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【目印を見つけるノート】311. 想像力は「創造」力でもあります

朝から曇天でしたけれど、駅に着いたらおひさまがブレイクスルー。
そしてまた、曇天。

夕方は晴れました。
人と馬のデッサンのような雲。

きのう、テレビで「モササウルス」を扱った『ダーウィンが来た』に目が釘付けでした。いい番組ですね。だいたい、トリエステからオーストラリアとか、自分では絶対飛べないですから。いや、そもそも、ティラノサウルスとモササウルスの対決じたいが見られません😅
今さらですが、見事な再現CGですね。
ティラノサウルスに毛が生えていました👀‼️

ロケーションや時代はVRで「遷移」できるかもしれませんが、ひとつ、これはそのようなものを超えていると思ったことがありました。
モササウルスの研究をして、その顎の関節構造を示してみせた高校生、宮内和也さんのエピソードです。
長患いをしながら研究を続け、17歳で亡くなった彼の情熱に圧倒されました。

⚫実は生きていた?

きのうは
大河ドラマ『麒麟がくる』も見ました。
信長は本当はどんなことを考えていたのでしょうね🤔
あの方は、もう本当に戦いばっかりの人生でしたから……今書いているので、他人事ではないです😅
これだけ、個々のエピソードが「様式美」のレベルに達している人もあまりいませんが、それをまた書こうと思う自分の、ドン・キホーテぶりに苦笑です。

さて、大河ドラマは一縷の期待を残していたわけですが、ネットでは明智光秀が天海僧上だったのでは?という言葉がいくつも飛び交っていますね。

「実は生きていた」説というのは実に人の想像を掻き立てるものですね。隆慶一郎さんワールド✨実は私もそれで別の人のお話を書いているので、いや、もうまったく同感です。想像をおかずにご飯が食べられそう。

いくつで往生したのかも、100歳越えとは……微妙に何かありそうですね。そのお話について思うことを書きましょうか。
実はほかに今日は思いつくネタが……ない。
おがたさわ説ですので話半分でお願いします😅

私は天海は光秀ではないと思っています。それは上野の寛永寺に行ったときに思いました。
そこには天海のお墓があります。探したわけではないのです。美術館に行こうとして、遠回りで歩いているときにふっと見つけたのです。表現は申し訳ないのですが、それぐらい道端にポツンとあるのです。
家康のブレーンとして名を残す人にしては……品川東海寺の沢庵和尚のお墓のほうがよほど立派です。脇を走る新幹線は五月蝿いですが。

区画整理かしら、寛永寺のどこかにもう1つあるのかしら、家光とケンカしたのかしらなどと考えました。江戸城の東北を守るように建てられたお寺で、私は?マークをいくつも浮かべていました。

⚫その背景は

その話は高校時代の恩師(国語)にしてみました。先生は天台宗にたいへん詳しいのですが、気軽に尋ねたらバチンとはたかれました(メールで)。お墓の位置のことではなかったのですが。
妙齢になっても、基本「デキの悪い生徒」という立ち位置は変わりません😢少しはいい女になったと思ったのですが。

寛永寺の役割というのをよく知らなかったのです。もちろん江戸城の鬼門の守りなのですが、それ以上に大きい役目がありました。

このお寺の名称は『東叡山 寛永寺 円頓院』です。そして、天台宗の別格大本山(関東総本山)です。それが意味するところを私はあまり深く考えず、
「ああ、家康と天海は京都のような都をここに作ろうとしていたんだ」と思っていました。ここを江戸の比叡山(延暦寺)に見立てて。
ただ、家康と天海は比叡山のようなお寺を作ろうとしたのではなくて、比叡山の機能を丸ごと持ってこようとしたのだということがおぼろげに分かりました。

比叡山は日本の仏教の中心といってもいい。最澄も空海も法然も親鸞も日蓮も……そうそうたる面々がここで修行した「はらから」なのです。
その比叡山の経典が寛永寺に多く移されたということを先生に聞いて、そうかと気がつきました。
京都の守りとして長くあった比叡山の機能を、江戸に持ってこようとしたということを。

先生が教えてくれたのはそこまででしたが、なぜ移そうとしたのかは幕府のその後の政策によって推し量れます。長くなるので詳しくは別に譲りますが、朝廷の力を抑えること、仏教勢力を配下にすることはとても重要な政策でした。後水尾天皇の譲位、紫衣事件などがパッと思い浮かびます(家康の時代ではありませんが)。

為政者がそのように考えるのは不自然なことではありません。武士という存在が表に出るようになって以降、任命する主である朝廷とどう関係を保つのかはずっとずっとたいへん難しいテーマでした。仏教勢力も同じです。彼らは時に武器を持って立ち向かってきます。民衆も同じです。一向一揆に信長がずいぶん苦労したことも書いておかなければいけません。

家康はその先例をよく知っていました。幕府という体制を固めるのに、そのふたつはどうしても抑えておく必要があった。
「よし、ここにわれらの都を作るで」というようなぼんやりした夢のようなものではなく、もっと「政治」だったのです。おそらく。

⚫光秀と朝廷と比叡山

さて、ここで光秀にようやく戻ります。

光秀が、信長と朝廷の連絡役を務めていたことは大河ドラマでも描かれた通りです。
また、信長が命じた比叡山の焼き討ちに消極的だったことも。彼は信長の勘気を買うと分かっていても、人を救いましたね。それはまず非戦闘員に手をかけないという人道的な意味だったと思います。それに加えて、
彼は朝廷と武士勢力が主従関係を保ちつつ、共存共栄していくことを考えて務めていたと思います。

その彼が、いくら時間が過ぎたといっても比叡山の経典を嬉々として江戸に持ってくるだろうか。かの地の僧から見れば、それはどれほどのことだったでしょう。多くは書きませんが。
さらに、光秀をよく知っている家康がしれっとそれをさせるだろうか。いくら泣くまで待とうホトトギスでも。

うーん、違うような気がする🤔

それが私の今のところの結論です。
いろいろな説があるのは存じておりますので、私はそのように思うということでご理解いただけると幸いです。

すべては、天海のお墓から得た推論です。ただ、どうしてあの位置なのかしら。区画整理かな……それはまた調べます。

ネタがないという割には長くなってしまいました。

話が戻りますが……、
宮内くんには、モササウルスが海の中でこう、ぐわっとしているのをリアルにイメージできたと思うのです。
シュリーマンではなく、同じ時代に生きた人にそのような瑞々しい想像力があると感じられることが、わたしはすごく嬉しいです。

人の想像力とはそういうものだと、わたしは思います。それは「創造」力でもあるでしょう。

ああ、肉じゃが💦💦

それではまた、ごひいきに。

尾方佐羽

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