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NHK100分de名著 西田幾多郎『善の研究』第2回「“善”とは何か」改定版

今回は第2回です

第1回「生きることの“問い”」はこちらです

◆改定版です。番組テキストとそれに対する考察を加えました☺️

【番組テキストの内容抜粋】

西田がいう「宗教」とは、宗派的宗教とは異なる、「大いなるはたらき」のことです。

この「大いなるもの」を西田は、『善の研究』で「神」と書いています。もちろん、彼がいう「神」は、現代の私たちが想像する宗派的「神」ではありません。
西田は「神とは種々の考え方もあろうが、これを宇宙の根本と見ておくのが最も適当であろうと思う」(第4編 宗教 第2章 宗教の本質)と書いています。
「神」は内界と外界の双方の根本の「はたらき」だというのです。
「神」は人間を超えながら、同時に私たちの心に内在する。それが西田の「神」の理解です。

遠く離れた場所にいる大切な人をおもうとき、相手はどこまでも遠いところにいるのに、誰よりも近くにいると感じる。これを実現するのは「愛」である。このような実感を否定する人は少ないと思います。私たちはこの感覚を亡き人たちに感じることができるのです。

イギリスの詩人テニスンが、1人自分の名を唱えていると、通常感じている「自分」とは異なる、その彼方にいる真実の「自己」を感じた、という逸話に言及しています。

テニスンは、自分の名前を唱え続けることで、小さな「自我」の壁を突き破って、大きな「自己」の世界にふれた。浄土教の人たちはそれを「南無阿弥陀仏」という言葉によって行っている。テニスンは、自己という道を、浄土教の信者たちは仏という道を通じて大きな「自己」の世界にふれているのです。西田が「神は宇宙の根本であって兼ねて我らの根本」である、といのはこうした自己と「神」の重層的な関係を指しているのです。1つの頂点を目指して進む、2つの異なる道だというのです。

大いなるものを求めるのは、真の「自己」に出会いたい要求だと西田はいいます。
自分は絶対的なものではなく、有限であるという認識によって、それを支えている「絶対無限」のちからをはっきりと感じ、それと1つになって永遠の生命を得ようというのです。

大いなるものの前に出る時、人は、必然的に「小さき者」になります。しかし、「小さき者」であることの自覚こそが、内なる偉大な「自己」の発見に直結する。己が「小さき者」であることを知り、大いなるものに畏怖と敬虔な心情を持って向き合う。そのとき、「永遠の真生命」への扉が開き始める。「小さき者」としての「自己」そのものが、「永遠の真生命」へと続く道となる。それが西田哲学の原点であり、基準点なのです。

西田にとって「哲学」とは、「小なる自己」を通じて「大なる自己」へと至る道であり、

「大なる自己」とは、自我から自由になった「自己」、無私なる自己だと考えてよいと思います。

浄土教では、阿弥陀如来と人間のあいだにあること、人間が救われたいと願っているだけではなく、それを凌駕する勢いで仏が人間を救いたいと願っている。これが浄土教の世界です。

西田の実家は、浄土真宗の檀家でした。西田は『善の研究』を刊行したのと同じ年に「愚禿親鸞」と題する随想を書いています。そこでは、自分は十分な浄土真宗に関する知識は持たないが、親鸞の生涯には心を強く揺さぶられる、と書いているように、『善の研究』を執筆している頃から、親鸞の言行録である『歎異抄』を深く愛するようになります。

真の意味において「宗教的」であるとは、我を忘れ、神仏によって与えられる新しい叡智、新しい徳を体得し、新しい生命を生きることだというのです。

新たな叡智や徳は、いわゆる「知識」や「意志」によってもたらされることはない、と西田は断言します。

真理を求めようとするとき、「自力」も無駄ではない。しかし、そうした営みだけでは到達できない、さらなる世界がある。「他力」のちからをもってこそ「主客合一」の奥にある、「最深の統一」、「知意未分以前の統一」の境地を経験することになる、というのです。

「知意未分」とは私たちが個人の意識によって世界を価値づける以前の、ありのままの状態です。そのありのままの世界を私たちは、価値、言葉、感覚、意味などによって「切り取って」いるのです。そうした判断が入る以前の世界のことを西田は「知意未分以前」と表現しているのです。
それを西田の盟友でもあった鈴木大拙は「無心」という言葉で表現しています。

