マガジンのカバー画像

先生が先生になれない世の中で

32
雑誌「クレスコ」に好評連載中の教育研究者・鈴木大裕さんの教育事情レポート。
運営しているクリエイター

記事一覧

先生が先生になれない世の中で(32)  ~マニュアル化する社会の中で②:『不適切にもほどがある!』~

先生が先生になれない世の中で(32)  ~マニュアル化する社会の中で②:『不適切にもほどがある!』~

「おい、そこのメガネ! 練習中に水飲んでんじゃねぇよ! バテるんだよ水飲むと! けつバットだー! 連帯責任!!」

時は昭和61年(1986年)、中学教師で野球部顧問の小川は、地元では「地獄の小川」として恐れられる存在だ。選手がエラーしたら「うさぎ跳び一周」、体罰は「愛のムチ」、教室でもタバコスパスパ……。そんな主人公がある日バスを降りたら、令和6年(2024年)にタイムスリップしていた……。これ

もっとみる
先生が先生になれない世の中で(31)  〜マニュアル化する社会の中で:奈良教育大附属小学校「不適切指導」事件~

先生が先生になれない世の中で(31)  〜マニュアル化する社会の中で:奈良教育大附属小学校「不適切指導」事件~

「奈良教育大学附属小学校では、今年1月に、学習指導要領に基づく授業時間が不足するなど、不適切な指導が明らかになりました」――あなたもネットやテレビでそんな報道を目にしたのではないだろうか。国が定めている、教えるべき内容を奈良教育大附属小(以下、附属小)では教えていなかったことが発覚。新任の校長が教職員に是正を求めたが受け入れられなかった……。そんな内容を聞いたら、それはダメだよね、となるのがふつう

もっとみる
先生が先生になれない世の中で(30)~高知 教職員と議員のつどい②~

先生が先生になれない世の中で(30)~高知 教職員と議員のつどい②~

教員の労働環境は子どもの学習環境であり、学校における働き方改革は、国、行政、議会、教職員、そして保護者が同じ方向を向けないわけはない。昨年12月、『高知(若手)教職員と議員のつどい』の一つの成果として、国が定める標準授業時数を上回るいわゆる「余剰時数」の問題が、高知県内12の市町村議会にて同時多発的に取り上げられた。さまざまな議会の関連議事録からは、今後進むべき道筋が見えてきた。

余剰時数の削減

もっとみる
先生が先生になれない世の中で(29)~高知 教職員と議員のつどい~

先生が先生になれない世の中で(29)~高知 教職員と議員のつどい~

「もし機会があるならば、教育現場の声を直接議員に伝えたいと思いますか?」――そんな私の一言から、あるイベントが昨23年8月に高知市で実現した。その名も、『高知(若手)教職員と議員のつどい』。当日は、小中学校、特別支援学校、養護、栄養など、若手教職員に加え、高知全域から約20名の議員が参加した。党派関係なく、さまざまな市町村議会から議員が集まり、中には県議会議員の姿も見えた。

前半は、それぞれの立

もっとみる
先生が先生になれない世の中で(28) いち教員である「わたし」にできること②

先生が先生になれない世の中で(28) いち教員である「わたし」にできること②

この社会は「わたし」たちの集まりによって構築されている――それに気づくことにこそ希望がある。そう言うのは、前回も取り上げた文化人類学者の松村圭一郎氏だ。文化人類学は、一つの部族や集団を長期にわたって調査する。しかし、調査を通して知るのはその「他者」だけでなく、「わたし」であり、自らの社会だ。「他者」と出会うことで自分自身の「あたりまえ」が揺さぶられ、その揺さぶりに身をまかせることで、慣れ親しんだ自

もっとみる
先生が先生になれない世の中で(27) いち教員である「わたし」にできること

先生が先生になれない世の中で(27) いち教員である「わたし」にできること

文化人類学者、松村圭一郎氏のこの言葉に共感する教員は少なくないのではないか。この連載でも、大きなテーマを扱ってきた。資本主義の影響による教育における「構想」と「実行」の分離。新自由主義化する社会の帰結である公教育の市場化と民営化。そうして起こる学校の「塾」化と教員の「使い捨て労働者」化……。そして、子どもの教育を通して、この「モノ・カネ」の社会のあり方そのものを問い直す必要性を、私はくり返し訴えて

もっとみる
先生が先生になれない世の中で(26)花火大会は誰のもの②

先生が先生になれない世の中で(26)花火大会は誰のもの②

私が住む土佐町では、花火の有料観覧席などというものは存在しない。全国の主要花火大会で進む有料化、(プレミアムシートの創設などの)「ダイナミックプライシング」による有料観覧席の階層化、そしてチケットを購入していない人たちの排除……。もちろんそれらの主要花火大会とは花火の規模も来場者の数も比にもならない。それでも、なぜ土佐町では有料観覧席などできないのか、そんなことを真剣に考えてみた。

