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葉山嘉樹論 : 「プロレタリア」ではなく、〈弱者〉として生きた人

書評:道籏泰三 編『葉山嘉樹短編集』(岩波文庫)

本書の内容については、先行レビュアーである「安土留之」氏の紹介しておられるとおりなのだが、いささか「初期」の作風に肩入れしすぎの感もあると思われたので、少々補足的に論じてしておきたい。

葉山嘉樹の「初期傑作」にして代表作である「セメント樽の手紙」は、かつて教科書にも載っていた、問答無用の傑作である。私が「国語」の教科書で読んだもので、印象に残っている短編小説としては、芥川龍之介の名作「杜子春」と双璧をなす作品だ。

この代表作にも見られるとおり、葉山の初期作品には「エロ・グロ・アナーキー」の傾向が見られ、「安土留之」氏が、江戸川乱歩の「芋虫」を連想されたのも、よくうなづけるところだ。
「セメント樽の手紙」が「プロレタリア文学」に分類されるように、「芋虫」もまたしばしば「反戦小説」と呼ばれることがあるのだが、やはりその本質は「エロ・グロ・アナーキー」の方だろう。
しかしながら、葉山の「セメント樽」から連想される乱歩作品といえば、やはり「盲獣」を挙げないのは、いささか片手落ちではあろう。なにしろ「盲獣」には、かの「鎌倉ハム」の描写が登場するからである。

しかし、初期の葉山嘉樹と、乱歩による「芋虫」「盲獣」などの「グロテスク趣味」の作品を比較した場合、明らか違うのは、その体質を表したそれぞれの「文体」である。

乱歩の文体には、端的に生々しく「人肌」の感触や匂いが伝わってくるような独特のリアリティーがあるのだが、初期葉山の文体は、もっとカラリとしていて、「エロ・グロ・アナーキー」な描写であっても、「湿った暗さ」のようなものはまったく感じられない。それどころか、乱歩ではなく、稲垣足穂の初期作品と同様の「クリアなまでのモダニズム」が強く感じられるのである。
つまり、乱歩が「触感的エロティシズム」だとすれば、初期葉山の文体が表すのは、抽象的な「視覚的エロティシズム」だったのだと言えよう。

しかしまた、実のところ乱歩の場合も、初期作品は抽象度の高い作品が多く、そうした作品が書けなくなった後の、主に「大衆小説」として書かれた作品が、より「乱歩らしい」作風になっていったという事情を、見落としてはならないだろう。
つまり、葉山にしろ、乱歩にしろ、初期の作品は「大正モダニズム」の空気の中で書かれたものなのだが、葉山の場合は、大正14年に「二人の子供を餓死させた」結果として作風が変化していき、乱歩の場合は、そのずっと前に、初期のような「本格ミステリが書けなくなった」行き詰まりから、プロの人気作家として、やむをえずに作風が変わっていく。
つまり、二人は重なる時代の中で出発したせいもあって、初期には似た傾向(モダンな抽象性)を持っていたのだが、その生き方の違いによって、「作風」と言うよりも、「文体」までが変わっていったのである。

『 二人の子が「餓死」したのは大正十四年、葉山が名古屋共産党事件で逮捕され、禁固七か月の判決を受けて巣鴨刑務所に服役中に、妻が二人の子を貧しい兄の家に預けて、運動仲間の男と跡をくらましたあげくのことだった。葉山は、何一つ保護の衣をまとわないまま「餓死」した幼い子供のことを、どれほど思い、涙し、慙愧の念に苛まれたことか。「誰が殺したか」という未完の長編の「序」は悲痛だ。

嘉和、民雄、二人のわが子よ![…]御身等は、今の組織の下で、社会主義者を父に持ったために、餓死することを「体験」してしまった。[…]私は胸を掻きむしられるようだ。おまえたちは、私たち両親を呪ってくれ! 私も、この父も、自分自身を呪う![…]誰が、お前たちを殺したのだ! おまえたちの墓は、労働者の血で汚されたこの地上には建ててはならない。父は、「洗い清め」てから、その地の上に、お前の墓を建てよう。