「知意未分以前の統一」や「無心」の世界を感じるとき、私たちは理智、つまり知識世界の「境界線を思い切って飛び越して」います。そこで人は自他の「分別」がなくなります。他者のことはそのまま「わがこと」になる。そのような世界こそが新しい叡智、新しい徳、新しい生命の母胎だというのです。
その世界を感じるためには、「主客の合一」の境地では不十分である。その奥へも進まねばならない。そうした状態を西田は「神人合一」といいます。

私たちの生の意味は、自分が「自分」だと感じているものを育てることではなく、「自己の意識を破りて働く堂々たる宇宙的精神」を生きてみるという「実験」を実践するところにある、というのです。

西田にとっての「神」は、すべての人間を救おうとするはたらきのことです。そこには「利己」はなく、徹底的な「利他」があり、「私心」はなく、透徹した「無私」があるのみです。
「神人合一」の状態で真に「宇宙的精神」がはたらくとき、そこに顕現するのが「愛」にほかなりません。

こうした出来事は、親子だけ起こるのではありません。
思い出す出来事があります。

2001年の夜、東京の新大久保駅で、ある人がホームから転落しました。この人は酒に酔っていたのです。電車が近づいています。このとき、日本人のカメラマンと韓国人の男性が、転落した人を助けようと線路に飛び降りるのです。結果は3人ともに亡くなってしまいました。
結果だけ見れば、1人が亡くなるところ、3人もの人が亡くなった、ということになるかもしれません。しかし、ここにはそうした事象的な理解を強く拒むものがあります。とっさの、至上の愛です。「愛」という言葉すら入るすきまのない愛の営みがここにあります。

社会生活における「個」と、他者と共にある「個」は両立し得ます。この2つの「個」が共に開花することが、西田がいう「善」なのです。
西田にとって「善」とは「大いなる自己の」の開花であり、それに基づて「行為」することなのです。

西田は「最上の善」とは、個々の人間のなかに眠っているものが、世に出現し、「円満なる発展を遂げる」ことだといいます。
ここでの「円満」は「完全」と同義だと考えてよいと思います。

“self-realization”は、ユング心理学の中核的な思想でもありました。

西田における「自己」を「仏性」としてとらえた人物がいます。曹洞宗の開祖道元です。
仏性とは、万人のなかに存在する「仏」になろうとするはたらきです。

仏法は、万人に豊かにそなわっている。しかし、それは修行をしなければ顕われない。顕われることがなければ、自らの血となり、肉となることがない。それは空間、量、言語、次元、すべてを超える。
そのはたらきは人間の通常の感覚ではとらえることはできない。

道元がいう修行はもちろん坐禅です。禅堂でひたすら坐している姿は、一見すると何もしていないように見えるかもしれません。しかし彼らは、坐禅によって自己の根底で西田のいう「善」に出会っています。
真の禅者の目覚めは、その個人の出来事で終わりません。それは、個の中で起こり、無数の他者に広がるものです。ユングは個人的無意識の奥に、普遍的無意識(集合的無意識)という地平があると考えていました。禅者の目覚めは、前者ではなく後者の出来事でもあるのです。

「行為」は、つねに「意識」を伴わなくてはならない、と西田はいいます。その「意識」とは、表層意識のことではありません。表層意識と深層意識の両方を含んだもののことです。その両方が1つになり、「行為」されるとき、「善」への道が開かれるというのです。

西田にとって「個人」とは、つねに「他者」と共にある存在だったのです。だからこそ、その開花が至高の「善」になる。むしろ、他者と共にいなければ真の「個人」にはなり得ないというのです。

「善」は私たちの中に種子として存在します。しかし多くの人にとって、種子は何かに覆われていたり、土に埋まっていたりするため、見えないことが多い。私たちはそれを「行為」によって見出し、体得しなくてはならない。その道を照らすのが西田の考えた哲学だったのです。

人によっては自分の中に善きものはないと感じ、絶望することがあるかもしれません。しかし西田は、その存在をけっして疑いません。
「善」を体得するためには、外に探しにいってはならない。見出さなくてはならないものは、すでに私たちの中にある。獲得するのではなくて、すでにあるものを見つけようとするところに「善行」が生まれる、というのです。

【番組テキストの内容に対する自分の考察】
〈大いなるものについて〉
西田がいう「大いなるもの」を、自分は「宇宙=天=神」と言っています
単なる物理学上の“宇宙”を超えて、意図をもった存在として、“宇宙”をとらえたいからです

