「~だろ」とか口調が悪いのではなく、語彙が醜悪なんですよね、ブスとかキチガイとか敵とか悪魔とか、傲慢とか偉そうにとか。「あんたみたいなブス」みたいな感じです。三流小説の悪役みたいな感じですかね。で、ずっとブスブスと言われ続けていたので、男になりたいと思った理由の一つにそれもあるのかなと思います。自閉症の原因として一時期「冷蔵庫マザー」という言葉が流行ったそうなのですが、自閉症の親は冷たいと言うよりは過干渉であることが多いと思います。自閉症には「自他境界障害」という、プライバシーの概念が理解できない障害があるので、親にも自閉症の傾向があると子供を私物化することが多いんですよね。冷たいと言うか、「支配しようとする」というのは正しいと思います。共感とかはしてもらえないわけです。そういう親だと余計子供の心の成長が遅れるんですよね。
 母の話は前の記事にも書いたんですが、やっぱり実家が高度経済成長期の建築業界という事で、多忙を極めてたんだと思います。お金はあるけど愛がなかった。そういう家庭で育ったんだろうということがいろいろ聞いていて分かりました。5人姉弟でしたからね。生まれた時から競争していたような家庭だったんだと思います。まぁ要するに母は負けん気がメチャクチャ強くて、すごく突っ張ってるんですよね。でもすごくナルシストで。家出して、東京で成功してやると言って東京に出てきたような人ですから。まあ要するにそうやってがむしゃらに暴れ回って生きてきたような人なので。同居するとまわりのダメージがやばすぎる。
 小学校低学年のときの遠足で、現地解散で親が迎えに来なければならないことがあったんです。でも母はちっとも迎えに来てくれなくて、「ああ、また放っておかれてる」「また約束破られてる」「また来てくれないんだ」って悲しみが膨れ上がって大泣きして先生たちが苦笑いしていたことがあるんですけど、その頃からもう母への信用はゼロだったんだなと今思います。
 僕が男性になりたかった理由として、「女性像」をイメージできなかったと言うのは大きいかもしれません。祖母は物心がつく頃に亡くなってしまうし、母は「女性」と言うよりは「いじわるばあさん」という感じで、将来なりたいタイプの人間ではなかった。小学校の女子もいじめっ子ばかりだったし、CMや再現ドラマや少女漫画に出てくるような「お母さん」というタイプの人種に触れたことがなくて。だから自分が女のまま大きくなるとどうなるのかという想像が全くつかなかったんですよ。逆に、父のようになるイメージはすごくつきました。父のような発明家になって、数学や物理に埋もれて過ごすイメージはすごく容易につきました。だから自然と自分のことを男として考えるようになっていたというのはあります。その父に女性蔑視の思想がありましたから、次第に自分の性に嫌悪感を抱いていったというのはわりと大きなところです。父のようになりたくて男になりたかったみたいなところはあると思います。
 要するに、父も母も「一般」とは少々違う人たちでした。僕は当時その「一般」がどういうものかは知らなかったわけですが、「一般に合わせてもいいことはない」という雰囲気が家族全体にありました。「プロになれ」というのが二人の口癖で、僕もかならずプロにならねばならないと思いました。サラリーマンになるなという意味ではなく、専門家になれという意味ですね。そして、専門家になって自分の好きなように生きろと。そういう自由主義なところがありました。だから僕も、周りと違う事自体は特に気に病んだりしませんでしたね。我が家はプロの一族なんだと。そういう誇りみたいなものもありましたし。
 今でもいちばん独特だったと思うのは、父と母はぜんぜん考え方が違ったんですよ。父はエンジニアで、「理科と物理こそ真理」みたいなところがあって、母はほら、『欲望という名の電車』という映画ご存じですか?あの主人公が完全に母そっくりなんですよ。感情があるのが人間であり、それこそが人間の素晴らしさだと考えているわけです。今思うとですね。父は「視覚優位型発達障害」で、母は「語学優位型発達障害」だったんじゃないかと僕は思うんです。二人はお互いを見下していましたし、喧嘩や否定やヘイトばかり言っていました。決してお互いに歩み寄ろうとはしない。けど、自分が「足りないもの」については自覚していて、それを補い合っている自覚はあったんです。だから仕方なく一緒にいる。僕は、夫婦に限らず人間というものはあまねくそういうものなのだとばかり思っていました。足りないものを補い合って組織を成立させる。愚痴を言いながらです。これはですね、今思えば完全に「共産主義」だったんですよ。僕の家は共産主義で完全に成立してしまっていたんです。そのことに気付くまで、30年以上掛かりましたよ。「愚痴が悪いことだ」という発想がなかったわけです。人間には理系と文系のどちらかしかいないと本気で思ってたんですよ。理系は国語ができない人、文系は理科ができない人。世界にはその2種類しかいなくて、それぞれが補い合って生きているのが当たり前で、ふたつとも出来る人が存在しているなんてまったく思っていませんでした。
 ちなみに母はゴリゴリの創価学会員で、父は心臓病の手術の際にキリスト教に入信していました。夫婦で宗教が違うと言うのも周りには理解されませんでした。でも、「信仰心がある」という点では共通していたんです。発達障害の夫婦と言うのは、そういうふうに、お互いのこだわりにはノータッチ(否定し合いながらも変えない)で、でも補い合う絶妙な距離感と言うものがあるんですよね。その人間関係の作り方は、ものすごく特殊なのだと僕は後から知ったんです。
 そもそも発達障害は宗教に入信しやすいと思うんですよ。つい最近「宗教二世」という言葉がすごく流行ってびっくりしたんですが、その件について「信仰は個人の自由」という意見があるんですが、僕はちょっと違うかなと思います。発達障害は、もちろん知的障害や学習障害がある場合は、現実を理解・把握できずに現実離れしたものを信じることはあると思いますが、ほかにもさきほど書いた「自他境界障害」は他人に流されやすい、つまり洗脳されやすいという性質があると思うし、いわゆるHSPのようなものからくる「特殊能力感」、つまり「神に選ばれた」という感覚(実際、HSPのことを「ギフテッド」と呼んでいましたよね)や、社会疎外感からくるアングラ感と言うか、「本当に正しい事は社会に認められていないものなのではないか」というマイノリティ至上主義、理解されないことから来る生きる上でのハンディキャップへの救いや希望への渇望、神はいると思わなければ説明がつかない格差、それと、発達障害特有の「普遍性を求める性質」と宗教はとても相性が良いわけですね。宗教は元々科学の派生ですから、色々なものに「理由」をつけて、普遍的な理論を仕立て上げるものです。そうすると自閉症は、人の感情がわからないぶんそういう「真理」に縋りやすいので、安心するわけです。「なんで」に理由が欲しい障害が自閉症なんだよな、と僕は思ってます。そういう諸々の理由から、たぶん発達障害は宗教に傾倒しやすいと思う。学問が好きなのと同じ理由です。一時期「自閉症はハイファンタジーを好む」っていう論文を漁っていたことがあるんですが、それも同じ事だと思います。世界観の構築が好きと言うか、しないと落ち着かないんですよね。健常者は心理を優先し発達障害は真理を優先するってワケですね。もっと言うと、仏教の言う「解脱」って、「発達障害になること」じゃないかとすら思ってました。「煩悩」(性欲や食欲ではなく、嫉妬や羞恥といった「自意識」による非効率的で不条理な心理)が少ないのが発達障害なので。まあ、承認欲求はあるんですが。
 で、もちろん小学校はそういう世界ではなかったわけです。嫌いな科目もちゃんと勉強しなければならないし、役割も「割り振り」ではなく「ローテーション」だし、いじめも競い合いも喧嘩もあって、「できる」と「できない」に色分けされる世界で。僕は「一人」では何もできないクズでした。先生にも叱られて、先生に叱られてる子はいじめてもいいみたいな暗黙のルールがあって、毎日バカにされていじめられて、どうやって死のうか、ということばかり考えていたと思います。そのときに救ってもらったのが、「とあるゲーム」とインターネットでした。