たんなる感傷などではない。裸の子供の悲惨な死が、葉山に世の浄化一一復讐と言ってもいい一一への決意を固めさせるのだ。葉山研究家の浦西和彦(『葉山嘉樹一一考証と資料』)の言うように、「二児の死は葉山嘉樹に大きな衝撃を与え、その後の作家・葉山嘉樹の生き方を決定してしまった」。言い換えれば、殺されてゆく裸の人間への慈しみと、平然と人を殺してゆくこの社会に対する呪詛、この愛情と呪詛が葉山の社会主義運動ならびにプロレタリア文学への決定的な動因となっているということだ。』(道籏泰三「解説」、P340〜341)

事ここにいたって初めて、葉山嘉樹は「プロレタリア文学者」になったのではない。葉山は、子供を餓死させるという痛恨の経験を通過することで、「プロレタリア文学者」の「観念性」を超えた、生身の「文学者」となったのである。

だから、初期作品に「芸術性」という意味での「文学性」の高さを認め、後期の作品をその形式において「プロレタリア文学=イデオロギーの文学=不純な文学」だと見るのは、明らかに間違っている(読みが浅い)。

初期の葉山は、自身も労働者であり、その頭に「プロレタリア(労働者)」という「観念」が強くあっただろうし、そして、より悲惨な状況におかれた人々である「弱者」に近づこうとする傾向(同情)も、はっきりと見られた。その意味では、葉山は「強い労働者」であり「弱者のために戦う労働者」であったと言えるだろう。

だが、二人の子を餓死で失った葉山は、もはや「弱者」そのもの、だったと言えるだろう。
もう「弱者」とは、同情し「守る対象としての他者」ではなく、死なせた二人の子供が「弱者」そのものであったように、子供を餓死させた葉山自身が「弱者」そのものだったのだ。葉山は、そうした痛切な自覚を二人の子供たちから「教えられ」たのであり、その「正しい自認」に立って、戦う道を選びなおしたのである。
まただからこそ、その「文体」が変わり、抽象性が薄らいで、人間らしい「人肌」の温もりを持つことにもなったのだ。

無論これは、「抽象的な文学」と「人間的な文学」の、どちらが「偉い」とか、どちらが「正しい」というような話ではない。どちらにも、長所短所があり、傑作があり凡作あり駄作があるだけだからだ。

だが、少なくとも、葉山後期の「いかにもプロレタリア文学らしい作品」を、その形式性から「イデオロギーとしてのプロレタリア文学」と同一視するのは、明らかに間違いである。

二人の子を死なせてしまった後の葉山は、「イデオロギー」ではなく、「個人」として「弱者の文学」を生きたし、そう生きざるを得ない「ステグマ」を背負って生きた。

まただからこそ、そんな彼が、戦時の翼賛体制の中で「転向」したのも、ある意味では当然なのだ。
彼にとっては「戦争」とは、「イデオロギー」的に賛成したり反対したりするものではなく、「弱者」が生き残れるか否かの問われる、リアルな「状況」だったのであろう。つまり、二人の子供を死なせた後の葉山の「文学」は、すでに「趣味」でもなければ「イデオロギー」でもなかったのだ。

しかし、彼の「転向」が正しかったとは思わない。
結局、戦争で犠牲になるのは「弱者」だからであり、戦争に勝ったとしても、犠牲になるのは「弱者」だからだ。

しかしまた、彼の目には、戦争に負けた時の悲惨な状況が、ありありと見えていたのだろう。単純に言えば「戦争に負けて、飢えて死んでいく多くの子供たちや弱者」の姿が生々しく見えていたのだが、その一方で、戦争に勝てば、それが避けられるということしか、彼の頭には無かったのではないか。犠牲になる「敵国の子供たちや弱者」にまでは、彼の想像力は及ばなくなっていたのではないか。

なぜならそれは、彼が「弱者として痛めつけられた」結果として「抽象性」を失っていたからではないだろうか。
あまりにも「餓死した二人の実子」と一体化してしまっていたからではないだろうか。

二人の子を餓死させて以降の葉山嘉樹の「文学」は、「弱者として生きること」そのものであり、そこで失われていたものとは、「他者」であり「他者への想像力」であり、そうした意味での「抽象性」だったのではないだろうか。

初出:2021年7月19日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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