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論理的に伝えるコツは思いやり。メッセージの「やばい」を封印する

好きなこと、ついやっちゃうことは何ですか?

うーん車のナンバープレートの数字を適当に掛け算や足し算して暗算するのはのんびり歩いてる時についやっちゃいますね〜

それが回答でよく使うネタだったのだが、最近は「答えのないことを考えること」かなあと思っている。

ふと考えることはいつでもどこでも誰にだってあるもので、「今度買い物行く時ケチャップ買っとかないと」「エアコンのスイッチ切ったっけ?」「仕事の資料の案、どうしよ」などあるが、意外と「ふと思い出したタスク」「やらないといけないことを思い出して憂鬱になる」であることも多いのかなと思う。

私がついやってしまう「考えること」とは、そんな「しないといけない」ことではなく、「別に強要されていなければすぐに何かの役に立つとかではないが、何となく自分の中で疑問に思ったことに対して自分で納得する答えを出すこと」だ。

哲学な日々

そして「そもそも考えることって何だろう?」「考え方って何だろう?」と疑問を持った私がヒントになりそうだと手にとったのが、哲学者の本だった。
哲学を高校〜大学で単位取得のために少しかじった程度で深くは語ることのできない私でも、日記を読んでいるかのようにするすると読めたのが野矢茂樹 著の「哲学な日々」

哲学の思想に基づいて教えを授けるのではなく、哲学者としての彼の考え方や哲学の道に進むまでの人生を冗談まじりに綴っているような感じだ。

本の中の最初半分は、1項目が2ページで完結するのでまさに人の日記を覗き読みするような感覚で寝る前の読書にもってこいだった。

このnoteでは、本の中で特に印象に残った「論理的」の定義やその必要性について残しておこう。

なぜ論理的でなければいけないのか?

そもそも「論理的である」ということを、野矢さんはこう定義している。

言葉を断片的にではなく、関係づけて捉えること。
この言葉とこの言葉はどういう関係にあるのか、それが的確に理解でき、きちんと関係づけられた言葉を使えること。

野矢茂樹 著 「哲学な日々」

それは正しく接続詞を用いて文章を作れることだったり、問われた質問に対してそれを的確に理解して回答することだったりする。

ではなぜ論理的でないといけないのか?
野矢さんは本の中でこのように書いている。

論理的ではない人は仲間内の言葉しか話せない。
仲間内の言葉しか話せないと、「よそ者」を単純に切り捨てて排除することになる。

知識や考え方をあまり共有していない外部に向けて発信できる強靭な言葉をもたなければいけない。だからこそ論理が必要なのだ。

野矢茂樹 著 「哲学な日々」

私が理解した範囲だと、一つあるのは前提条件を言語化せずに「何となくみんな言わなくても理解してるよね」という雰囲気に甘えて会話をしてしまうことかなと思う。

例えば、以前会った出来事を例に出してみる。
旦那さん、彼の同僚数名と私で居酒屋で飲んでいた時のこと。
(*同僚の方とは仲良くしていただいていて、お世辞抜きに良い人ばかりで居心地が良いので平均すると3~4か月に一度のペースで飲みに誘っていただいている、ありがたい...)

彼の仕事の業種も職種も私のそれとは全く異なる。そのため説明してもらってもいまいち自分の言葉で言い直せるほど未だ落とし込めていない...

とある日、仕事終わりに合流して居酒屋へ行った時のこと。
旦那さんの同僚が仕事のプロジェクトについて話題を出した。
プロジェクトのある地名やプロジェクトで苦戦していることなど...

その時間は席に着いたと同時に注文したアルコールを待つまでのほんの1~2分だったが、私には何が何だかさっぱりだった。
「全然何のことを話しているか分からないので話さないでほしい」なんて全く思わないし、むしろ家では仕事のことを話さないので「仕事モード」がまだ抜けていないみんなの空気を味わうことができて嬉しいくらいだった。

しかし、この状況が日常生活のいろんな人との間で行われていたらどうだろう。
単語1つ、地名1つ、人名、そんな数単語と「大変だよね〜」の形容詞だけで成り立ってしまう会話が当たり前であり、取りこぼされた人がそのままになってしまっていたら、それは野矢さんが本の中で語っている、「よそ者を切り捨てて排除している状態」である。

