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栗原康 『サボる哲学 労働の未来から逃散せよ』 : 〈アナキズム〉の宗教性

書評:栗原康『サボる哲学 労働の未来から逃散せよ』(NHK出版新書)

示唆に満ちた、とても面白い一書である。

私が本書に惹かれたのは、まず『サボる哲学』という、秀逸なタイトルだ。いや、これは「我が意を得た」タイトルだったので「秀逸だ」と感じた、というのが正確なところであろう。

私はつねづね、職場の同僚たちを見ながら、次のように考えてきた。

「どうして、そんなに真面目に働くのだろう。イヤイヤ働くのなら、わからないではない。食うためには、働かざるを得ないからだが、何もそこまで、自分から積極的に働く必要はないではないか。きっと、労働の美徳というきれいごとを刷り込まれて、それを、優等生的に信じ込んでいるんだろうな。それと、他に趣味らしい趣味がないということ。だからこそ、労働の現場が、より良き人生を達成するための舞台になってしまっているのだろう。そこで優秀な人材となり、高い評価を与えられて、高い地位と給料を保証されるようになれば、それが、恵まれた人生なのだ、とイメージされているのだろう。
たしかにそれも、一つの生き方であるとは思うけれど、いかにも社会が与えた建前的なストーリーを、鵜呑みにし、盲信したものでしかない。
適当にサボったほうが、楽に決まっているし、なによりも他人の思惑どおりになるのではなく、自分の趣味やペースを少しでも確保できるからだ。
もちろん、完全にこっちの思いどおりにはいかないが、それは給料をもらっている以上しかたがない。だが、所詮、給料分の仕事なんてものの目安は恣意的なものなのだから、なるべく働かないで、かつ、サボってる思わせないで、効率よく給料をもらうのが、被雇用者の側の、正しい働き方だろう。弱い立場にある被雇用者は、ゲリラ的に、したたかに生きなくてはならない」

つまり、「サボる」べきだというのが、私の考え方なのだ。
だが、ここでいう「サボる」というのは、「サボタージュ」という言葉がイメージさせるような「積極的な抵抗行為」のようなものではなく、文字どおり「サボる」である。
例えば、「手を抜く」などのような、消極的なイメージを持たれているような、「サボる」である。日本語の「怠業」に近いイメージだ。

要は、私としては「(社会における)イメージの支配」から、自由でありたいのだ。
「よく働く人」「良い仕事をする人」「労働に生きがいを感じている人」が「悪い」とは言わない。そこに、真に、自分個人として意味を見出し、それを積極的に選びとっているのなら、それは大いに結構で、あとは「その選択を、うまく利用されたり、搾取されたりするなよ」と注文をつける程度であって、それを否定する気はない。一一そして、このあたりが、私が「アナキスト」ではない所以であろう。

本書で、著者の語るアナキズム的な生き方は、とても魅力的である。「アナキズム」の意味は、本来「無政府主義」と言うよりは「被支配主義」なのだと説明されていて、これはとてもわかりやすい。
と言うのも、普通に考えれば「政府(に当たる、全体調整機構)が無い社会」などというものの実現は、考えにくいからだ。つまり、政府らしい政府が無くなっても、それに代わる「似たような統治機構」が必ずあらわれるだろうし、それを認めるのなら、「アナキズム」は、「無支配」社会を目指す思想ではなく、支配機構の中で「無支配」を生きる(個々の)思想だということになるだろう。だが、この理解で良いのだろうか?

多くの人は「アナキズム」に、社会全体における「無政府」なり「無支配」なりを目指す思想だ、というイメージを持っている。
しかし、本書著者の「アナキズム」は、それではないと言う。そもそも「目的」にとらわれてはいけないと言う。未来のために、今を犠牲にするような生き方は間違っていると言う。あくまでも、今を自然に、生きたいように生きれば、それこそが「アナキズム」であると言う。つまり、社会全体における「無政府」なり「無支配」など目指さなくてもいい(目指す義務も責任もない)、ということだ。
無論、それを「自然に」目指してしまう人は、そういう「アナキズム」もありなのだが、ただ地面に穴を掘っていたいから掘り続けて餓死する、というのも「アナキズム」だということになる。
たしかにそれは「アナーキー」な生き方であるし、社会の常識を揺るがす、とても魅力的な生き方だと思う。一一でも、本当に、それだけで良いのだろうか?

本当に、社会全体における「無政府」なり「無支配」なりを目指す必要はないのか?
平たく言って、社会変革を目指さなくても良いのか?

たまたま見かけた「困っている人」については、「自然に」助けることもあるだろうが、世界中に存在する、制度的な犠牲者については、無理して助ける「努力をする」必要などなく、私は私個人として「好きな穴を掘っていれば良い」というのが「アナキズム」なのか? 一一しかし、こうした「アナキズム」論なら、私は承服できない。

たしかに、本書で語られる、著者の「アナキズム的な生き方」は、私たちの「規格化された発想」を挑発するものとして、たいへん面白いし、一定の価値を持つものだと思う。それはまったく否定しないのだが、しかし、それでは、著者のいう「アナキズム」とは、仏教における「すべては空(くう)である」というのと同じで、私たちの「常識」を相対化して、一瞬、私たちを自由にしてくれはするものの、結局は、それに満足して、それまでの「被支配的日常」に回帰するための「気休め」にしかならないのではないか。

たしかに、自分個人の中では、それまでと同じではない。価値を相対化した上で、あえて現状を選択し、その中で可能な抵抗を選ぶという生き方を、私は否定しないと言うか、むしろ積極的に肯定したい。
と言うのも、こうした「細やかな抵抗として、意識革新」すら、実際には困難なことだからだ。

しかし、著者が本書で要求していることは、それに止まらないように思える。
「そういうのもありだよ」と言っているようにも思えるが、「それで良い」と積極的に認めているようには読めない。そもそも、そこまで認めてしまったら「アナキズム」は、多くの人にとっては「観念的な気休め」で良いと言っているようなものであり、「アナキズムらしいアナキズム」を生きられるのは、一部の「強い人だけ」だと言っているようなものだからなのだが、果たしてそうした理解で良いのだろうか?

「宗教」の世界でも、時々「悟った」と主張する人がいる。「世界は空なのだから、その仮象にとらわれてはいけない」と世間に向けて語り、実際に「非世俗的な生活」をしていたりする。
それはそれで、たしかに大したものだと思うのだが、しかし、彼の語る「思想」とは、結局のところ「発想(だけ)の転換」なのではないだろうか。

それで、多くの人が「心理的に救われる」のであれば、それはそれで価値のあるものではあるけれど、それは「宗教」と同じで、実体を伴わない「気休め」だとも言えるのではないか。

そして「アナキズム」は、そんな「宗教の一種」であると理解しても良いのであろうか?

もしも「アナキズム」が、「社会変革の思想ではない」のだとしたら、私はそれを、「宗教の一種」であり「気休め」であると、否定的に評価するだろう。

もちろん「気休め」は、なくてはならないものだし、実際に役に立つものだろう。それは「宗教」や「娯楽商品」が消費され「役に立つ」というのと同じ意味で、実際に役に立つのである。
だが、「アナキズム」とは本当に、そんな「個人的なもの=内面的なもの」であって良いのだろうか?

本書著者の本を読むのは、たぶんまだ2冊目だろうから、確たることは言えないのだが、著者は、他の著作の中で、この私の「疑問」に答えてくれているのだろうか?
だが、著者のスタンスでは、それが具体的に語られることはないように思えるのだが、さて、いかがであろう。

初出:2021年7月21日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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