 2000年前後のインターネットで遊んでいた人というのは、やっぱり少ないと思います。お金があり、新しいものが好きな父は、最新の(Windows98ですね)パソコンを買いました。Yahoo!BBとも契約して、インターネット繋ぎ放題です。そもそもそういう家庭自体が、今思うと珍しかったですよね。覚えてますか?ジオシティーズにハーボット、webリングなどなど。それなりに機械に強い人しかネットをしていないので、掲示板も牧歌的で過ごしやすかった。僕は学校から帰るとずっとネットサーフィンをして過ごしていました。ゲームを公開してる人や、イラストを上げている人を見て、「僕もいつかこういうことがしたい」と強く思うようになりました。当時、当然SNSなどがないので、みんなホームページに趣向を凝らすんです。図書館を模したり、自然をイメージしたり。サイトごとにガラリと変わる雰囲気が僕は大好きでした。必死にHTMLを勉強して、ポチポチタグを打って、ジオシティーズで公開したりしていました。それが、僕の根源ですね。僕の通っていた小学校は地元の公立小学校ではなく、みんな遠くから通ってくるので、放課後にみんなで集まって遊ぶこともありません。だから学校の友達とインターネットの友達、僕の中でふたつの層が存在していました。しばらくするとMNSメッセンジャーなるものが登場して学校の友達ともチャットをするようになります。そうするとネットの友達と学校の友達が混ざり合って、学校の友達とネットの友達のコミケのサークルまで出かけるみたいなことになっていたわけです。でも今考えると、そんなふうにしているのは僕だけでしたね。ほかの友達から別の繋がりの友達を紹介されることはありませんでした。それは僕だけがそういうこと(ネットで友達作り)をしていたのか、それともほかの子はちゃんと立て分けていたのか・・・。今思えば、僕は「立て分ける」ということが苦手なので(自他境界障害です)、友達も自分もごちゃ混ぜにして遊ぶのが大好きで、いつか「人と人との橋渡しをする仕事がしたいな」とも考えていました。でもこれって迷惑な話ですよね。これは共産主義的な思考形態も影響していると思います。もちろんそういうことについて親から禁止令(いわゆる「パソ禁」と当時は呼ばれていたもの)が出たことは一度もありません。「友達」と呼べるかは分からないけれど、交流はとにかくたくさんありました。
 同人サイト巡りなんかもしていたし、OEKAKIBBSで絵を添削してもらったり、「人を描くのって楽しいね」で勉強したり…。絵を描くのが好きだったかどうかは定かではないですが、それなりに楽しくやっていたと思います。今全然描かないのってこれもしかしてうつ病? それで絵には少し自信があったので、ある時クラスメートが「クラスで一番絵が上手い子誰?」と聞かれてて、「当然僕!」と思ってたら別の子の名前挙げられて思わず「え……」って言ったら慰めてもらった事ある(笑)絵だけは負けないとでも思っていたんですかね…。まぁそれ以外勝てるものなかったしね…。そうか、勝つために描いてた可能性あるな。みんなと被らないジャンルが絵だったのかも知れないね。
 そういえば中学くらいになるとすでに「ネット小説」というものはありましたね。フォレストページ? というので携帯でホームページが作れるようになっていたようですが、僕は携帯は持っていなかったのでそちらは詳しくないです。あと、2ちゃんねるもまったく足を踏み入れませんでした。口が悪いし、ルールみたいなのがいっぱいあって、何が面白いかよく分からなくて。あと、「負け犬のたまり場」という印象は当時から強かったです。なので、「書き込んだら負け」というふうに思ってました。2ちゃんねるは言語優位型のアスペルガーの人たちが集まっているので、僕の居場所ではないですね。
 小学校のクラスメートが僕のことをどう思っていたかは定かではありません。今はもう誰に連絡しても返事が来ない状態です。だから、まあしぶしぶ付き合ってやってたということなのかもしれないです。性格の悪い子はいじめて、優しい子はしぶしぶ付き合ってたみたいなことかもしれません。僕は絵を描いてあげたり、貢いだり(笑)何かと都合が良かったのはあるかもしれません。すべて、家にお金があったおかげですね。あの頃の僕は、自分のことを「ピエロ」だと思っていました。何をしても笑われる。いじめられないためには、媚びるしかない。自分はクラスの「癒し」で、「捌け口」で、このクラスに「居させて頂いている」道化で、みんなより格が一段低いレベルの人間なんだと。連帯責任と言うものがあって、僕一人ができないと集団全員が付き合わされる。そのことでみんなに叱られる。僕は笑ってごまかす。殴られても、引っ掛かれても、そうやって周りを宥めて回るしかなかった。小学3年生の時に咽頭異常感症で精神科に行ったことがあります。このとき母は「子どもの心の病気」という本を買ってました。最近読んでみたけど、発達障害は重度なものしか書いていませんね。まぁ母がちゃんと読んだかどうかは定かではないですが・・・。自分としては心の病気じゃなくて喉の病気だと怒ってたのを覚えてます。
 あと、「短期記憶」というものを理科の授業で習ったとき、すぐに自分にはこれが少ないんだな、と分かりました。でも、それを表す病名があるとは全く考えませんでしたね。
 我が家には小説が一冊もなく、生まれてこの方両親が小説を読んでいるのを見たことはありません。あるとしても『人間革命』とかリーダーシップ術のようなものだけで。そもそも、テレビ番組も観ません。バラエティ番組にチャンネルが合うことがありません。見るのはサスペンスやミステリー、水戸黄門や八丁堀、鬼平といったたぐいの時代劇のみ。もちろんクラスメートとは話題が合わないけど、合わせようと思ったこともありませんでした。だからもちろん読書の習慣もないわけで、小学校の読書の授業が大嫌いであの手この手で回避していました。絵本とか、文字が多めの漫画などでやり過ごしては先生に叱られていました。発達障害が共感できる本やテレビ番組って、やっぱり少ないんですよね。僕が図書室にいるとツチノコでも発見したみたいにクラスメートが大騒ぎするのがちょっと面白かった。父は「漢字の違いがどうしても分からない」と公言していたので学習障害があると思います。僕も、「文字」を現実に想像することがとても苦手です。ADHDのせいで内容を忘れるのもありますが、"右から入ってきて椅子に座り…"と文字だけで説明されてもすぐにイメージできないのです。僕は、語彙を取り出す能力に障害があるんじゃないかと思ってます。専門的には「視覚優位型発達障害」と呼ぶのですが。だから自分のことを理系だと思っていたんですよね。あとはやっぱり読書感想文。発達障害は読書感想文が苦手というのは有名ですけど僕もその通りで、読んでも「ふーん」とか「よかった」とかしか書けない。あと教育学部附属小なので教育実習生がよく来るんですがその人たちに実習期間が終わるときにメッセージを書かなきゃいけないんですよ。そういうのがぜんぜん書けなくて「がんばれ」しか書きませんでした。今なら「このシーンは夏目漱石がイギリスに留学した際の体験を投影しており…」とか、「授業の際の活舌が…」とか書けるかもしれないけど、知識がないと書きようがないんですよね、発達障害って。
 ところでこの頃ドラマ「サトラレ」が放映されて、僕はすごくサトラレに憧れたんですよね。「サトラレ」って、「自分の考えていることが周りにバレて可哀想な人」っていうある意味トゥルーマンショー的なギャグ漫画という立ち位置なんですけど、僕にはそのコメディ性が全く理解できず、普通に「自分がサトラレならどんなに良いだろう」って思っていました。そうすれば差別されることもないし、誤解されることもないし、いじめられることもない。自分の辛さが簡単に伝えられるし、いっそ世の中全員サトラレになれば戦争はなくなるだろうって本気で思っていましたからね。側坐核の小さい人間の考えることなんてそんなもんです。
 そして「あるゲーム」ですが、ここでは「あるゲーム」としておきます。なぜならば、そのゲームが好きな人は沢山いるわけで、そういう人たちはそれぞれにそのゲームを愛しているので、僕の愛し方を否定するかもしれません。今回はそのゲームの良し悪しやなんたるかについてではなく、そのゲームが僕にどれだけ影響を与え、心の支えになったかというのが論点ですので、具体的な名前は伏せることにしました。まぁ読めばすぐ分かるんですが(笑)
