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哲学的考察 | SNSは「公」か「私」か?



(1) どんな人でも多かれ少なかれ


 まだ頭の中でまとまっていない考えなのですが、思考を整理にするために書き始めます。


 私たちは、日常生活をある規範に基づいて送っています。私たちは法治国家に生きています。基本的に法に則り行動しているわけですが、法律の専門家でもない限り、ほとんどの人は法律を熟読しながら生活しているわけではありません。


 何か不快なことがあったからといって、すぐに警察に行ったり、裁判で白黒をハッキリつけようとはしません。たいていの場合、少しぐらいのことなら我慢するか、あるいは、自分の出来る範囲での対策を考えます。
 自分の力ではどうしようもなく、それでも自分に理があると考えるならば、そこで初めて、第三者に相談したり、訴えることを考えるというのが一般的な手順でしょう。


 私人間のトラブルは私人間で解決することが基本なのであって、最初から第三者のジャッジを求めることを想定しているわけではありません。

 違う人間同士ですから、お互いに意見が噛み合わないことがあります。
 仲の良い者同士というのは、付き合いが長いので、いちいちこれまでの詳細な経緯を話すことがなくても、お互いの前提となる考え方を知っているので理解が早く、また、誤解することが少ないものです。
 
 しかしながら、(SNS上では特に)字面だけを読んでいるだけの間柄の場合、「この人が好き」と思う場合も「この人は嫌い」と思う場合も、いいにつけ悪いにつけ、誤解の上に築かれた砂上の楼閣に過ぎないなんていうことはよくあることです。


 話は少し逸れますが、普段は温厚な人がハンドルを握った瞬間、人が変わってしまうということがあります。
 ちょっと自分の車の前に割り込まれたりすると「チッ」と舌打ちをしたり、信号が青になっても進まない車に、間髪入れずクラクションを鳴らしてしまう人がいますね。
 やはり、目の前に人がいる場合とお互いが別の車に乗っている場合とでは、物理的な距離感のみならず、心理的な距離感も異なるのでしょう。


 車の場合と同じように、直接目の前に相手がいて話す時とネット上の字面を読む時とは、物理的にも心理的にも距離感が異なります。
 
 だから、本来面と向かって話せばお互いの言い分を聞くことができるのに、ネット上では口論が激化してしまうという現象が起こり得ます。
 また、しゃべった言葉はしゃべった瞬間にどんどん消えていきますが、書いた言葉はいつまでも残るために、繰り返し繰り返し読んでいるうちに腹立たしさが増幅されてしまうものです。


(2) 2つの立場 | SNSを「おおやけ」と捉えるか、「私事」と捉えるか?


 余談を少し挟みます。通信手段の歴史を振り返ってみます。
 主要な通信手段には、「電話」、「ラジオ」(無線)、「テレビ」、「ネット」などがあります。

 現在では電話は「『一対一』のやり取り」に使われています。ラジオは「『一対多』のやり取り」に使われています。

 しかし電話やラジオは導入された当初は、まったく逆の使われ方をしていました。すなわち、電話がニュース・公の情報を伝える手段であり、ラジオ(無線)が個人的な情報のやり取りに使われていたのです。
 
 今から考えれば、受話器をとってニュースを聞いたり、ラジオで話をすることは不自然に思えるのですが、技術の生まれた当初というのは「使い途・使い方が分からない」ということはよくあることです。


 では、「正しいネットの使い方」について考えてみましょう。

 大きく分けると2つの考え方があります。つまり、ネットをラジオの延長と捉えるという立場と、ネットを電話の延長と捉えるという立場です。


<<ネットをラジオの延長と捉える人>>


 ネットをラジオのように「1人の人が大勢に向かって語りかける手段である」と考えるならば、ネットは公器であるため、好き勝手な発言は許されないでしょう。また、自ら発信した人には、社会的な責任があると考えます。
 「一度発言したことは決して消すことができない」「以前書いたことを消去したり、加筆修正することは卑怯な行為」と考えることでしょう。


<<ネットを電話の延長と捉える立場>>


 ネットを「一対一」の電話の延長と考えるならば、言い間違ったことを言い直したり、訂正・撤回することは自然なことです。そもそも、一対一のやり取りに、頼まれてもいないのに他人が首を突っ込むことは余計なお世話以外のなにものでもありません。
 また、個人的な好悪の感情を、たまたま近くにいた人にしなだれついて、「この人は許せない人なんです」とわめき散らすのは狂気の沙汰です。


(3) ネットは二分法では語りにくいもの


 (2) では便宜的に、「ラジオ的ネット観」と「電話的ネット観」とに大別しました。しかし、実際のネットには、ラジオ的な要素と電話的な要素が混在しているために一筋縄にはいきません。

 私自身は、ネットを電話の延長と考えています。とはいえ、もちろん多くの人に考えをさらすわけですから、ネットをまったく電話と同じように考えているわけではありません。正確に言おうとするなら、ネットはラジオと電話とのハイブリッドだと思っているが、どちらかと言えば電話的な色彩が強いものと捉えています。


(4) 法的な位置付けの話をしているのではない


 このような意見を書くと、すぐに法的なネット位置付けの話を語り始める人がいますが、そういったことをここで主張したいわけではありません。

 最近の社会の風潮として、「賛成なのか?それとも反対なのか?」をすぐに決着をつけたがる空気があります。

 また、安易な分析を拒むような複雑な事象を前にして、「分かりやすさ」という大義名分を持ち出し、話を簡略化しすぎたり、図式化して、そこで思考停止してしまうことが多々あります。

 複雑なものは複雑なものとして、分からないものは分からないなりに、自分なりに考えつづけるという営みを忘れたくないものです。
 


 なお、この記事に関して、私はコメントしません。1人1人がきちんと向き合うことが大切だと思うからです。
 また、多数決で良し悪しを決めることではなく、1人1人の良心の法廷甲論乙駁してほしいと考えます。



https://note.com/shichaoji/n/nbc40d1424d99

https://note.com/chise2021/n/n49abbee90f16 




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