〈愛する人の“精神的存在”について〉
自分は今、3次元現実では全く会わなくても、心の中では日々“愛で思っている人”と共に過ごしています
愛する人が物質的には自分の側に存在していなくても、精神的存在、これはフランクルが著書『夜と霧』で述べていることですが、常に一緒に存在している
この意味の解釈は難しいですが、存在には種類があるということだと思います
それは今後考えて行きたいと思います

〈自己が最終的に進むべき道について〉
ツインレイのあの人と出会い、エゴや執着がなくなり、真実の愛に達した後、真の自己の目的は、“愛で在る”ことだとわかったのですが…
大きな人生の目的は到達したと思うのですが
、その後の自分の取り組むべき具体的な道がはっきりせず、模索しています
とりあえず思い立ったことを順番に取り組んで行きなさいということでしょうか

〈人間が人生において本当に目指すことについて〉
エゴがこびりついた「小なる自己」からそれを丹念に引き剥がし、執着もなくすことで「大なる自己」になることが、皆が目指すことだと思います
それは、エゴを取り除く過程で、個人的無意識を掘り下げ、普遍的無意識(集合的無意識)まで到達し、宇宙さんたちや他の人の自己と1つ接続する(ワンネス)ためでもあります
そうなると宇宙さんたちからの直観やシンクロニシティ(シンクロ)によるメッセージを度々受ける様になります

〈宇宙=神から愛を常に受け、見護られていることについて〉
「人間が救われたいと願っているだけではなく、それを凌駕する勢いで仏が人間を救いたいと願っている。」
これは宇宙=神にも当てはまるのかもしれません
自分が思っている以上に、宇宙=神さんたちは自分のことを“愛している”と思います
そのことを実感するためには、エゴや執着を捨て無意識を掘り下げないとだめで、普遍的無意識(集合的無意識)に接続し、宇宙さんたちからのメッセージや直観をもらう必要があるのです
時にそれはシャワーの様に自分の身に訪れ、宇宙=神さんたちに常に見護られ、導かれていることを実感するのです

〈最深の統一、知意未分以前の統一とはどういったものか〉
「主客合一」の奥にある、「最深の統一」、「知意未分以前の統一」の境地を経験することとは、言い換えると、普遍的無意識(集合的無意識)に接続し一体となり、宇宙=神そのものを直観的に経験することだと思います
それは一体どういう状態かは言葉を超えた経験であると思いますが、何かがやってきて、直観で全てを瞬時に把握するということだと思います
言葉になる以前の直観的全体的認識だと思います

〈神人合一の状態とはどんなものか〉
「主客の合一」の境地では不十分である。その奥へも進まねばならない。そうした状態を西田は「神人合一」といいます
とありますが、「主客合一」でもなかなか難しいのに、その先にさらに「神人合一」あると西田が言及しているのが凄いです
ただ、「神人合一」の状態で真に「宇宙的精神」がはたらくとき、そこに顕現するのが「愛」にほかなりません、とありますとおり、おそらく通常の愛を遥か大きく超えて「宇宙的な愛」を感じるまで、無意識を掘り下げ、自らの魂を進化させ覚醒させよということだと思います

〈西田の「善」と仏教の「福田ふくでん」について〉
西田にとって「善」とは「大いなる自己の」こ開花であり、それに基づて「行為」することなのですとありますが、これは仏教における「福田ふくでん」と同じことだと思います
愛に基づく施しを他者に行う、このことが「大いなる自己」=「宇宙的な愛」の開花だと思います

〈修行、ツインレイ…が最終的に目指す目的地について〉
色々な修行の方法で、普遍的無意識(集合的無意識)、真実の愛(宇宙的な愛)に到達する道があると思います
仏教では坐禅を始めとした厳しい修行によって、エゴや執着を捨て去り、無意識を掘り下げ、普遍的無意識(集合的無意識)に到達し、宇宙=神に接続しメッセージや直観を得ることになり、真実の愛、真理に達することになると思いますが
自分はツインレイのあの人と出会い、程なく別離し、サイレント期間となり、あの人への愛の思いの長く激しく苦しい葛藤から、結果悟り、エゴや執着が全くなくなり、普遍的無意識(集合的無意識)まで到達し、あの人へ無条件、真実の愛に達し、宇宙さんたちと接続し、メッセージや直観を受け取るまでに覚醒しました
どの道(方法)を辿るにせよ、最終目的地は一緒だと思います
宇宙=神さんたちと接続し、他の人の自己と深い根底で1つに繋がることです