 僕がそのゲームに出会った経緯なんですがちょっと曖昧で、記憶ではアニメから入ったような気がするんです。ゲームもやっていたかも知れないけど、そこまでのめり込みはしなかった。ところがアニメの作り方がすごく独特で。当時首藤さんという人と富岡さんという人がシナリオライターにいたわけですが、その二人の世界観が僕の価値観にものすごくマッチしたんですよ。首藤さんはもう他界されてるので最近は観てないので何とも言えないんですが、おそらく葛藤を描くのが得意なんですよね。ONEPIECEや神風怪盗ジャンヌなんかも当時流行ってた訳ですが、それらと同じように子供特有の「寂しさ」を癒す話を描くわけです。エモいって言うんでしょうか。富岡さんは個人的には彼自身が自閉症の傾向があるんだと思います。それで、ゲームの原作者にも自閉症の傾向があって欲しいと僕は考えています。ゲームのなかのオタク的な雰囲気と、富岡さんという脚本家の描く主人公の性格が物凄くマッチしていて、僕はどハマリしてしまった・・・というのが僕の記憶なのですが、母の話を聞くとすでにゲームの頃からハマってたとかあやふやです。とにかくなんと言うか、落ちこぼれの主人公がモンスターと一緒に旅をして、社会に認められていくというラノベ的なストーリーが大好きで、本当にそのアニメのおかげで自殺を思いとどまって、生きて行こうと僕は思ったわけです。そのアニメの主人公のように、旅に出れば、”蕾がいつか花開くようにユメは叶うもの”だと思っていて、完全に宗教でした。
 自分のことを男だと思ったのにも、その富岡さんが「男ってやつは一度決めたことは変えないんだよ」みたいなことを書いていて(今調べたんですが動画見つからなくてあやふやなんですけど、主人公の帽子が盗まれてそれを取り返す回で、ヒロインの女の子が「いいじゃん帽子なんてほかのでも~」と言ったときにタケs…登場人物が「男っていうのはこだわりがある(意訳)」みたいなことを言いまして)「ああ、こういうのって男の特徴なんだな。やっぱり僕は男かもしれないや」と思ったわけです。
 あと子供の頃の事件でよく覚えているのが、鉄棒をしていた女子の友達のスカートがめくれてパンツが見えたんですね。それで僕は「パンツみえたー!黒いチェックのパンツー!」と言ったら、その子が物凄く怒って、二度と口を利いてくれなくなったんです。そのとき、なぜ怒られてるかまったく分からなくて、「女心とかよく分からないし、もしかしたら自分は男なんじゃないだろうか」という意識がどんどん大きくなっていきました。ほかにも、女子に「好きな人いるの?」と言われても、「好きな人」というものがまったく分からない。前にも書いたように、こちらは共産主義的な性格でしたから、そもそも物事に「好き」と「嫌い」がないんですよね。人間に対して好き嫌いを作るのは失礼だという感覚なわけです。で、それが共産主義や自他境界障害から来ることも分かっていないわけですから、「好きな男の子がいない。やっぱり僕は男の子なんだろう」と思うようになっていく。男子が集まって遊んでいるのがうらやましい。あの中でなら僕は楽しく遊べるのかな。そんなことばかり考えていました。これからどんどん男女差が開いていく。みんなは声変わりするけど、自分はしないんだ。もっと胸が大きくなるんだ。それがいやで苦しくてしかたがなくて、からかわれることも多くなった。男女の班分けなどで、女子の班を嫌がって担任と大喧嘩。更衣室や修学旅行のお風呂などにも及び、完全に問題児。でも、確かにそういったこと、まったく親には伝わっていなかったみたいです。もちろん男女分けのことだけではありません。先生が怒っているところに「給食当番なのでもう行っていいですか」と言って火に油を注いだり、激昂して「もう学校に来るな」と言った先生の言葉を鵜呑みにして途中で家に帰ったり。とにかく先生にはよく怒られて。勉強もできなかったから余計怒られて。怒られるからどんどん勉強が嫌いになって。だんだん学校は先生と喧嘩する場所と化していって、保護者面談で「あなたのお子さんは中学校には来させないでください」と言われ、そこでようやく母が自分の子供が学校で浮いてることに気付く始末。しかしそこでも深刻にはならず、「あの学校は合わなかったね」で終わってしまいました。これが一般の市立小学校であればもっと問題視されていたかもしれません。でも小学校も独特だったので、僕は両親の言う事のほうが正しいんだと思ってしまいました。
 それで市立中学校に進むつもりだったのですが、母が受験を強要。「市立小学校に行ったらいじめられる」という主張でした。我が家は自分たちが「変わり者」である自覚はあるのです。だからこそ「プロ」になるために努力すべしと教えられてきた。だから母もなにか専門的なことを学べる中学に進ませるべきと考えたようです。それで美大附属中学と理系大学附属中学で悩んだのですが、美大附属は男子が少ない。僕は女子が苦手だったので、逆に理系の学校は女子が少ない。しかも、制服にスラックスがあるという点が決定的で、僕は理系の中高一貫校に進学しました。当然勉強はまるでしてこなかったので、偏差値は30の最低ランクの学校です。でも柔道部が強豪で、僕は当時柔道が好きだったので、わくわくしながら進学しました。つぎの学校では、僕は自分自身を曝け出すのはやめようと決意しました。「性転換」という方法があることはテレビで知りました。いつか必ず性転換する。それまでは無駄に騒がず、ひっそりと生きよう。そう決意しました。
 中学校では友達ができるかな、と内心期待していたのですが、偏差値30というものがこれほどまでに頭が悪いのかと愕然としました。自分だって偏差値30のくせに、周りの子のレベルの低さに驚いてしまいました。それもそのはず、僕は今まで偏差値70近くある小学校に行っていたわけです。偏差値70の小学校で落ちこぼれて、いじめられて、浮きまくって教師と喧嘩ばかりしていたせいで勉強嫌いになっていただけで、実際の偏差値見込み(?)は40前後はあったわけです。すると今度は偏差値30の子供たちとの会話はつまらなさすぎる。学校選び、またも失敗です。そもそもほとんど中学受験勉強をしていなかったのも問題でした。これなら市立中学校のほうがマシだったかも・・・と思いながらも、仕方なく通い続けました。彼らも発達障害があったのかどうかは、今となっては分かりません。
 そういえばクラスに一人、チック障害のある子がいました。僕は自分が「弱者」である自覚があったので、弱者の苦しみはある程度分かりますから、基本的に「いじめ」や「差別」はしません。でも、「逆差別」もしないし、慣れ合いや慰めはしません。自分から差別はしないけど、差別があることは受け入れる、そんな性格でした。その子はいじめられていたと言うか、イジられていたんですけど、僕はそれを助けようとはしなかった。だって、弱い者が虐められるのは当たり前だし、やられたら100倍返しでやり返せという生き方をしてきたので、仲良くする方法も知りませんでした。ただ、親近感はあったし、差別意識もなかったし、席順が近かったのでそこそこ仲は良かったし、よく喋っていたんです。ある時彼をよくイジっていた男子が、「お前はとまよことでも喋ってろよ」みたいに僕を巻き込んだいじめ(?)をしたんですね。僕もまあ浮いてたし変人扱いはされていたので。そのとき、その子に「そんなヤツほっといて僕と遊ぼうよ」と言うだけの「優しさ」が僕にはなくて、いじめはくだらないと思ってたし、相手にするのもバカバカしいと思って無視したんですよ。そしたらその数週間後にその子は学校を辞めてしまって、あの一件で傷ついたのかなと思って少し後悔しました。僕は、発達障害そのものと、そこから来るとげとげしい感情の二種類の生きづらさを抱えていたので、発達障害に理解があったり、同じ境遇の人や、助けてくれる人にも冷たく当たって嫌われたり、発達障害で相手の気持ちが分からないときもあるし、そういう冷酷な感情で相手の気持ちを踏みにじる時も確かにあって、だから他人からすれば嫌いなことに違いはないし、誤解で嫌われることもあれば、僕の性格を分かって嫌われることもありますし、それがごちゃごちゃな場合がとても多いです。就職という義務のないこの年齢の頃は、別にそれでいいと思ってましたし、嫌いならどうぞ嫌えば? と思ってました。そういう孤独な生き方を続けていたら過敏性腸症候群になり、副腎疲労になり、潰瘍性大腸炎になったのですから、憐れむべきは彼ではなく僕の方だったのかもしれません。
