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「自分って何?」という問い

自己存在の意義を問うことは多くの人が通る道だと思います。
「自分って何?」という問いは人が存在意義に疑問を掻き立てる要素になり得ると考えています。

自己存在を問うことの裏には、現代社会の価値喪失が関与している側面もあると思います。物質的な豊かさが向上し続けているにも関わらず、人々の精神では無や虚しさがはびこっている。物質的な満たされ方とは裏腹に、精神的な虚無感が蔓延している状況こそが、この難問を生み出している主因と言えるのではないでしょうか。

加えて、死生観や人生の意味といった価値観に収まらない多様性が失われつつある点も見逃せない。存在の意味を見出すことは難しくとも、既成概念にとらわれず可能性を信じることはできるのではないでしょうか。

そもそも、この問いそのものが抽象的で哲学的過ぎるため、単なる行動変容では解決が難しいと私は考えています。そして、この問いを深追いし過ぎることにも弊害があり、思考の停滞だけでなく、精神疾患を招く可能性も否定できません。

つまり、人間における存在意義の追求には限界があり、自己の価値を永遠に定義づけることは不可能に近いと言えます。

物質的豊かさと精神的虚無感については、一つの考えとして、物質的豊かさの一定度合いのラインで人の精神的充足度が満たされる一方で、資本主義の中で多くの人々が生きる我々からすると、「満たされ過ぎ」という状態が生まれているのではないかと考えています。

業務は分業化され、一つ一つの自分の仕事に大枠としての価値が見い出せなくなり、高度な技術発展があってもそれが必ずしも多くの人を幸せにするものではなく、ニッチなニーズを多くの人がしのぎを削る状況が発生し、今目の前で行っている行動に対する「大義」が見いだせにくくなっているのではないかと考えています。

死生観と価値観の喪失についても割と近い考えで、私は「人は所詮動物であり、元来存在意義なんてものは存在せず、仮にあったとしても自己満足」として捉えています。近頃の医療の発展において、人の生きられる期間が絶対的に伸びていると捉えています。

生きる期間が伸びている割に、技術革新がとめどなく起こる現代社会においては、静かな時間を過ごして思考を巡らす時間が相対的に減ると考えており、必ずしも宗教やスピリチュアル的である必要はないと思いますが、少し落ち着いて自分なりの考えを自分なりに持つことが肝要と言えるのではないでしょうか。

ゆえに、そもそも論の話だとは思いますが、この問いの答えを見出そうとする姿勢自体が誤っているのではないでしょうか。

大切なことは、今この瞬間を生きる自分と、未来のありたい姿を想定し続けることだと考えています。自己変容の可能性を信じ、能動的に人生を切り開いていける姿勢が今この時この瞬間の「自分が目指している先に向けて努力している自分」を認識できるのではないでしょうか。

そして、より重要なのは、自己変容よりも自己受容、自己決定の大切さを理解することなのではないでしょうか。人は今まで生きてきた延長線で生きる場合が多い一方で、行動変容させた結果に正しい選択があるとも限りません。いつもと違う選択には、失敗の可能性も多く存在します。
でもそんな時だからこそ、「自分が決定した道は正しい」という確信を自分で持つこと、つまり自己受容と自己決定を意識した生き方をすることで、喪失感の少ない生き方ができるのではないでしょうか。

ただ、ここには一つの正解はなく、自分なりの人生の方向性を見出すことが重要だろうと考えます。人生における悩みや苦痛は避けられないですし、都度希望に満ちた未来を心の中で描き続ける努力を怠らないことが一つの考える策だと私は考えております。

「自分って何?」と考える前に、「自分はどうありたい?その為にどんなことをしてる?」にフォーカスすると、自己肯定のある前向きな人生を歩むことができるのではないでしょうか。

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