人口3600

もっとみる
先生が先生になれない世の中で(25)花火大会は誰のもの

先生が先生になれない世の中で(25)花火大会は誰のもの

今年の夏、コロナ禍で中止が続いていた花火大会が、4年ぶりに各地で開催された。しかし、花火に使う火薬の高騰や、人手不足などによる警備費の高騰などで、どの自治体も経営面で苦戦し、なかには中止を決定した自治体もある。

そんななか、ひときわニュースを騒がせたのが、例年35万人以上が訪れる「びわ湖花火大会」だ。4年前と比べ約1億円増加したという大会経費3億
円(*1)を捻出するために、大会実行委員会(滋賀

もっとみる
先生が先生になれない世の中で(24)教員を信用しない社会で人を信用する子どもたちが育つのか?

先生が先生になれない世の中で(24)教員を信用しない社会で人を信用する子どもたちが育つのか?

今日の教育現場は、そもそも人を育てる場所としてデザインされていないのだと思う。

先日、「抗うべきは『常識』」(*) で取り上げた校長の学校が、教育委員会による管理訪問を受けた。その際に提示されたという資料を見て、私は愕然とした。そこから見えてきたのは、行政が教員を信用せず、あれダメ、これダメというルールで教員をがんじがらめにしている姿だった。飲酒運転をするな。テストや個人情報の入ったデータを学校

もっとみる
先生が先生になれない世の中で(23)先生は未来に触れることができるから

先生が先生になれない世の中で(23)先生は未来に触れることができるから

先生はつくられるもの。そんなことを考えさせられる美しい映画がある『ブータン 山の教室』(2019年)だ。

教師である主人公ウゲンは、携帯とヘッドフォンを放さない「今どき」の青年。ブータンでは教師の社会的地位は高く、おばあちゃんも「教師は国のために仕える栄誉ある職業だ」と言ってくれるのに、ウゲンはまったくやる気がない。それどころか、教師なんかすぐに辞めて、オーストラリアに行って歌手になることを夢見

もっとみる
先生が先生になれない世の中で(22)自由の前提条件としてのパブリックスペース

先生が先生になれない世の中で(22)自由の前提条件としてのパブリックスペース

マキシン・グリーンは、パブリックスペース(公共の空間)を、自由が生まれる前提条件ととらえている(*1)。そして、多くのアメリカ人が、パブリックスペースはすでに公園や広場というさまざまな形で「与えられている」という従来のアメリカ世論の認識を正している。

パブリックスペースとは物理的な空間などではない。それは、どこか満たされていない不完全さと同時に、それを乗り越える希望を胸に抱いた人々が集った時、人

もっとみる
先生が先生になれない世の中で(21)遊びのないところから新しい世界は生まれない

先生が先生になれない世の中で(21)遊びのないところから新しい世界は生まれない

昔、サモアの島々に住んでいた原住民は、ある日突然やって来たヨーロッパの白人たちをパパラギと呼んだ。この本が最初に出版されたのは1920年。実に1世紀以上も前であるにもかかわらず、まるで今日を生きる私たちに語りかけているようだ。大人たちは、少しでも時間を節約しようと、一日にいくつもの用事をつめこむ。移動の際には高速道路を使い、快速電車に飛び乗り、景色などには脇目もふれずに目的地へとひた走る。時間を節

もっとみる
先生が先生になれない世の中で(20)君たちはどこへ向かっていくのか?

先生が先生になれない世の中で(20)君たちはどこへ向かっていくのか?

「真の自由とは、パンを選ぶことではない。」そう言ったのは2014年に96歳で亡くなった私の恩師、マキシン・グリーン女史だ。ユダヤ人として、そしてアメリカにおける女性教育哲学者の先駆けとして、彼女は自由のために闘い続けた人だった。多くのアメリカ人が、自分は生まれつき自由であると信じ込んでいることを、彼女は「悲劇」と呼んだ。

自由とは権力者によって施されるものではなく、人と人とのつながりの中で勝ち取

もっとみる
先生が先生になれない世の中で(19)教育現場における「構想」と「実行」の分離(8)~生命の営みの中で教育をとらえ直す~

先生が先生になれない世の中で(19)教育現場における「構想」と「実行」の分離(8)~生命の営みの中で教育をとらえ直す~

私たちが生きる資本主義社会の根幹には、「自然と人間の分離」があった(*1)。そして、それは人間の子育てにも影響し、「自然と教育の分離」をもたらした。世界規模の気候変動など、地球が悲鳴をあげる中、自然と教育の結合が求められている。それこそが、大田堯が言う、生命の営みの中で教育をとらえ直すことなのだろう。

それでは、大田が訴えた「命を大切にする教育とは」いったいどんな教育なのだろうか。命あるものなら

もっとみる