 この中学校の良い所は、理系であること。そして私立であったことです。本田秀夫さん(精神科医)の本にも書いてあったことですが、発達障害の子供は「一番できないもの」にレベルを合わせ、少々低いレベルの学校に通った方がラクだと書いてありました。僕は気づかずにそれをそのまま実践していたことになったのです。そのおかげで、勉強面で全くつまずかなくなりました。きめ細かい補習や何度も繰り返す授業で、分からないところがなくなりました。小学校で習うことも教えられたので、小学校の授業を聞いてなかった僕でも何とかなりました。一方その頃、小学校の頃の友達は、中学で高校レベルの授業を受けていたわけですが・・・。あの頃の友達が懐かしいと思うことは何度もありました。自分はもっとやれるな、という自信もつきましたし、あんな学校に入ってたのに出てきたのはもったいなかったとも思いました。頑張ればまた彼らに会えるかもしれない、彼らを見返すくらい勉強ができるようになるかもしれない・・・と思うようになりました。これについてはほとんど、ゲーム感覚だったと思います。自分が将来大成するとは思えませんでした。だから、悪どい手を使ってでもとにかく稼がなくてはならない、という意識はこの頃から芽生えてきます。真っ当に生きていたら食べていけない、と分かっていたんですよね。自分は普通の人よりコスパが悪いという自覚があって。だから「悪くならなければならない」とずっと考えていました。もちろん盗むとか詐欺をするという意味ではありません。「利用できるものはなんでも利用してやる」という感じです。だから学歴も利用してやろう。使えるものはなんでも使って、たくさん稼いで、のし上がって「勝ち組」になって、それでお手伝いさんを雇わないと僕は生きていけない。そういう「生き物」なんだ。そういう感覚は子供の頃から持ってました。今なら女性蔑視と言われますが、「男だったら奥さんが助けてくれるのにな」とも思ってました。この頃に、「グループホーム」の存在を知っていれば、そして発達障害の診断を受けていればと思うと悔やんでも悔やみきれません。この頃から、僕の人生はどんどんズレていったわけです。この頃、「障害者が羨ましい」と心のどこかでは思っていました。「自分も障害者だったら手厚い支援が受けられたのに」と。でも、そんなことを相談しても認めてくれるわけがない。なら、「少しハンデのある普通の人」として、人より何倍も努力するのが運命なんだと諦めてました。バカに生まれた運命だと諦めていました。そういう不貞腐れた感じが、余計周囲の反感を買い誤解を招くわけです。
 このころ、地域の集まりかなにかで、町の人に「得意な科目は何?」と聞かれたとき、「数学」と答えたんです。「数学好きなの?」と返されたから、「数学ならできる」と答えたんですよね。数学以外はできないけど、数学ならできると。そしたら「すごーい」と褒められて、イラッときたのを覚えてます。数学なんかできてもなんの得にもならないし、ほかのことは壊滅的なのにコイツらは何が羨ましいんだろうと腹立たしくなったんですよね。あの人たちは、僕の他の教科の点数がどれだけ悪いのかと言うことを想像できないんだなと思いました。あの人は言語優位型の発達障害とかだったのかな。
 ほかにも、「孤児だったら良いのに」とも思ってました。孤児として"かわいそうな子供"として優しくしてもらいたい。愛を貰って育ちたい。正しく子供で居させてもらいたい。自分の親よりも、親がいないほうがよっぽど幸福なのではないかと心のどこかで思い、それを懸命に否定しながら、「アフリカの子供よりマシなんだ」と自分に言い聞かせて生きていました。当時、「中二病」という言葉がありまして、「自分は特別なのではないか」と勘違いする思春期独特の思考を揶揄する風潮なのですが、これが一番いけなかった。「自分は障害者なんじゃないか」というのは、「きっと中二病だろう」とずっと考えていました。「自分はなんか人とは違う悲劇的な何かがある気がするけど、全部中二病のせいだろう」とずっと思って思考に蓋をしていました。実際、柔道部で落ちこぼれていた時に「悲劇のヒロイン気取り」とコーチに言われたことがあります。僕にとって、こういった怒られ方が一番傷つくんですよね。どうしようもなく悲しくなります。たぶん、自分自身本当にそういう側面があるからだと思います。図星の部分もあり、そのうえ、発達障害で本当にできない部分もある。その微妙な状態が説明できない。だからこういうふうに思われないために、とにかくマジメに生きなくては。努力してることを見せつけなくては。ぐうの音も出させないように結果を見せつけなくてはと、そんなふうにどんどん強迫的になっていってしまいました。親が守ってくれない分、僕は早く「大人」にならなければならない。そういう焦りが確かにあった。自分が自分の「中二病」を許せなかった。筋肉のついていない人間がバーベルを持ち上げるには、神経をフル回転させる必要があります。でもそれは本当の力ではないから、いつかすり切れてしまう。そんなふうに、ガソリンのない車で走り続けているような感じでした。子供が大人の服を着て歩いて、裾を一生懸命たくし上げて走っているような、そんな気持ちでした。実際、努力すればしただけ評価されたし、努力さえすれば良いと思ってた。今思えば、それらはすべて現実逃避していただけだったのですが。思えばその行為自体が中二病だったんです。現実から目を背けると言う。分からないことは沢山ありました。でも分からないことは無視しました。下らないものだとあざ笑いました。そうして自己肯定感を高めることでしか、自分の抱える疑問に答えが出なかった。自分が「障害者」などとは思わなかったから。分からないこと、できないことは色々あったけど、それにはきっと「いい面」もあるのだと、「才能の代償」なのだと、どんな差別も黙らせるほどの力を手に入れれば良いことなのだと信じて生きていました。人の否定的な目や現実を異常に怖がるようになって、「子供」としての自分に蓋をして浅い呼吸の中で生きていた。それが後々の酸欠に繋がっていったんだと思います。
 この頃、「とまさん(※なぜかクラスメートにずっと苗字さん付けで呼ばれていた僕)はドSだよね」と言われて驚愕したことがあります。「ドS」とは恐らく「厳しい」という意味だと思いますが。僕には他害思想はありませんし、自分ではメチャクチャ温和な人間だと思ってるし、実際今考えればやっぱりMなんですが、周囲には「S(きつい人)」に見えたんですね。自閉症の「表情の乏しさ」諸々もあるかもしれません。そのとき、周囲に誤解され、分かってもらえていないことは気付いていました。でも、それを説明する術がないわけです。それに反抗的な部分は実際持っていましたから、分かってもらえなくて寂しいと思いつつ受け入れていました。自閉症のせいで冷たく取られるから、冷たく当たられて、それに僕もやり返してしまうような感じで、悲しきモンスターみたいな感じです。まあ、小学校の時みたいに四六時中バカにされたり叱られるよりマシなので、敢えて誤解を解こうとしなかったのは確かなのですが。友達もあまりできませんでしたし、ここでもやっぱり浮いてしまってよくいじめられていたので、ナメられないようにという意図もあり、中高はずっと「ガリ勉」で通すことにしました。本当はこの時点で小学校のことをすっかり忘れてみんなとバカ騒ぎすれば良かったんですが、一度芽生えた社会や教師への恨みや反抗心がそれを許さなかったんですよね。それが失敗だったなと思ってます。それに、女だったというのもやっぱりあるわけです。みんなは男子じゃないですか。でも僕は女子だったから。思春期だから、からかわれたり避けられたりする。それが本当に悲しくて、性転換したら友達をいっぱい作ろうと思ってました。もしかしたらそれが原因で、話の合いそうな人はわざと避けていたかもしれません。
 中学生の頃、性転換手術の費用を貯めるために、学校にアルバイトの許可を求めたことがあります。返事はもちろんダメで、そのとき先生が「お金なんて、大人になれば幾らでも貯まるから」と言っていたのを今でも根に持ってる。そりゃあ私立中学の教師はさぞ給料が良いだろうよ。僕はそれを鵜呑みにして信じたけれど、結局あの言葉は嘘だったと言うことになりますね。僕はうすうす分かっていました。大人になってもきっと稼げる人間にはなれないと。だから子供の頃から節約ばかりして、中学からアフィリエイトをしたりして努力していたんですが、やっぱり想像通りの人生になったなあ。