本の別の項目の話題になるが、野矢さんが論理的な文章の書き方について述べている箇所がある。

自分が分かっていることを、それを分かっていない人の視線で見つめながら、書かなければいけない。

論理があなたの中に根づき、育つかどうかは、そんな他者への感受性と他者を思う想像力にかかっている。

野矢茂樹 著 「哲学な日々」

相手の立場になり、事前情報のない状態で自分の説明を自分が理解しているのと同じ解像度で分かってもらえるか。
その視点は、文章を書く時だけでなく、会話でも大切だなと思う。

「論理的に」なんて言われると、真面目に、かしこまって、難しく考えないといけないと思ってしまうが(私の場合)、その根底にあるのは「相手に自分の考え・思いをどうしたら分かってもらえるか」という思いやりだったのだ。

語学としての国語

おいしいものを食べても「やばい」、まずいものを食べても「やばい」。この言語運用能力はかなりやばいのではないか。

いまの小学生や中学生は、人間関係にものすごく気を遣うという。コミュニケーションでも、その場の空気を読まなければいけない。
他方、論理的で明晰な言葉遣いはかえって空気を壊しかねない。だから、半疑問系?みたいな、断定を避ける言い方とか、しちゃったりする。

野矢茂樹 著 「哲学な日々」

「語学としての国語」という項目名にも惹かれて、文章に線を引いたりメモをしながら夢中で読んだ。
自分もまさに人からどうジャッジされているか、嫌われてないか、目立っていないかが行動基準になっていた中学校時代に半疑問系みたいな文章?を使っていた。

「〜みたいな?」「〜的な?」をとにかくつけることで、言い切らなくても何となく言いたいことが伝わっている気がするし、何より相手と考えや意思が万が一違っていても自分が傷つかずにすむ。

そうだ、当時は相手との考えの不一致にすごく恐れていたし、同じ生活・行動をする人は同じ考えを共有しないといけないのでそこからズレてはいけないと必死になっていたのだ。

同じようにありとあらゆる感想を「やばい」と表現していたが、それを矯正し始めたのは高校を卒業して、大学留学するために勉強している時だった。
英語でのスピーチやエッセイを自力で行えるようになるために、留学準備の学校で先生に指導いただいていた時。

特にエッセイの添削では赤ペンでの修正箇所まみれだった。
Wordで3〜5ページのエッセイを書くと、1回目の仮提出(添削のための提出)で1文ごとに文法・表現の何かで修正が入っているほどだった。

「クラシックバレエの先生は怖かった」と書けば、「どんな点が怖いと思ったの?」
「コンビニのスイーツは美味しい」と書けば、「どんなスイーツがあるの?」「どうして美味しいと思うの?」「スーパーや洋菓子店で買うのとどう違うの?」といろんな角度で質問が飛んできた。

その度にうーーーーーーーん................(3時間経過)

と頭をひねりにひねりまくりながら文章を修正していった。

先生からの質問はいろいろだったが、その大半に共通していたのは「もっと具体的に、もっと読み手が文章を画像や動画でイメージでき、作者の意見に納得できるように」だった。

いろんなトピックでエッセイを書き続けるうちに、具体さを意識して書くことができるようになり、最終提出までの赤ペン修正の量は格段に減った。

相手が納得するだけの具体性はあるか?

赤ペン修正の記憶から、留学を終えて数年経った今でも日常の会話で意識して行うようにしている。

例えばファミレスで美味しい唐揚げを食べた時。
「美味しい」じゃなくて、「スーパーで買うのよりも衣が薄くてサクサクしているから鶏肉の味がよく分かって美味しいね」

例えばお店でブラウスを試着してそれが良い感じだった時。
「これ良い感じ」じゃなくて、「襟が付いててボタンも留めるようになっているから、そうじゃないものよりもかっちりして見えるし首元もスッキリして見えるから良い」

日本語だと形容詞1つで済んでしまう表現をもっと引き伸ばして継ぎ足していく感じ、英語だと this is great because… のbecauseの後を付け足す感じ。

この考え方が習慣になると、野矢さんの「論理的」の定義である、「この言葉とこの言葉はどういう関係にあるのか、それが的確に理解でき、きちんと関係づけられた言葉を使えること。」が自然とできている状態になる。

言葉と言葉の繋がりやその背景を探し言語化する過程はどんな場面でも変わらないので、仕事の場でも活きているなと感じる。

中学時代の、人からのジャッジを気にしすぎていた自分がこの考え方を知っていたとして、友達との会話で実際に出来ていたかは自信がないが、日記など人の目につかないところで活かせたのかもしれないと今は思う。

まあ過去には戻れないし、中学時代の自分に対する後悔もないので、今学んだことはこれからどんどん使っていこう。

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