自己意識を持つことについてーー少しの考察

自己意識を持つことは実際にどういう意味を持つのだろうか。
自己意識に基づいて何かを書いていかないといけないのだろうか。
自己とはどういう存在なのだろう。その点について少し自分でも分からなくなることがある。
それが自分の問題として認識されうる時、複数の自己を持つことにはどのような意味があるのだろう。
分人主義的に自分を複数のチャンネルを持つ存在として使い分けていくことも可能性としてはあるけど、人間、そんな器用に複数の顔を使い回せるのだろうかと思う時はある。
多重人格とその分人主義的な思考との間で、リンクをしっかり書いてくれているのは、野間俊一さんの次の記事である。

そこでは、分人主義においては、〈私〉というものは破砕されず、複数の自分を使い分ける〈私〉というものは存在すると書いている。
平野啓一郎さん自身は、複数の分人がそれぞれ「本当の私」だと語っているところから※、この両者の間で必ずしも同じ見解を分人に対して持っているかというとそうではないように思うが、そこで解離と分人の違いについて上の記事は確かに分析をしている。
(※この点については、次を見てもらうと、そのように書いてあることが読み取れると思う。https://dividualism.k-hirano.com/

念のため、引用すると次のように書いてある。

自分を無二の〈個人(individual)〉と捉えるとそのあるべき像に圧倒されるが、実際は複数の〈分人(dividual)〉を生きているはずだというのが、平野氏の説く「分人主義」です。
分人の姿は精神疾患である多重人格(解離性同一性障害)を連想させますが、多重人格では個々の人格の主体としての〈私〉が解離され分断されてしまう点において、あくまで〈私〉の同一性が保たれている分人主義とは異なります。分断された複数の〈私〉がそれぞれの人物像をもつ多重人格こそが、戯画的に個人主義に呪縛されているのです。
そのように考えると、いくつかの精神疾患は「分人化不全」として理解できそうです。近代的自我としての〈私〉の成立と現代の精神疾患の構造とは、なんらかの関係があるのかもしれません。

野間俊一 「空白に存在の原点を問う」https://k-hirano.com/hirano20th/2355
(最終アクセス日:2023.05.27) 

このように分人と解離との関係性について考えてくれているのが上記の文章になる。〈私〉の同一性とはどういうものか。
それは、「本当の私」はそれぞれの分人であると語ることとどのように関係しているのか。
確かにそこで分人と解離の関係性について語ることができるということはあるけれど、ここで自分の症状、意識の解離症状があるなかで、その自分が自分の望んだアイデンティティで語ることができるにはどうしたら良いかという問題がある。
自分の意識というものはどこに宿っているのか。どこに自分の意識の解離地点はあるのか。
その問題について私は言語化していくことができるのではないだろうか。

このところ、自分の存在について考えるなかで、規範との関係性について考えることがある。
そこで自分のなかの意識の「混じり合い」について言葉にすることができることができるかもしれないが、それはどのように言語化できるだろうか。
その自分の意識の「混じり合い」は、確かに解離的症状として考えることができるものである可能性が高いのだが、その症状があったとしても社会生活をきちんと送ることができるようになるのかという問題があると思われる。
社会生活をどう送るかという問題のなかで、規範との関係性について思考することはどのような意味があるのだろうか。
確かに自分の場合、一応、シスジェンダーの男性だという気がする。
それは、自分の場合、身体的には男性であって、また女性羨望はあるものの、それはガイネセクシュアルやジノセクシュアルと言えるものであって、女性的形態に対する偏愛のようなもので、自分自身は男性の規範に合わせないと、自分に女性を投影されてしまうことになるのではないかという気がする。
確かに自分の身体については女性のような身体になることを目指しているところはあるけれど、女性としてパスすること自体は目指していないように思う。
ただジェンダーレス的になることについては目指しているところもないところもない。
ただそれもすごく強いわけではないし、自分と会った人は自分のことを男性としてしか見なさないだろう。
自分が客観的に男性であることを踏まえると、そこで自分は男性の規範に合わせて話す方が相手にとっても良いのかもしれないと思うところがあった。

思ったことを言語化することは難しいし、そこでどのようにして自分の言葉を書いていくかは難しいところはあるかもしれない。
自分がアイデンティティの問題を確かに一つのものとして捉えることをするなら、そこで「言いたいこと」がある程度、一つになる、そして、複数のアイデンティティが一つの言葉のユニットのなかに入ってこないという問題になるし、そこで自分の問題がある程度、緩和されることがあるのかもしれない。
そうした問題があるなかで、「分割された意識」を生きる自分は何を言葉から行うことができるのかという問題はあるのだと思われる。

そこで「分割された意識」があることを踏まえたうえで、その問題をどう自分のものとして生きることができるのか。
それは確かに踏まえなければいけないのではないか。

その意識の複数性の問題、それは確かに自分で踏まえないといけないだろう。

意識が複数であることをどう認識することができるのだろうか。
自分のフェーズを一つのものとして切り出すことはどのようにしてできるのだろうか。

確かに複数のフェーズが一つの文章のなかに紛れ込むことはあったのだと思う。
それは事実としてあることのように思うけれど、そのことに対してどうすれば良いのかそれは自分でも分からなかったことである。
自分のなかで意識がそのように複数化されていることを踏まえたうえで、何を今後の自分のこととしてできるのだろうかという問題はある。
確かに自分の解離的複数性の問題はあるだろうけれど、そのなかで自分のなかでしっかり文章を書くことがどのようにしてできるようになるのか、それは課題として引き受けなければならないが、それは実際に何を今後の自分としてすることができるのかという課題とも結びついている。
確かに複数的な自己の問題があったとしても、そのことによって過度に自分が影響を受けることなく、どうしたら意思疎通がテキストを書くことによって行うことができるようになるのかという問題もまたそこに接続していく問題としてあるように思う。
その問題は実際にはあるのかないのか、それは客観的にどうなのかというところは分からないところもある。
それはただ実際に自分のこの客観的な現れについて確かに解離という言葉を使って良いのかということはかなり迷うのだけど、そう言葉を使わないと説明できないこともあると思って使っている。
そうしたことがあるなかで、自分の言葉がどのように発することができるものなのかというところについても迷いはある。

このような仕方で自分の言葉を発していって良いのか、という問題がある。確かに自分には自分の言葉をこうした仕方でしか発せないという仕方に最終的にはしていくことはできると思われる。
それは意識の自己触発に従って書いていくことなのではないかと思う。
それは自己触発の問題としてあると思われるが、その自己触発の問題をどう私は個人として認識すべきなのか。

その問題について考えている。

そして、自分は解離とは直接関係がないかもしれないけど、恩田陸さんの『麦の海に沈む果実』のなかで、そのヒロインが陥った状況もそこに接続させて考えることができるのではないかと思っている。(そこには「過去の自分」と「現在の自分」をどう接続させるかという問題があるからだ。)

そうしたことがある。そのことがあるなかで、何が今後の自分にとってできることなのか。
その問題を考えたい。
その複数の自分の問題、またジェンダーの問題、そうしたことを思索として自分は展開しているけれど、それはどう社会に対して役に立つものになるのか。その点を考えたい。

そんなところで、今日の日記については閉じたい。

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