 それでも何人かの友達は出来ました。友達には、今思うと二種類いたと思います。
 ひとつは「学芸出身」という僕の学歴(?)につられて、ステータスとして僕と仲良くなろうとする人。彼らはみんな成績優秀にもかかわらず、田舎暮らしのためにこの中学に進学してきた(※田舎のために私立中学校が少ない)、いわゆる出世欲と自尊心のあるタイプです。つまり、逃げてきた僕とはまったく逆のタイプですね。彼らを見ていると学芸の人たちを思い出しました。僕も、出世欲はないにしろ、彼らのように頭が良くなりたい、友達でいたい、変わりたいと思うようになり、よく話していました。今思うと、僕は彼らのような「頭の回転の速い人たち」に憧憬の念を抱いていたので、依存と言うか、理想化してしまっていたなと思ってます。僕は「自分と金のため」に勉強していたけれど、彼らは「賞賛と挑戦のため」に勉強していた部分があって、その辺りで将来的にすれ違いが起きてましたね。大学を退学する辺りからです。「学歴」と「商売」という観点で。
 もう一種類は、「変わり者」の人達です。と言っても全体的に理系の学校なので、「アキバ系オタク」は変わり者の部類には入りません(笑)。ここで言う変わり者は、もっと個性的な人たちのことです。もちろん個性的と言っても偏差値の低い学校のことですから、早大にいるような変人ほど個性の強いものではありません。ちょっと漫画が好きとか、ピアノをかじってるとかその程度です。小学校にいた人たちほどではありませんが、そういう人たちに慣れていた部分もありました(偏差値の高い学校に行ったことがない方は分からないかもしれませんが、頭のいい人は変人が多いのです・・・・)。僕は視覚優位型の発達障害でしたので、絵をよく描いていました。なので彼らの仲間だと思われてしまったようです。自閉症って、一見すると想像力のある子に見えるんですよね。「分からない」部分を想像で補っている。でもそれは「想像力」があるわけではない。しかも母の遺伝で歌がそこそこ歌えたので、それが僕のリターンになっていたと思います。しかし、僕が「ガリ勉」になるにつれて彼らとの交流はどんどん減っていきました。しかも、なぜかクラス替えで僕だけ一人ハブられるし・・・・先生恨む。とくに仲の良かったのは「トモさん」という人です。彼女はとても個性的な人で、彼女の考えるストーリーに絵をつけて遊んでいました。と言うか僕は小学校からそういうことばっかりやってます。
 そういえば、僕は小学生の頃、国語の成績が物凄く優秀だったんです。なんか四谷大塚ですごい高得点で家庭教師の人がびっくりしてたとか。あれが今考えても謎なんですよね…。僕の言語IQは80で、確かにほとんど意志を言葉にして伝えることができません。こうやって気持ちをまとめるのに30年掛かってるし、そもそもこの文章さえ真実に近いかどうか怪しいです。漢字はダメです。それは〇か×かですから自分でもダメなのは分かります。マトモに覚えた試しもないし。要約とか小論文とかそういうのもてんでダメです。そもそも、ディスレクシアと言うほどではないけれど、文章を読むのは苦手です。多分なんですけど、登場人物の気持ちがすごくよく分かったからなんじゃないかと思って。国語のテストって「この時の登場人物の気持ちを書きなさい」っていう問題が出るじゃないですか。多分なんですけど、そういうのを、「文章から」読み取って書いてるんじゃなくて、勘で想像して、似た自分の気持ちを書いてマルをもらってたんじゃないかな。葛藤とか苦しみとか、そういうのだけは普通の子よりたくさんしてきた自信がありますんで。あ、でも、センター試験で古文が自己採点でほぼ満点だったんですよね。なんか…うーん。「国語の能力そのもの」は無いハズなんですよ。中学から国語の授業なんか受けてないし。自閉症特有の言語学的な勘みたいなものがあるのかな。言語を機械的に捉えて導き出すみたいな。人工知能だって文章って書けるじゃないですか。むしろ人間より理路整然とした展開になったりして。「文章」そのものの読解力ではなく、「国語のテスト」独特の文体などの傾向や特性、正否の法則などを習得するような。そういう能力があるように思う。「機械学習」っぽい感じの。この頃、トモさんに誘われて学校説明会の手伝いに行ったんです。そこで保護者の人に「理系の学校だから、文系の授業は少ないですよね?」と言われたので「はい!もうぜんぜんないですよ!」と答えたら前に座ってた先生が振り向いてギロリと睨んできて怖かった。僕としては長所だと思ったから言ったのに…。てか実際全然ねえだろ。
「進路」についてはもちろん色々なことを考えました。幼稚園のときの卒園アルバムには「薬剤師」と書いてあります。これは父が「薬剤師なら食いっぱぐれない」と言ったからですね。周りはケーキ屋さんとかサッカー選手とか書いてるのに、僕は自閉症のせいでそういった「夢」をなかなか持たない子供でした。なので父の言ったものをそのまま書いたんだと思います。そもそも父は元々薬剤師になりたかったみたいですね。元々は化学肌だったようなのです。だから、化学嫌いで数学好きな僕とは今考えればかなり性格は違っていたんだと思います。当時は僕と父はまったく同じなんだと思っていたのですが、もしかすると父はエンジニアという仕事があまり向いてなかったのかも知れません・・・それか薬剤師に向いていないのかもしれませんが。父は色覚異常があり、化学部の大学受験に落ちたようです。
 小学校の頃は「ポケモンを作り出す」仕事がしたいと思ってました。ピカチュウは電気ウナギを改造すれば作れるんじゃないかとか、そういうことを考えてました。でも、それは無理だと分かってたので、6年生のときは「田尻智のようなゲームクリエーターになりたい」と言いました。結局その「軸」は今でも変わっていないと思います。中高のときは、本当に悩みました。なりたいものは決まっていたんです。エンタメ業界に進むんだと。「ポ〇モン」のような、子供たちに夢を与えるものを作り出すんだと。ポケモンへの恩返しがしたい。それだけは確実なことでした。ただ、自分がそういう「業界」に入るのは厳しいということも分かっていました。自分は会社員にはなれないだろう、というのは小学生のころから薄々気づいていたことで、ゲーム会社などに入れるだろうか、なかなか難しいかもしれない、という感覚はありました。「タクシュー」のようにヒット作を出せて、最初からプロデュースに回れるなら違うかも知れないけれど、僕は口が上手くないし、そうでないならやっぱり小規模で個人プレーをしたいなという思いの方が強かったです。だから、ゼロから自分でできて実力で勝負できる「漫画家」を選択しました。漫画家なら、のちにクロスメディアでゲーム化してもらえることもあるだろうし、いずれにしても原作を作れれば間口も広がる。そのうえ個人でできる仕事だし、しかもゲームのように軍資金が要らない。小説は当然書けないから漫画しかない。もうそれしかないと思いました。できれば就職したい。でも、たぶんダメだから、漫画家を目指そう。でも、もし仲間が見つかればその仲間たちで小さなプロダクションを作っても良いな。そういう感覚でした。結論から言えば、結局仲間は見つからなかったんですが。漫画なら、描けると思ったんです。ストーリー作りは理論だし、エンタメは理論だから。勉強すれば何とかなるんじゃないかと思っていました。
 僕は基本的には少年漫画が好きです。もちろん少年漫画と言っても様々ですから「少年漫画が好き」という言葉にはあまり意味がありませんが、どういうことかと言うと、「子供の気持ちに理解のある大人が登場する」ってところが好きなのかな。子供はいつだって大人に見られたい、一人の人間として扱ってもらいたい。子供には力がないから、自分の気持ちを叶えられない。だから子供にちゃんと向き合ってくれる大人が出てくるのは一種のカタルシスなんです。と、昔は思っていたわけですよ。でも、子供にも色々いて、普通の子は僕みたいに「怒り」を持っていなかったと最近気付きました。僕はとにかく大人に対して怒りとか、激情を抱いていて、それは発達障害を理解してもらえない不満もあったけど、結局発達障害から来る「こだわり」だったと今は分かります。あくまで例ですが、やりたいことがあっても、それを大人がダメと言ったとして、健常者の子供ならそこまで不満にならないんですよ。でも僕はそこで殺意まで抱く。大人に対する憎しみとか怒りとか、ばかにされてる悔しさとかもあるけど、とにかくそれをやってみたいんだ、と固執する。それじゃなきゃだめなんだという強い思いが、ほかの子より強かったんだなと今ならわかります。そのぶん少年漫画に対する憧れも強いという事だったのかなあ。
