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[1分小説] 藍|#癒えない傷とともに

雨は単調で物憂げな音をたてている。
この街の土曜日・・・の人通りは少ない。

部屋で男と別れて、先にホテルを出た。
鞄には、渡されたばかりの封筒が入っている。

「これまでありがとう」

男の放ったその言葉の意味を、伊織いおりは正しく理解して受け取った。手切れ金―。


タバコの煙を大きく吐く人だった。喫茶店で出会った時から、タバコを吸う姿が印象的だった。


大学に入学して2年目、同じキャンパスに通う女の子たちはあまりに子どもじみて、相変わらず親しくなれなかった。

講義が終われば大学の図書館へ。テスト期間で混んでいる時は、駅前の鄙びた喫茶店へ。
そして、そこで読書をする。それが伊織の日課だった。


夏休みを控えた前期末テスト中のことである。

課題の受付窓口である学務課へレポート提出をした帰り、彼女はいつも通り年季の入ったビルの2階にある喫茶店へ行った。

奥の窓際の席に、珍しく先客がいた。
背広を着た、40代半ばくらいの男だ。

「アメリカンください」

男に背を向け、伊織はいつもと同じ言葉をマスターに伝えた。
ゆっくりと指定席へ腰掛け、鞄からヘッセの
『車輪の下』を取り出す。

ページを捲る感触。コーヒーの香り。

ふいに訪れる静かで安心なひと時―。


ふいに、ガタ、と建付けの悪い椅子を引く音がした。足音が近づく。

「そこの学生さん?」

奥の席に座っていた男が話しかけてきた。
ほかに客はいない。

「そうですけど」


思えば、数か月前のたったこの一言が、
自分をここまで連れてきた。
それはまったく不思議なことである。


「商品開発に、大学生の意見が欲しいんだ」

そう頼まれて3度会ってから、
今日までに、3回肌を重ねた。

ホテルに誘われ、体を要求されるままに従った。
こちらの方が正確な表現かもしれない。

いつも喫茶店から数駅先の、海の近くのラブホテルへ連れ込まれた。


男の性格はあっさりとしていて、伊織はそこに好感を持っていた。
しかし、情事の密度はその逆・・・・・・・・・であった。
そんなものなのかもしれない、と今更になって彼女は思う。


「君の体は、セックスのために生まれたみたいな体だね」

はじめて抱かれたとき、男はそう言った。
すごく嫌だな、と思った。
それでも、その後またホテルに行ったのは、結局のところ自分も寂しかったのだろう。
誘ってきた男と同族だ。





雨の中を進む足が止まった。

伊織は自分の心の中を、水たまりでも覗き込むかのように眺めた。
そこに映る自分の姿を、憐れに思わずにいられない―。


ふと、鞄の中の封筒が脳裏をかすめる。

自分の存在なんて、1ヶ月後にはあの人の人生の中では「なかったこと」になっていのだろう。

切れ味の悪い刃物で傷つけられるように、
鈍い痛みが自分の中のどこかを突いた。


―お金なんて渡されなかったら、感じる痛みはもっと軽かっただろうか?

問うまでもない疑問を、しかし変えられない現実が、答えを出す途中で遮断した。


今感じているこの気持ちを、これ以上言葉でなぞることはしたくない。

―帰ろう。

夏の陽が落ちはじめた頃だった。藍色に染まる空は、あっというまに暗闇に飲まれていく―。


伊織が駅の改札へと足を向けた時、
改札から歩いてきた女性とぶつかった。


「あ...すみません」

咄嗟に謝った伊織の言葉を聞くが早いか、
女は前触れもためらいもなく、突然伊織に訊ねた。
「ねぇ、海はどこ?」

「え?」


戸惑う伊織にそう聞き返された相手の女性は、
けれどもむしろ、伊織の顔を見てたじろいだ。

「ちょっと、どうしたのよ?」

彼女の問いが、自分の頬を流れる涙を指しているのだと気づくまで、しばらく時間がかかった。



どんなに暗く深い感情も、誰かと分かち合えれば、そこには常に新たな色の深みが生まれる。

彼女たちの出会いも、またそんなものであった。


この先の話は、またいつかどこかで―。



≪[1分小説] 藍|#灼熱の悲しみに悶絶して


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