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【短編】『人違い』

人違い


 私は不思議と自分の過去の記憶をいとも簡単に遡ることができるのだが、今目の前にしているこの怪しげな人物には一度も会ったことがなかった。男は小柄で少々身なりが良く、口が達者のようであった。もしや新手の詐欺かと思い隅々まで顔を確認していると男は突然私目掛けて大きく言葉を放った。

「おい、何オレのことじろじろみやがるんだ?お前もしやオレを忘れたとでも言わないだろうな?お前には山ほど貸しがあるんだ。忘れたとは言わせないぞ?」

「は、はい、すみません」

やはり何度記憶を遡ってみたところで、男に会ったときの記憶は見つからなかった。詐欺でないとするならばこの男は勘違いをしているのだろうと思った。しかし、それを言ったら男を逆上させてしまうに違いないという考えも同時に浮かんだ。どうにかうまくこの男から逃げる隙を作れないかと悩んだ末、私は一旦男の言う通りに事を進めてみようと考えた。しかし、こうも執念深く付き纏われては実際にこの男に貸しを作った者も気の毒だと思えた。私はひとまずその者がどんな貸しがあるのか把握しておく必要があった。

「なあ、申し訳ないんだが、ちょいと色んな人に頼み事をしすぎてな、あんたからはその、何を借りたんだっけか?」

その言葉を聞くや否や男は猛烈に怒り狂い、ひっきりなしに私に罵声を浴びせた。するとそのまま、ここぞとばかりに今までの貸しを順に口に出し始めた。

「半年前にお前に貸した55万ドル、二ヶ月前にお前に貸した32万ドル、一ヶ月前にお前に貸した15万ドル、合計約100万ドル。これ全部返せるんだろうな?」

私はその金額の高額さに一瞬自分が本当に借金をしているのではないかという錯覚に陥り頭を抱えてしまった。すぐに我に返り、この男から金を借りたやつはなんて無責任で無計画な人物なのだと最初に同情したのが馬鹿馬鹿しく思えるほどに呆れてしまった。

 彼は困った顔をした私の方を睨みつけては、言葉を切った。

「もし金を返せないなら、別の方法で借りを返してもらうぞ?」

「別の方法って一体?」

「お前、いい債券を持っているらしいな?」

男の言ったことは本当だった。私は最近になって昔投資をした外国企業の債券を持っていたことを思い出したのだ。そして今はそれを元手になんとか生活しているのだった。一瞬この男が詐欺師なのではないかと確信しかけたが、その債券の情報は私以外に知り得ないと考えを改めた。やはりこの男は誰かに金を貸したのだ。そしてそれは私ではない別の者なのだ。私には関係ないことだった。

 私はここいらあたりで自分の素性を伝えて、今まで嘘をついていたことを詫びようと思った。依然として男に睨まれ続ける中、バッグから財布を取り出し、身分証明書を指に挟んで強く引いた。すると、身分証明書とともに別の何かが同時に出てきた。それは見覚えのない小切手だった。小切手の表面を読むと、そこには先ほどの男が言った55万ドルという金額が書かれていたのだ。私は冷や汗を掻くとともに、万に一つも起こるまいと思いながら念のため他にも小切手が入っていないかを確認しようと再び財布に指を入れた。すると、なんと不運なことか、また別に二枚の小切手が出てきたのだ。私は頭が真っ白になった。何度もその小切手を見たが本物であることは間違いなかった。先ほどまではこの男が私ではない別の誰かに金を貸している事を前提に話に乗ってやっていたが、もしかしたら本当のところは自分がこの男の言うように大きな金を借りたのかもしれないと思えてきてしまった。しかし、もし仮にそうだとするならばどうして私は過去の記憶を遡ってもこの男から小切手をもらった記憶を呼び起こせないのだろうかと疑問に思った。今までに一度たりとも記憶に誤りがあったことなどなかったのだ。もしや今まで自分は無意識のうちに都合の悪い記憶を消してきたのではないかとさえ思えてしまった。私は何が本当で何が嘘なのか分からなくなった。

 すると、突然笛の音があたりに響き渡ると、制服を着た警官が私たちの周りを取り巻き一斉に目の前にいる男に飛びかかった。男はそのまま警官に連れて行かれながら、私に向かって罵声を浴びせ続けた。私は、「そうか、やはり男は詐欺師だったのだ」と男の素性がわかり今までの奇妙な不安が一瞬にして消え去った。しかし、ポケットに手を入れると、再びその不安は蘇った。一体、この小切手はどこから湧き出てきたのだろうか。私はますます訳が分からなくなってしまった。


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