 それで進学先はかなり悩みました。正直、何を選択しても「漫画のネタ」にはなります。数学科などは憧れたけれど、漫画のネタにならないのでやめました。家政学科なんか行って自炊の勉強をしようかとも思いましたが、そんなことのために大学というカードを切るのも勿体ない。どうせなら普通に生きてたら絶対経験しないことをしたいと思いました。いや、もちろん最初は専門学校に行こうと思ったんですよ(webデザインとか音響とか服飾とか理容とか)。でも、父が「大学には行きなさい」と言うので。なら、せっかくなら行くかという感覚でした。大学に心から行きたいのに行けない人には本当に申し訳ないのですが、僕にとって大学は「漫画のネタを集めるところ」でしかなかったです。女のままで漫画家になるのは難しいと感じていました。生理と仕事を両立させるのは難しいと思ったんです。今思えば、僕は生理が重いほうだったんだと思います。それもたぶん発達障害からくるクロストークが弱いからなんでしょうね。子宮を取りたい理由は沢山ありましたけど、一番の理由はそれだと思います。
 高校を出たらもうすぐ二十歳になります。そうすれば、親の許可なしで性転換手術ができるようになる。それまでには是非独り立ちしておきたかった。母が悲しむので、母には黙って手術をするつもりでした。ちなみに父は「好きにしなさい」という感じでした。母は、今考えると男性に対する過剰な嫌悪があるんですよね。なので自分の「娘」が男になりたいと言って、汚されたような気持になったのではないでしょうか。僕ももっと強く出れば良いのですが、母の罵倒にも耐えられないので、家出して手術しようと思いました。
 それで色々な大学に出かけて、今度は本当にじっくり決めました。父と同じ物理学科。リベラルアーツ。美大。プロダクションを設立するうえでの経営学科。人間科学部。ゲーム理論の学べる演劇学科というのもあって、かなり惹かれました(たぶんロールプレイの勉強ができるんだと思います)。その結果、絵の勉強もできてゼネコンとか暴力団とか社会や都市とも関わりがあって漫画のネタとしても申し分なさそうな「建築学科」を選択したというわけです。この選択自体はわりと間違ってなかったと今も思っていますよ。今でも、やっぱり建築や都市デザインには胸が躍りますので。それに建物の絵が描けるようになっておけば、どうしても漫画家になれなかった時にプロアシスタントになれるかもと思ったんです。
「漫画家になりたいなら美大」という考え方はしませんでした。漫画は絵と言うよりは「記号」です。絵が「上手ければ」いいということではないと考えていました。大友克洋のような漫画家になりたいわけじゃない(まあその頃大友克洋の存在は知りませんでしたが)。少年サンデーやコロコロコミックに載るようなデフォルメされた見やすいマンガでいいんです。むしろ画力は、妨げになるとすら考えていました。当時は美大出身の漫画家というのはあまりいない印象があったんです。
 発達障害者は得てしてアメリカに憧れます。発達障害者は、「自分が生きづらいのは『空気を読む』ことを強制される日本が合わないからだ」と誰もが一度は考えます。そして、個々の個性を大切にする西洋や、とくにアメリカに憧れるんですよね。僕は中学三年生でオーストラリアにホームステイしたときに、この理論は間違いだと気づきました。やっぱり、向こうでも浮くんです。周りが苦笑し、困った顔をする。自分としてはもっと肯定してもらえるような気がしていて、「オーストラリアの人も『一般の市民』なんだな」と強く思ったのを覚えています。日本だろうが、アメリカだろうが、オーストラリアだろうが、そこまで人格に違いなんてないんです。日本では「言わない」「置き換えて伝える」、外国では「言う」「ジェスチャーで伝える」というコミュニケーションの方法が違うだけで、考えてることは変わらないんだなと悟って、海外留学への憧れとかはなくなりました。

 そんなこんなで京都の国立大学に進学しました。偏差値は60くらいだと思います。メチャクチャ必死に勉強して偏差値60なので、やっぱり地頭は45くらいかな。40くらいかも。と言うか定員割れしてた可能性もある。なぜ京都の大学を選んだかと言うと、ひとつにはやはり「社会不適合感覚」があって。東京でバリバリに働くのは怖かったんですね。で、時代に取り残された古代都市なら受け入れてくれるんじゃ? という思いはありました。実際はまったく逆だったんですが・・・。ただやっぱり古いものを見るとホッとするという面では良かったです。まあファンタジーのネタにしやすいっていうのが一番の理由ですが。
 その頃の僕は自分が変わり者という自覚はあったけど、それが良い物なのか悪いことなのかがまだよく分かっていませんでした。「どうしても出来ないこと」はやらずに、自己流でカバーして、それでも社会に認められるかどうか、少し不安な部分もありました。けど大学受験に成功したことですごく自信がついて、社会に受け入れてもらえたような感覚になったんです。「ああこれで、一生大丈夫だ。僕は間違ってなかったんだ」と、そんな安心感がありました。今思えば大間違いだったんですけどね。
 大学は、理系大学とも言い難く、芸術大学とも言い難い、なんとも奇妙な大学でした。授業はほとんど文系の授業です。歴史学やら宗教学やら心理学ばかり。曲がりなりにも「作家」を目指す僕には楽しくてしょうがなかった。元々計算が苦手なのもあって、「もしかして僕は文系なのでは?」という思いになりました。逆に物理の授業はつまらない。京都まで来て受けるものじゃないと思って受けるのをやめました。まったくついて行けなかったし、元々物理は苦手だった。特に同志社大学の「科学史・科学論」という授業が大好きで、宗教や科学、民俗学、心理学、つまり「人間」について学ぶのがすごく好きなんだと感じました。
 そして、母の言う「文系」が一般的な「文系」とは違うということも分かってきました。文系とは、学問です。母は「文系」ではなく、「人格障害」です。それは「心理学」という意味では文系かも知れませんが、母は心理学を知りたい訳ではなく、文学者のように研究するわけでもなく、ただ慰めてもらいたいだけの我儘な泣き虫を文系とは言わない。そういうことがよく分かりました。そして自分は理系と文系であれば文系であり、それは「理系ができないからしかたなく文系を選択した」という意味でもなく、歴史や文化学を理論的に研究することが好きな本質的な文系だと思いました。そして母の憧れる「クリエーター」と呼ばれる人種は文系ではなく、芸術系です。母の定義が間違っていたことに気付きました。まあ、僕の「文系」の定義が間違っている可能性もありますが、以下はそういう意味合いで使ってると思ってください。
 この頃の僕は一人暮らしを始めたこともあり、自分がすっかり「大人」の一員になれたと喜んでいました。もう、学校特有の肩身の狭い思いもしなくて済む。大人の世界はもっと自由で、多様性に溢れていて、ビジネスライクで、世間体や交友関係や気の遣い合いとは無縁の世界で、もっと競争的で、功利的で、はっきりものを伝えて、しっかりしている世界なんだと思っていました。だから、子供社会特有の慣れ合いやグループ、いじめなどとはもう無縁だと思っていたんですよね。それがすごく嬉しくて、一人で空回っていたと今では思います。現実は、大人のみんながみんなそうではないし、確かにそういう世界もあるけど、そういう世界に入れるほど僕は頭が良くないし、どちらが良いとか悪いとか、子供っぽいとか大人だとかそういうものでもないことが分かりました。
 周りからはやっぱり浮いていました。周りの子はどちらかと言うと芸術系が多い。むしろ理系っぽい子はぜんぜんいません。理系になりたい子は都市部に出るから。どうやら東京藝術大学の滑り止めという立ち位置らしく、藝大を落ちた子みたいなのがたくさんいました。言うなればトモさんの上位互換のような人たちで、話なんて合うはずがない。建築も安藤忠雄の作品ようなものを信仰する芸術系の教授が多く、ちょっと無理になって(こちとら工手学校出身なんだよ)、座学(しかも漫画のネタになりそうなやつ)だけ受けていました。あとの時間は映画を観たり漫画を描いたり。とにかく在学中にデビューしたかったので必死でした。インターネットの契約をするとネットサーフィンをしてしまうので、ネットを繋がずに過ごしました。メチャクチャ不便でしたけど、デビューするまでの辛抱だと思って頑張りました。そのせいで、ネットの友達とも音信不通になってしまい、完全に孤立してしまいましたが・・・。
