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本来無一物、何れの処にか塵埃あらん。文字の読めない慧能禅師はこの偈で五祖弘忍禅師の法嗣となり六祖となりました。人が生まれつきもっている仏性というもの聖性、神性の純度の高さを見事に表現したものとして歴史に残つています。文字や言葉よりも生活修行が大事だとされる一例となっています。
生まれたばかりの赤ん坊に六識はあるか?こう問われた趙州禅師は急流の上で鞠をつくようなものさ、と言ったそうです。般若心経では無色声香味触法と言いますがそんなことは百も承知です。そんな理論仏教は急流で鞠をつくぐらいありえないことだ、何の役にも立たないと言いたいのでしょう。実相無相です
一株の大樹、天下の陰涼となる。若き臨済禅師の大器を見抜いた睦州禅師の言葉です。随処に主となれば立処皆な真なり、赤肉団上に一無位の真人有って常に汝ら諸人の面門より出入す。未だ証拠せざる者は看よ看よ。自性仏性の自立性、主体性を宣言する言葉が大樹となって人人に一服の陰涼材を与えています
無功徳。梁の武帝は、寺を造営したり、僧に供養し、斎会を開催し、布施を施すことが自慢のようでした。達磨太子にどれほどの功徳があるかと尋ねました。そんなものは何の功徳にもならない、と。武帝は嘆き恨んで、達磨太子を国外追放にしたと六祖壇経に記されています。自性仏性の悟りは無形のものです
聖学晦くして邪説ほしいままなり。伝習録によれば権力欲に満ちた覇道政治が横行することで聖人の道が衰退したとあります。邪説とは記誦の学、訓詁の学、詞章の学などのことです。文字の形式にこだわり、人間性の内実を疎かにする学問です。口先だけの覇術で世を支配する覇道政治が世を惑わすのです。
格物致知。陽明学に於いては、ものをただして知をいたす、と読みます。ものとは物質では無く心の中の邪心や邪念欲心のことです。そのために良知を致すのです。人の聖性、霊性、神性を発揮して邪心邪念を正すことが格物致知です。山中の賊を破るは易く心中の賊を破るは難しという心即理がこれです。
庭前の柏樹子。如何なるか祖師西来意という僧の問いに対する趙州禅師の答えです。僧は何か崇高な理念か深遠なる理論でも期待していたのでしょう。人境倶に奪う絶対無、絶対自由の普遍平等の世界を提示したと言われています。音も無く香も無く常に天地は書かざる経を繰り返しつつ、明歴歴露堂堂なのです
知行合一。知の真切篤実の処は即ち是れ行にして、行の明覚精察の処は即ち是れ知なり、と伝習録に書いてあります。これを読むだけでも知識を行動に移せばよいといった単純な行動論ではないことが分かります。心の虚霊明覚なる処が良知であり、心の天理を精察して本然の良知を致すことが知行合一なのです
多聞多見。論語ではこの弊害を戒めています。疑わしいものや危ういものを捨てて残ったものだけを人に言えば人からとがめられることも少なく慎んで行動に移せば後悔も少ないと言っています。知識や情報は疑ってかからなばならないことは2000年以上前から言われているのです。今でも通用する箴言です
品行高尚。人の見識品行はただ聞見の博きのみにて高尚なるべきに非ず、と学問のすすめに書かれています。万巻の書を読み天下の人に交わりなお一己の定見なき者あり、と批判しています。真実の学問は己れの霊性、聖性、神性を磨くものです。聖人になる為の陽明学や仏性顕現の為の禅学が真実の学問です。
知・仁・勇。知を好んで学を好まざればその蔽や蕩、仁を好んで学を好まざればその蔽や愚、勇を好んで学
を好まざればその蔽や乱、と論語にあります。知仁勇三色兼備でも学問の心が無ければ全て腐敗するということです。学問の心とは克己復礼です。自分より若い者に頭を下げて学ぶことができるかです。
凜凜孤風自ら誇らず。一道に徹する求道者としてストイックに生きてもそれを他に誇らず平常心で生きるのは難しいものです。人の本能的欲求としての承認欲求は誰しも少なからずあるものだからです。凜として強く生きつつも弱い者に手を差し延べることができるか、人間の品性と品格が問われる処です。