〈周囲に“愛で在る”ことの効果について〉
真実の愛に至った自分は、周囲に“愛で在る”ことができ、分け隔てなく「福田ふくでん」で愛の施しもできる様になっています
しかし、一方で、自分の愛の施しが、他の人に響いているのか、意味があるのかも気になっているところです
愛は見返りを求めず、一方向なので、その様なことを考えても仕方がないのですが、とりあえずは、愛を与えた人の無意識の“善”、“愛”の種を刺激することにはなっているのではないかと思っています
それがたとえ遠い将来であっても芽を出すのではないかと心の中で思っているのです

〈人生でとても悩み苦しむ時に起こっていることは〉
人は人生の出来事や悩みに苦しむことがあります
その時、実は外で苦しんでいるのではなく、内の心の中、心の奥底、無意識で魂の方向性との齟齬も含めとても苦しんでいるのだと思います
自分の湧き上がってくる感情(エゴ、執着)と境遇とに
それを悩みに悩んで、その暁にエゴや執着が取れてスッキリした時に、こだわりがなくなり、覚悟ができて、人生前に進むことができるのだと思います 

【以下は改定版の前に公開した番組内容の一部です】

“善”とは人格の実現である、と西田はする
普通の“善し”“悪し”ではない

自分の中に種の様にあり開花していく可能性

宗教は大いなるはたらき

それを求めるのは真の自己に出会いたい要求

大いなるものの前では自分は絶対的な存在ではないと自覚する
己は小さきものと思い至り、大いなるものに畏怖を持って向き合う
そのとき、自己の根底で可能性が開花し、人間は真の自己になる

これを西田は“善”とした

普通、宗教というとある宗派を思い浮かべるが、西田のいう宗教は“大いなるもの”からの呼びかけ

普通の“自己実現”には“私”があるが

西田は、人と不可分な関係こそ“自己”なのだ
“私”を手放していく
“私”であろうとすることから開かれていく、とした

表層意識と深層意識が1つになり“行為”される時、初めて“善”への道が開かれるという

“善”という人格的要求にしたがっている時、他者を尊ぶことができる

反して、他者を尊ぶことができない時、容易に“悪”とつながる

表層意識と深層意識が1つにつながった“行為”の際には必ず他者がいる

意識は層をなしている
意識
個人的無意識
普遍的無意識(集合的無意識)

心の深いところでは元々他者とつながっている(ユング、河合隼雄)

私たちの心が深くなれば深くなるほど開かれていく
自己が他者に開かれていく

絶対的善行とは、意識統一其者のために働いた“行為”

普遍的無意識は見失っている人もいるけれど、それぞれの人に備わっている

完全な善行は果てしなき“愛”に昇華する

その開かれ方が最も深くなった時、人類まで、今、過去までつながる

西田はそれを誰にでもできると言う

私を早々に超えて、私たちから、人類、宇宙までに行け

“善”は努力して作り上げていくものではなく、既にあるものを発見していくこと

生きる意味は私たちの中にあって、私たちが作っていくのではない

無限の宇宙本体と融合し、言葉を超え、神意と冥合するのである

私たちは1人1人人類、1人1人宇宙、そして宇宙は無限

“言葉”を超えて無限と1つになること
すなわち“善”となる

私たちは何ものかに生かされている
どう生かされているか
両方考えていかなくてはいけない

【番組の内容を受けた考察】
第2回はなかなか盛りだくさんの内容でした

以下、順番に西田と自分の経験、考えを対比させて考察して行きたいと思います

〈“善”は人格の実現であるとしていることについて〉
西田は、“善”を普通の善悪の善としては用いていませんが、自分流に言い換えてみますと、
私たちの心の底のどこかに“魂”というのがあるとすれば
“善”とは“魂の進化向上”と言い換えることができるかもしれません

番組でも「自分の中に種の様にあり開花していくもの」と言っていますので、私たちの心の中に既にあるのだと言えます

〈大いなるなるものについて〉
西田は“神”を大いなるものと考えていた様ですが、自分も今では人格的な“神”は存在せず、意識はありつつも透明と言いますか、あまねく偏在しているものと感じています
その意味でも、自分はその大いなるものを1つの特徴を示さず、宇宙=天=神と呼びかけています

〈大いなるものを意識し始めた時〉
番組では、大いなるものを求めるのは真の自己に出会い要求するとされていましたが
自分はツインレイと言われるあの人への“愛”の深掘り純化、エゴの脱落の過程(サイレント)で、宇宙さんたちからシンクロニシティ(シンクロ)という形で数字、言葉などの様々なメッセージが届けられた時、出会いました
その意味で、人それぞれだと思いますが、真の自己を探っていく過程で、大いなるもの=宇宙さんに出会うのだと思います