 関西から東京に出てきて精神を病んだ人の話はよく聞いていました。話には聞いていたけれど、国内でそこまで文化が異なるということがあるはずないと思っていたんですけど、本当に違いますね。僕のような共産主義的な性格は、むしろ東京にいたほうがよかったんです。色々言うと差別になりそうなのでアレなんですが、関西はもっと個人のカラーを大切にするんですよね。まあ、商売人の町というだけあって、人間関係はもっとシビアでした。芸術文化が発展するのもうなずけると思いました。ひとつ、驚いたエピソードに、こういうのがあります。僕は漫研に所属したんですが(最初は軽音部に所属しようと思ってたんだけど、関西のノリがめんどくさくなってやめて、ネットの友達が漫研に入れと言ったので入りました)、そのときにジブリの同人誌に寄稿しないかと誘われたんですね。それで、「必要なら書きます」と答えたんです。そしたら、「いや、やりたい訳じゃないならいい」と言われて。僕はその時困ってしまって。と言うかショックだったんです。断られたくなかった。必要とされたかった。「同人誌」と言う概念がなかったんですよ。そもそも、「趣味」と言う概念も僕の中には存在していなかった。漫画を描くことを始め、「生きる」と言うことは誰かに必要とされ、指示されることであり、働くという事、すなわち生きるという事はやりたくない事をする事であって、肯定されることでもってお金になると思っていた。「やりたいことで稼ぐ」なんてこの世に存在しないと思ってたんです。でも、関西の人はそうじゃないんだ、って思いました。東京だと、「やりたくない」という名目で断るのは失礼だし、「ワガママ(空気を読まない)」と捉えられます。でも関西はそれで良いんだと。やりたくないと言っていいんだと思って、ちょっとびっくりしたし、悲しくなった思い出があります。だって、やりたいことなんてなかったから。やりたいことしかしたらダメなら、何もできないと思ってしまった。そんな理由で落とされるなら、社会のどこにも居場所がないと思ってしまった。向こうとしては思いやったつもりでも、僕からすれば「拒絶された」と感じたわけです。僕が発達障害と診断されたのにはひとつには関西だったからと言うのもあると思います。今更考えても仕方ないですが、もし東京のジェンダー外来だったら発達障害とは言われなかったのかなと思います。それで、発達障害と医者に言われて僕はすっかり落ち込んでしまって・・・。子供の頃に気持ちがすっかり戻ってしまったんです。いじめられていたあの頃にですね。大学も難しいところに行ってしまって授業もついて行けないし、周りからハブられるし友達はできないし、製図室の自分の机の上は汚されてるし、だいたい誰か座ってるからどいてとも言えないしで。講義室の変更とかも掲示されずに口伝えだったりして、発達障害には最悪の文化で。それですっかり落ちこぼれて落ち込んで、漫画家になることだけが望みだったところに性転換は許可できないと言われて。発達障害だから許可できないって。同意書は書けないと言われて。まず発達障害の診断をするから親を連れてこいと言われて。無理です。祖父は高齢だし父は他人に興味がないし母はヒステリーだし。発達障害から来る寂しさと、それを理解してもらえない苦しみのどちらも無視されてしまった。そもそも、どうしても「男性」になりたいとは思っていませんでした。本格的に男性になるには生涯に渡るホルモン治療が必要でお金も掛かるし、骨粗鬆症になるとか太るとか色々聞いていたし、もし完全な男性になって、それでも社会に受け入れられなかったらと思うと怖かった。「女性」という枠組みの中に居るのが嫌だっただけだから、「女性ではない」と伝えられれば充分でした。「認めてもらいたい、受け入れてもらいたい」という思いと、「きっと受け入れられないから、部外者でいたい」という二律背反の折衷案が、「乳房と子宮の切除」だったんです。子宮や乳房がなくなれば、恋愛の話を振られずに済むのではないか、「人間社会」から一歩離れた場所で安心して暮らせるのではないかと。でもそれは、「自分のアイデンティティ」ではなかった。その矛盾を精神科医に指摘された。指摘するだけ指摘して、その裏にある辛さを汲み取ってもらえなかった。元々ちょっと精神的に休みたくて浪人したいと言ったんですが親は許可してくれなくて、不安定なまま一人暮らしを始めてしまったのがいけなかったような気もします。その状態のまま二十歳を迎え、精神科を受診し、その不安定な部分を指摘された結果、心が完全に壊れてしまったんです。性転換だけが僕の心の支えみたいなところがあったので、糸がぷつりと切れてしまって。何もかもに自信がなくなってしまって、いよいよ社会に一歩も出られなくて。ノイローゼになってしまって、何が正しいかも分からなくて、毎日毎日泣いていました。一応惰性で授業とかも出てましたが、「漫画家になるんだ」という強い意志はなくなって、緩やかな自殺みたいになっていました。そのうち神経が擦り切れて副腎疲労症候群とか言う物凄くきつい病気になり、僕は刑務所で刑期を待つ囚人のような気分で過ごしていました。一応ダメ元で高校時代の友達に助けを求めたんですけど、やっぱり返事は来なくて。そりゃ、そうですよ。あの頃の僕は、勉強のためにすべてを犠牲にしていたんですから。自閉症でなければ、それで良かったんですけど、もちろんそこには自閉症の、コミュニケーションの取れなさもあって。一度、「自閉症だったみたい」とカミングアウトしたら、「開き直るな」と言われたことがありました。夢を叶えようとすればダメと言われ、助けを求めれば怒られる。じゃあどうすりゃいいんだよって、本当に腹が立ちました。親は事情も分からず留年ばかりする僕を叱りますし。大学はつらかった。孤独だった。「漫画のネタのため」なんていう動機で4年も費やすんじゃなかった。友達もできず、世界中を憎み続け、孤独で死にそうでした。どんどん漫画を描くことが苦痛でしかなくなってきて、何のためにやってるのか分からなくなってきて、結局筆を折ることにしました。

 それからはずっと闘病です。過敏性腸症候群から「SIFO」という病気になり、血糖や血圧のコントロールができず、睡眠が取れなくなっていましたので、ずっと動悸や頭痛や胸痛や生理痛に悩まされながら横になって安静にしていました。このあたりは、ほかのnoteに詳しく書いています。その状態が10年くらい続いたかな。「もう死ぬんじゃないか」というほどつらい日々が毎日続き、死への恐怖と社会への憎しみで毎日涙が止まらなくて、「このまま社会に殺されるんだ」とますます世界が憎くなりました。僕の中では、すっかり「男になるのは、諦めなければならない」「漫画家になるのは、諦めなければならない」「なぜなら俺は、発達障害だから」という論法になっておりまして、「じゃあ、これからどうするのか」ということばかり考えていました。世の中は、得意な事を補い合うような世界ではないと知りました。相手のために生きても、なんの得にもならないと気付きました。友達とは、メールを無視する存在なのだと分かりました。もちろん絶対にプロダクションを興すつもりだったわけではありません。でも、高校の友達とチームを結成したりできたら、幸せだろうと思っていた。でも、それは無理だった。「助け合おう」と言うのは、結局「助けろ」と同じことなんです。優しい世界ではないことを知りました。思えば僕は神様を信じていたような気がします。神様を、と言うよりは、世の中の公平さを信じていました。辛い事があれば、必ずいい事があるはず。そう信じて。働かざるもの食うべからずという言葉もあるように、働いていないうちは贅沢をしちゃいけない。デビューするまではとにかく頑張らなくちゃならないと思い込んでいた。わざと辛いことばかりしてきたような気がします。小学生の時、山登りの課外授業で、なだらかな道ときつい道があって、きつい道を選んだら先生に褒められたことがあったんです。つらい思いをすれば、そのぶん得るものが大きいんだと僕はずっとずっと信じ込んでいました。