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脳みそジャーニー【36】 怖くもなかった注射が、大の苦手に。ミソちゃん、大丈夫??

まわりの人と比べて、私は恐怖や不安を強く感じやすいタイプだと思って生きてきました。

小さなことにも反応してしまうし、物事を大げさに捉え、実態よりも「悪いこと」を増大させてイメージしてしまう。少しでもよくないことが起きると、心身ともに消耗してしまいがちでした。


このように、とかく日常的に不安にまとわりつかれているタイプの人間が、ガンになるとどうなるか。
そうです、「ヲワタ」というか、文字通り、完全に終わるのです。


生きるための「元気」やら「希望」やら「楽しみ」、そういうものを、少ないながらもチョロチョロと貯めていたコップの水は、乳がん発覚とともに、コップもろともバキバキに割れて、すべてが流れ落ちてゆきました。

闘病という言葉は、「闘う」という文字が入っていますが、私は「病に打ち勝つぞ! 治療、頑張るぞ!」という気力が、一切湧いてきませんでした。


どちらかというと逃げる方。


「逃病」という言葉は存在しませんが、布団の中にうずくまって「どうしようどうしよう」と答えを出せないまま、浅い呼吸をして、死んだも同然となり、恐怖に震えている私は、まさに「逃病」しているのでした。

どうしても受け入れられない


巷では、「ガンとは闘うな=(仲良く共存してゆけ)」などと言う言葉もあふれていますが、私などから言わせれば「闘うぞ! 治療頑張るぞ」と思えるだけで、すばらしいこと。その闘争心を尊敬します。

ガンである現実を、なかなか受け入れることができなかった「逃病」期間中、私を悩ませていたのが、「注射の失敗」でした。

注射針が血管までうまくたどり着けないのです。

腕にできた内出血のアザは、数知れず。
赤や黄色、緑っぽいものなど、まるで紅葉みたいに色とりどり。
治療後、何日間にも渡ってじんわりとにぶい痛みを残すこの失敗が、回を重ねるごとに大きなストレスになってゆきました。

そして、これまでさして怖くもなかった注射が、手術のあたりから恐怖の対象となり、「注射は怖い・大嫌い」という印象に変わってしまいました。


なんとか刺しやすくできないものかと、血管を浮き立たせるために、通院日当日は朝からたっぷりと水分を取り、腕にはホッカイロ。

血流をよくしようとストレッチをしたり、待ち時間に院内をくるくると歩いてみたり、手をグーパーグーパーしてみたり。

血管のためにやれることをして、徹底的にあがきました。


しかし、もともと細い血管が、抗がん剤によって硬化してしまい、毎度針を刺す場所がなかなか見つからないのです。
(※こういう人のために「皮下埋め込みポート」がありますので、最初から血管が細いと分かっている人はご検討を)

「ごめんなさいね」
失敗するたびに、看護師や医師が謝ってきます。

相手が緊張し焦っているのが分かるので、こちらは「大丈夫ですよ」と表面上では大人ぶって対応します。

針を刺されてしばらくくねくねと針先を動かされ、血管に辿り着けずに抜かれ、また別の場所に刺される……。


治療とはまったく関係のない、ナゾの罰ゲームを受け続けている……。


「抗がん剤の治療よりも、注射そのものの方がイヤなんですけど!」
脳みそのミソちゃんが絶叫していました。


通院のたびに恐怖が増大していく中で、「何らかの事柄に対する心構え」というのは、こんな風にして、人に刷り込まれてゆくのかもしれないなあと、脳科学の本を読み始めていた私は、ミソちゃんの潜在意識がよくない方へ入れ替わってしまうのを、身をもって感じて始めていました。


それと同時に思ったのです。


ミソちゃんは、小さな頃から、何かの体験を重ねる度に「これは恐ろしいものです」「これは楽しいものです」「これは簡単にできます」「これは絶対できません」などと、ひとつずつ「見方」や「構え」のようなものを、学習し吸収してきたのだなあ……。

怖くなかったことが、大人になって、こうして怖くなったりするんだなあ……。

ミソちゃんは、良くも悪くも変化させられるということか。
「怖くなかったことが、現に今、怖くなってしまった」=脳が変化した


「人は変われない」。


長らくそう思い込んできた私は、注射に怯えながらも、一方で「脳みそは、良くも悪くも変わるのだ」ということを身を持って実感。
希望を抱くようにもなりました。


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