〈“私”を手放していく過程について〉
自分の“私=エゴ=我”を手放していく過程は、ツインレイのあの人とサイレントで別離した後も続いた長年の“愛”への葛藤の中でした
その結果、あの人に対しエゴが完全なくなり、執着も完全になくなり、“無条件の愛”を確立しただけではなく、周囲の人のも“愛で在れ”る状態になり、周囲の人に無意識が開かれて行ったのでした

〈表層意識と深層意識が1つとなった“行為”について〉
私=エゴ=我が、ある酷い苦難や葛藤状態で潰され、剥がされていくと、表層意識が深掘りされ、個人的無意識を超えて、普遍的無意識まで到達します
そこでは宇宙=天=神と接続、一体化し、神意、宇宙の愛と同一のものとなります
その時の“行為”は自然と他者を尊ぶものとなりますが、“愛で在る”ことから他人の幸せを望む“行為=施し”となります
仏教用語では「“福田”ふくでん」といいます

〈“善”人格的実現の目的〉
自分の言葉で言い換えますと、自分のエゴ=我が、何らかの形で潰され、剥がされ、普遍的無意識まで到達し、宇宙さんたちとつながることにより、“愛の存在”に戻ることです
そのことにより、いかなる人生の場面でも、どんな人に対しても“愛で在る”ことができる様になります
その際の“愛”は宇宙さんたちとつながっていることから宇宙の愛=無限となります

〈“善”は努力して作り上げて行くものではないということについて〉
西田は“善”は私たちの中にあって発見して行くものであって、作って行くものではないとしています
“愛”も同じです。上部の愛ではなく、“無条件の真実の愛”は自分のエゴが全て取り去られて、普遍的無意識で宇宙さんたちと接続することによって現れます
“善”あるいは“真実の愛”は、私たちの普遍的無意識まで到達して心の奥深くから発見されるのです
西田は私たちの心の深い底での無限の宇宙と神との冥合を説いたのです

〈私たち1人1人が“善”の実現、あるいは“真実の愛”に到達すると、地球上から戦争がなくなり世界平和が訪れるか〉
現在もウクライナとロシアが戦争し、ハマスとイスラエルが戦争し始めました
戦争のない平和な日本にいる私たちは一体何なんだと思うでしょう
しかも北朝鮮もミサイルはバンバン撃ってくるし、中国も武力的な圧力をかけて来るし、こんなんじゃ戦争はなくなりっこない、世界平和は無理だと誰しも思うでしょう
ただ、なぜ自分が日本に生まれたかの意味を考える時に、日本もかつて戦争をした国で他国も侵略しました。結果、大敗し、憲法上、戦争放棄の国になり、戦争を行っていない国となりましたのですが
しかし、世界的な軍事的脅威の下、防衛費はみるみる増大しています
注視して行き過ぎに対しては抑制も必要です

今平和であるがゆえに、まずは日本で
西田のいう“善”に到達する人が増え、他人に“愛”で“行為”できる人が多数になる必要があります
平和を確かに実現するための要因を増やし、モデルを確立するのです
それは戦争をしていない日本国だからできるのです

自分の考えを言うと
日本国内で“善”に到達する人を可能な限り増やすこと
上記の内容のとおり、“善”に到達に一番近い人は、修行をしている僧侶や厳しいトレーニングを積んでいるアスリートの他に
酷い苦難、逆境にある人
経済的困難、劣悪な家庭環境、ブラックな就労環境ーブラック企業、医療従事者、介護従事者ー、災害に遭った人などが該当すると思われます
この人たちはある意味、強度な圧力から自分のエゴ=我の変更が日々余儀なくされ、心の深掘りがなされ続けている人たちだからです
これらの人が苦難を乗り越えた先には、“善”に到達し、“愛で在る”ことになる可能性が大なのです
そして、そんな人たちが多くを占めることが、他人を尊び、国内を愛で潤し、日本国の平和を絶対的に揺るがない堅固なものにしてくれると確信するのです

どうか、皆さんもなんとか心が“善”、“愛で在る”まで到達して、宇宙さんたちと一体化した感覚で、日々至福フクの日々を送ってほしいです

次回、第3回に続きます(*´-`)💖

※参考に、西田が感じた悲哀を想起させる曲の動画リンクを載せます。よかったら聴いてみてください☺️
Handel=HalvorsenのPassacaglia


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