でも現実は違う。辛い思いをしても、体を壊すだけなんだと、壊しても誰も助けてくれないんだと、そして、自分は一人では何もできないと分かりました。それを「障害者」と呼ぶのだと、25年生きて初めて知ったのです。僕自身、助け合って生きていきたいという思いと、親も利用してでも生き残らなくてはならないという不安感がせめぎ合っていて、要するにキャラがブレブレだったんですよ。だから返事が来なくなったのかな、とは思います。救ってほしかった。でも救ってもらうためには、相手を傷つけるしかなかったんです。今までストレートに気持ちをぶつけて、それに応えてもらった経験がありませんから、どうしても本音と逆のことを言ってしまう。もうこれは病気だなと小学生の頃から思ってはいました。発達障害を理解されるために、本音と逆の行動をして余計誤解される、否定されたくて、救われたくて喧嘩を売る、それで理解してもらえなくて逆上する。そんな生き方が当たり前になってしまっていたわけです。今思えば、昔から「すごくおどけて本音を言う」か、「喧嘩腰で言う」しかしてこなかったように思う。本音をさらすとき、認めて欲しい時は、他人の名前を使っていました。絵を応募するとき、友達の名前で応募して、入選を僕に知らせてくれた事もあった(今思うとよく僕だって分かったな…)。男装然り、その心の「しこり」を誰かに取ってほしい、慰めて欲しいとずっと思いながら生きてきた。でも、金八先生は実在しない。神様も、助けてくれる人も、ドラえもんも現実にはいません。だから一人で解決しなくちゃならない。自分を見つめ直したくて、引き籠るようになりました。発達障害はとにかく周囲の影響を受けやすいので、静かに考える時間が必要でした。それで、自分の今後の人生と社会との関わり方についてずっと考えました。
 発達障害だと分かったとき、みんなが言うようにちょっとホッとするのです。今まで分かってもらえなかった辛さに気付いてもらえたような安心感があります。当時はそんな安心感よりも、社会から拒絶されたショックのほうがずっと強かったですが。障害者だからと言ってみんなが助けてくれるようになるわけではないので、世界は何も変わりませんでした。自分は障害者で、この世は資本主義で、助け合いは義務ではないと受け入れるのに10年。そして、自分自身が本当にやりたいことを探していきました。漫画はやっぱり、救いを求める手段としてやっていた部分もあります。みんなに必要とされていたからやっていた部分もあります。褒めてほしいからやっていた部分があります。自分がされたように、誰かを救いたくてやっていただけなんです。救うことで救われたかった。でも、みんなが無視するなら、僕も漫画にこだわる必要はないなと思ったんです。もしかしたら、そういう「弱さ」を見せるのが嫌だったからかもしれない。だからまず、歌を始めました。歌はずっと好きだったので、好きなことをしようと思いました。芸能事務所に所属できたのですが、潰瘍性大腸炎になり辞めることになりました。それに、歌はやっぱり趣味が良いなと思いました。だって本格的に勉強したことはありませんから。体力的に無理なのもあります。でも、これは前進でした。みんなが「ケーキ屋さん」とか「サッカー選手」になりたいと言う、幼稚園児レベルのことを、25歳で初めて自覚したことになります。僕はそこで初めて、「発達障害」というハンデ、あるいは呪いから抜け出して生きることができるようになったんです。
 そうして色々と考えるうちに、自分は「発信する」ことが好きなのだと気が付きました。作ることではなく、それを相手に分かるような形でまとめて知らせること。そういったことが得意だと気が付きました。要するに「広報」です。呼びかけたり、売り込んだり、宣伝したり、紹介したり。そういった形で、相手に新しいものを出会わせることが好き。これはゲームと通じる部分もあります。見る人をワクワクさせる物作りをするのがやっぱり好きだな、と思いました。だから、人と人の橋渡しが好きなんだと気付きました。出会いを作る仕事がしたい。「出会い作りゲーム」を作る、というのが僕の一番やりたい事だな、と気付きました。10年間考えましたよ。父も母も「クリエーター」だったので、形あるものを作ることがプロなのだとばかり思っていました。でも、作るだけでは売れない。それをデフォルメ・要約して、宣伝するというのもまたプロの仕事です。僕はそういう仕事がしたいと思いました。
 ネットの友達と同人サークルを作る前、どこかに所属しようと思っていろいろなサークルに顔を出していた時、聞かれたことがあります。「絵も描けない、文章も書けない、演技もできない、プログラミングもできない。じゃああなたは何ができるの?」と。その時、自分でも答えられなくて、「ただ口を出すだけの人は要らない」と言われ、それが無意識に心の中の棘になっていた。でも、その問いにやっと答えが出せます。「広報ならできます」と。僕の技能は趣味ではなく、職業にして初めて生きるものだったのです。
 男性には、結局なりたいです。「友達が欲しいから」という理由ではなく、ハゲでデブのオッサンになりたいという訳でもありません。早死にしたい訳でもありません。男性に憧れているというわけでもありません。今は男性に性転換したからと言って、社会から受け入れられて友達がすぐに100人もできるようなものではないことは分かっています。男性になっても、発達障害は発達障害です。発達障害は男性に多いから男性になりたいという理由でもありません。そんなゴチャゴチャした話ではなく、男性に共感することのほうが多いからです。着飾るより鍛える方が好きだからです。可愛い女の子にドキドキするからです。男性相手だとどうしても、「羨ましい」という感情が強くなってしまいます。自分のことを男だと思っていた時期が長いからというのもあると思います。でも昔のように、「性転換しなければどうやって生きればいいか分からない」と言うほどではありません。今は自分のことを生理の来るガイジだと思ってます。
 子供の頃の性格が治ったわけではないです。今でもふとしたときにものすごく寂しくなるし、冷たい対応をされると腹が立ちます。みんなで支え合う社会を夢見ることもあります。でも、それと同時に、自分は障害者で、価値のない人間だということも分かっています。かと言って昔のように世の中全員を敵視することはありません。母とは違い、助けてもらえればお礼だって言えますし、ミスをすれば謝ることだってできます。ふつうとは、もしかしたら順番が逆になってしまったかもしれないけど、今はバランスの取れた価値観を持てていると思います。それに、たくさんの「価値観」を経験したことは、僕の仕事ではすごく重要なことだと思っています。
 結局僕の人生は、発達障害とそれをとりまく時代の移り変わりをよく表しているんじゃないかなと思います。戦争で愚痴ばかりだった日本は、少しずつ文化を取り戻し、豊かになっていきました。その過程で、仕方なしに助け合う共産的な風土が、少しずつ幸せを追求する個人主義に移り変わっていく。僕はその過渡を、障害を持った身で体験していった。だから、相手や土地によって、僕という人間の扱いが変わる。ある所では障害者だし、あるところでは個性だった。これからはどうなるんでしょう。日本のお手本だと言われていたアメリカは、今やすっかり「ニューロダイバーシティー」、つまり「適材適所」を推奨しています。民主主義が、一周回ってまた共産主義になるのでしょうか?それとも日本はこのままアメリカを差し置いて経済大国として、「発達障害」を増やし続けるのでしょうか。僕は別にどちらでもかまいませんよ。感情ローテーションをするのもいいと思います。
 僕は、発達障害と健常者が共存するのは無理だと思っています。民主主義と共産主義をいっしょに行うのは無理ですよね? それと同じように、健常者が発達障害者を理解することは不可能なのです。民主主義社会においては、発達障害者はどこまでも「弱者」でしかないのです。

 ちなみにヘッダーのイラストは高校生の頃に描いた「私らしさ」という課題のイラストを先生が添削したものです。父が音響(機器)エンジニアだったので、子供の頃からマイクや録音が身近だったのでそれを表現しました。原本はこちらです。


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